華奈。
華奈のバックボーンを描いた回です。
記憶の糸を十数年ほど遡る。
町内会費の集金の母の裾を追って出雲家を訪れたあの日。虚空を裂く鋭い音と共に、一心不乱に竹刀を振る匠の背中に、幼い華奈は心奪われた。
「タクちゃんがやるなら私もやる!」
客人に一瞥もくれず、ただ鍛錬に没頭する匠の姿。それは幼い華奈の目に、あまりにも鮮烈に焼き付いた。空気を切り裂く鋭い音、獲物を捉えるかのような鋭利な眼差し。その刹那のすべてが、彼女を剣士の道へと突き動かした。
「それなら華奈、習い事は剣道にしましょうか」
小学生になる段階で何かしらの習い事を、と考えていた母親の提案に、華奈は弾むような声を響かせた。
「はい、お母様!」
満面の笑みを浮かべた、元気いっぱいの返事だった。
「華奈ちゃん一緒に頑張ろうね」
「うん、私頑張るから」
その約束が、すべての始まりだった。
数年の時が流れ、二人の剣士が目覚ましい頭角を現すようになると、それを見守る大人たちの関係にも変化が訪れる。子供たちのひたむきな努力を支え、共に勝利を喜び、壁を乗り越える中で、出雲家と八雲家はただのご近所付き合いを越え、家族同然の深い絆で結びつけていく。
※※※※※
【中学生1年の春】
「お前らいつも一緒だけど、付き合って無いんだってな」
中学校という新しい環境になれば、にわかに色恋沙汰の話題が飛び交うようになる。別の小学校からやってきた見知らぬ同級生が、どこかで噂を聞きつけたらしく、いつも匠の隣にいる私に興味津々で「二人はどういう関係なの?」と一歩踏み込んできた。
「華奈は幼馴染の門下生だし、強いて言えば妹みたいな存在かな」
いつものことらしく、匠は涼しい顔をしたまま淡々と答える。
考えてみれば、小学校の低学年までは一緒にお風呂に入ったこともある仲だ。互いの下着姿を見ようが見られようが何とも思わない、文字通り「マジで妹」としか感じていなかった。それに、今の華奈はまだ顔のパーツのバランスが悪く、表現は悪いが猿のような幼さが残っている。お世辞にも異性として意識するような見た目ではなく、誰しも心惹かれることなどないだろう。
「ほぼお兄ちゃんだし、地区大会で優勝して並ぶのが目標よ」
それは華奈も同じだった。
幼馴染同士が幼少期に「将来結婚しよう」と純粋に誓い合うような、甘酸っぱい相思相愛からは程遠い、常に剣で語り合いたいと思っている筋金入りの「脳筋娘」である。匠に対してライバル心を燃やすか、出来のいい兄ちゃんのような感覚しか持ち合わせていなかった。
「なんだ噂通りの関係なんだね」
「そうだね、色恋沙汰より俺は剣だよ。まぁそれしか無いけどね」
「それ私もよ、剣さえあれば何も要らないわ」
このまま男女を意識することなく大人になり、いつかは誰かしらを選び、別々の道を歩んでいく。二人の頭の中に、そんな朧げな未来だけがあった。
※※※※※
【去年夏・横浜市中図書館】
頑固親父の狛と約束を交わしてからの匠は、まるで何かに取り憑かれたように、寝る間を惜しんで机に向かっていた。自宅に籠もるのも息が詰まるからと、調べ物を兼ねて涼しい図書館へ熱心に通う彼に、華奈もごく自然に同行するようになった。
「はいタクちゃん差し入れ。エナドリ買ってきたよ」
「あ、悪い。助かる」
隣で猛然とペンを走らせる匠の横顔を見つめながら、その気迫に引っ張られるように、華奈も隣の席を陣取っていた。地頭は決して悪くない。けれど、匠が目指す進学校・水蘭の壁は、さすがに高嶺の花だった。
「……ねえ、もしタクちゃんが水蘭落ちて、鬼龍高校に来たら、毎日一緒に帰れるね」
「おいおい。お前は剣道のために鬼龍に行くんだろ」
「そうだけどさぁ。……離れたら、なかなか会えなくなるから。寂しいじゃん」
必死に前を向く匠を、誰よりも応援している。けれど、進む道が分かれていく未来がすぐそこまで迫っていることに、華奈の胸はほんのりと痛んでいた。
【受験勉強の息抜きの日】
「花火も終わったし、まだ時間があるからちょっと遊んで帰ろうか」
夏の横浜が最も熱く沸き立つ夜――それが、横浜開港祭。
そのフィナーレを彩る花火大会は、関東近県から多くの人が詰めかける大型イベントだ。匠の友人たちを含めた男女六人のグループは、受験勉強の息抜きを兼ねて、この賑やかな会場を訪れ、夜風に吹かれながら特別な夏の夜を楽しんでいた。
「もうタクちゃん、少しは余韻を味わってから帰ろうよ」
あどけなさを残した声で文句を言う華奈は、急激に顔が整い始め、伸ばした髪と相まって艶やかな雰囲気を醸し出している。少女と大人の狭間で揺れる危うい可憐さを、乙女が纏う花柄の浴衣はそれを一層際立たせていた。
「ほんと男子って忙しないんだから、それよりお茶して帰ろ」
遊ぶといっても山下公園辺りまで、ふざけながら練り歩くとわかっている女子達は、立ち疲れを癒すためその場で別れる事になった。
「嗚呼、もう・・・」
行き先が決まれば、各自がそれぞれの方向へと動き出す。
いつものように匠と行動を共にしたかった華奈だが、女友達に腕を引かれて足が止まる。去りゆく背中を、後ろ髪を引かれる思いで見つめることしかできなかった。
【1時間後・ハマスタ付近】
「タクちゃんもう帰ったかな」
桜木町で友人と別れた華奈は、ひとり自宅を目指し、夜の横浜スタジアムの裏手を歩いていた。
昼間なら賑やかで通い慣れた道。だが、ひとたび陽が落ちれば人影は途絶え、闇にそびえ立つ巨大なスタジアムの壁は、まるで意志を持つ怪物のように彼女を見下ろしている。静寂の中、カランコロンと妙に高く響く下駄の音が、自らの焦りを煽る。その不気味さから逃げるように、自然と足早になっていた。
――少しだけ、心細い。
気づけば彼女は、ここにいるはずもない、頼れる幼馴染の姿を夜闇の奥に探していた。
「暗い夜道に、女の子ひとりはあぶねーよ」
「ひゃ!もう、びっくりさせないでよ」
暗闇から突然声を掛けられ、華奈は思わずたじろいだ。大概、闇に潜むものといえば魔物か不良と相場は決まっている。そして目の前の現実は、ご多分に漏れず後者だった。
「わりィわりィ、ちょっと遊び相手になってくれよ」
だるそうな声と共に、金髪にジャージ、咥えタバコという絵に描いたような三人の輩が、まるでダンジョンモンスターのように闇の奥から姿を現した。
「おお、結構な美人だな、オレらと遊ぼうぜ」
髪を伸ばし、誰もが羨むような美麗な令嬢へと変貌を遂げつつある華奈。豊かに主張し始めた双丘、すらりと伸びた背丈。少女から大人へと移り変わるその艶やかな容姿は、夜の闇に潜む獣たちにとって、格好の獲物に映ったに違いない。男たちの、ぎらぎらとした欲望を孕んだ下劣な視線が、容赦なく全身を嘗め回す。
「やだ……やめて、気持ち悪い……っ」
あまりにも生々しい男たちの欲望を前に、華奈の全身の肌がぞわぞわと粟立った。
「兄ちゃんあいつ知ってるぜ、剣道部のエースでメチャ強いんだよ」
そいつは同じ学校の生徒なのか、華奈のことを知っているようだった。ただ、面識は無く、雰囲気もどこか大人びている。おそらく、少し前に卒業したOBだろう。
『エース』という言葉を耳にした瞬間、兄ちゃんと呼ばれた男の顔が醜く歪んだ。泥水をすするような自分たちの境遇とは真逆の、眩しい世界に生きる華奈への理不尽な嫉妬と劣等感が、男の心を支配し始めた。
「チッ、なんかムカつくガキだな、あのさ着物は下着履かないだろ、本当かどうか見せてくれよ」
「ばっかじゃないの、アンタなんかに見せるわけないし」
くだらない問いに呆れつつも、性的な危機感を覚えた華奈は、男たちをキッと睨みつけ即座に踵を返し、足早にその場を立ち去ろうとした。
怒りを露わにして毅然と突っぱねれば、これ以上は絡んでこないはず――そう信じたかった。
だが、逃げ行く背中を見せれば、獲物を追いたくなるのが捕食者の本能だ。一番柄の悪そうな男は、華奈の物言いに機嫌を損ねたのか、のそりのそりと肩を揺らしながら距離を詰めてきた。
「じゃさ、俺と喧嘩して負けたらお前のみせろや、ワンパンで沈むだろうけど」
相手が反抗できないと分かった途端、無理難題を押し付けてその反応を弄ぶ。彼らは底の浅い悪意しか持ち合わせていない、本物のクズだった。
ゾッとするような寒気が全身を駆け巡る。到底、自分一人で対処しきれる相手ではないと、華奈は本能で察していた。――自身の操に危機が迫っている。
喉を締め付けられるような恐怖の中、彼女は助けを求めるように、必死で周囲へ視線を走らせた。
「 」
人影が少ないとはいえ、幾人かの通行人は存在はする。だが輩のただならぬ様子を察すると、巻き込まれたくないのか決して助けに入ろうとはしなかった。それどころか、関わり合いを恐れ足早に消え去ってしまう。――このままでは埒があかないと感じた華奈は、たまらず駆け出した。
ああもう最低、走りづらいよ……っ!
本来俊足の華奈なら逃げ切る事など造作も無い、しかし今宵は浴衣に下駄という最悪な組み合わせだった。思うように地を蹴れず、焦りばかりが空回りをしてしまう。背後に迫る足音が確実に近づき、またたく間に距離を詰められ、無残にも腕を強く掴まれてしまった。
「いや、離して……っ!」
「華奈、何やってんだ。こいつらに絡まれているのか」
「あ、あ……タクちゃん……っ」
視界を遮るように黒影が鋭く華奈の前に現れ、締め付けていた不快な輩の手は弾け飛んだ。春の柔らかなお日様のような優しい匂いが鼻腔をくすぐり、気がつけば私はもう匠の胸の中に抱きしめられていた。暴力的な恐怖が潮が引くように消え去り、今まで感じたことのない激しい鼓動が胸の奥で鳴り響く。
「なんだおめえ邪魔するなよこのカッコつけが、俺と勝負するつもりか」
「兄ちゃんそいつは極鋭館の匠だ。マジつえーからヤバいよ」
再燃した輩の荒い言葉に、抱きしめられていたにも関わらず、華奈の身体は恐怖で硬直しかけた――だが彼女は剣士としての本能が警鐘を鳴らし「彼の反撃を鈍らせてしまう」そう考えた瞬間、恐怖をかなぐり捨て背中へと滑り込む。全てを察した彼は、唐草模様の袋に手をかけ、真新しい一本の竹刀を引き抜く。
「俺の華奈に手を出す奴は容赦はしない、それでもいいならかかって来い」
凄まじい斬撃が空気を震わせ、金髪が激しく煽られた瞬間――竹刀の切先はすでに、輩の喉元を正確に射抜いている。豹変した匠の眼光は飢えた獣の如く鋭く、首ひとつ動かさず視線だけで、屠る順番を冷徹に見極めていた。
「ケッ白けたな。ガキはさっさと帰りやがれ」
ブレることのない切先。本物の戦いを知る者の眼光――。
凄まじい匠の気迫に「殺し合いの算段を組んでいる」と直感で感じ、仲間の助言もあり、剣士とこのままやり合うのは碌なことにならないと判断した輩は、捨て台詞を吐くと元の闇へと消えていく。
「タクちゃん……っ、ありがとう……本当に、怖かった……」
「もう大丈夫だ。さあ帰ろう家まで送っていくよ、武具店の帰りでよかったね」
いつもならいつものように手を繋ぐところだった。しかし、華奈は恐怖の余韻で震えは一向に収まらない。彼女を落ち着かせようと、匠は優しくその肩を抱き寄せ、家路へと歩き出す。夜の静寂の中、寄り添って歩くその姿は、まるで若い恋人同士と見間違えるほど自然だった。
――嗚呼、暖かい……。
今は真夏、気温や体温の話ではない。恐怖から抜け出した華奈の心の温度。それは、霜が降りる冷え切った夜に温かい湯たんぽを抱いた時のように、じわじわと優しく胸の奥へ溶け込んでいく。だが、これは安堵から湧きあがった安心ではなかった。
いつまでも抜けない、終わるまで抜けない、恋の始まりを告げる小さな、とても小さな『心の棘』が生まれた瞬間だった。
「今日は助けてくれてありがとう。……ねえ、なんで『俺の女』って言ったの?」
「卒生がいたから妹だとバレるし、そう思わせないと素直に引いてくれないだろ、あの手の輩は」
「そっか……そうだよね……」
助けるための方便だと分かっていても、それでも、匠の口から出た『妹』という言葉に、胸の奥がチクリと痛む。けれど、生まれたばかりの小さな棘は、彼女の恋に自覚を促すにはまだ少々物足りない。奇妙な違和感に戸惑いを覚えることしかできなかった。
※※※※※
【庭の離れ・匠の部屋】
「もぅ、タクちゃんはどこほっつき歩いていたのよ」
高校進学が決まり、猛勉強の日々から解放された匠は、昼夜を問わず仲間と遊び歩いていた。いつも傍にいた華奈は置いてきぼりにされ、口を尖らせ不満そうな顔をしている。
「悪い悪い。たまには男子同士でバカやりたかっただけだよ」
――というのは、匠の優しい嘘だった。
華奈が第一志望の私立に落ちてしまったことを知っていたからこそ、浮かれて彼女を傷つけまいと、気を利かせて誘わなかったのだ。
だがそんな真意を知る由もない華奈は、中学を卒業して一緒にいられる残り少ない時間が削られていくことに、ただただ寂しさを募らせていた。
「そっか、それなら許してあげる」
遠回しな釈明に納得してくれたのか、華奈はいつものように笑って許してくれた。ほっと胸を撫で下ろす匠だったが、ふと壁の時計に目を走らせる。
――二十二時二十分。
彼女がこの部屋に潜り込んできた時間は、すでに二十二時を回っていた。そろそろ帰宅を促さなければと、匠は内心で焦り始める。
「あのね、明日久しぶりに模擬戦して欲しいな。……それと、今日ここに泊まらせて♡」
「模擬戦はいいとして、何故ここに泊まる(汗)」
前半の可愛いおねだりから一転、後半にぶち込まれた爆弾発言。
突然のお泊まり宣言に、思考がフリーズしかけた匠は、なんとか彼女を説得しようと身を乗り出す。だが、当の本人は「あっ許可は取ってあるから」と肩を叩かれ「あー寒い寒い」とわざとらしい声を上げながら、勝手に匠の布団へと潜り込んでしまった。
(おやすみタクちゃん……多分、わたし恋してる……)
強引に布団を占領した彼女が、わざわざこんな暴挙に出た理由――それは。
胸の奥で育ち始めた『小さな棘』の正体――自分の本当の気持ちを、確かめるためだった。
(ううう、触れないように、絶対に触れないように……!)
一方で、同じ布団の端っこで完全に石化している匠は、背中に伝わる華奈の体温と甘い香りに、破裂しそうな心臓を必死に抑えつけることしかできなかった。
ほんの少し寝返りを打たれただけで、理性が消し飛びそうなほどの至近距離。
長年築き上げてきた『幼馴染』としての境界線が、今、静かに崩れようとしている――。
さぁこの後の展開は…甘酸っぱいです(笑




