第六十一話
空を突き抜けるようにゴンドラは飛ぶ。鳥よりも高く、雲の波間を掻き分けて行く。
『ひぃえぇぇ』
ルセアがゴンドラの縁からへっぴり腰で下を見て悲鳴を上げた。
『そんなに怖いなら下なんて見なければいいのに』
『だで、見ずも怖わだず(だけど、見ないのも怖いんです)』
見たら怖いが、自分がどんな怖い場所に居るのかを確かめずにいられない人の哀しい性だ。
『おかしなの』
シーリスはクスッと笑った。シーリスには怖いものを確かめようなんて気持ちは無いので、そうせずにいられない人を不思議に思う。何より、今このゴンドラはシーリスの魔法で動いているのだから、当の本人が怖い筈もない。
シーリスはゴンドラを、帆に風魔法を孕ませるのではなく、直接移動の魔法で動かしている。ムービングに合わせて風魔法を併用しているので、甲板上はそよ風を感じる程度。麗らかな日射しも浴びて、心地好い。浮き上がることだけは浮遊器に任せているので、魔力の負担も少なく、多少気を抜いても安全だ。
このフローターと言うものは、ムービングの亜種の魔法で、どんな向きに置いても必ず空に向かって浮き上がる。シーリスはそれを初めて知った時には「何て無駄に高度な魔法を」と思ったが、そう言う作りだからこそ誰でも気軽に使えるのだと考え直した。この器具を生み出した人は天才だ。そんな天才によって今の世界の文明が形作られているのだとの思いを巡らせもした。
空に高く上がっているのは他でもない。他のゴンドラより十倍以上も速く飛んでいるために、地上に近いと突起物などに激突する危険が極めて高い。安全のためなのだ。それでも普通にはあり得ない高さを飛んでいれば、怖い人には怖いものだった訳である。
通常なら数日掛かりの行程を半日余りで消化して、目的の町の上空に差し掛かる。徐々に速度を落とし、高度を下げるシーリス。その途中、目的地の停泊場で不審な行動をする二人組を目撃した。こそこそとゴンドラに侵入する男と、周囲を警戒する見張りらしき男だ。
見張りとして外に残っているらしい男に気取られないよう、太陽を背にして高度を下げる。
『ひぃえぇぇ』
急にそれまでより下降速度を上げたことによる浮遊感でルセアが悲鳴を上げる。
『急ぐから我慢して!』
シーリスは一応声を掛けたが、ルセアの耳には届いていない様子である。
男が地面に落ちる不自然な影に気付き、眼を細めながら太陽の方を見上げる。そこには大きな黒い影が浮かんでいた。
「何だ? ゴンドラか?」
ゴンドラにしては不自然な場所を飛んでいるので半信半疑の男だ。
その動きに気付いたシーリスがゴンドラを急停止。「ぐえっ」とカエルが潰れたような声をルセアが漏らすが、無視だ。ムービングを切ってゴンドラをフローターで浮くに任せたら、シーリス自身はゴンドラから身を投げる。
『シーリスさん!』
あまりのことに、プローゼン語でシーリスを呼びながら、シーリスが身を投げた縁へと走るルセア。身を乗り出すようにして見た先には、弧を描くようにしながら斜めに落ちて行くシーリス。その尋常ならざる動きに、やっとシーリスがムービングを自身に掛けているのだと悟って安心し、へなへなと座り込んだ。
対する男は目を凝らす。大きな影から小さな影が飛び出したように見えたが正体が掴めていない。そしてそれが人影だと判った時には、男に猶予は残されていなかった。
シーリスは落下の勢いもそのままに、前方に障壁を張って男に体当たりする。全身を砕くかのような衝撃にもんどり打った男はあっさりと沈黙した。
シーリスは一旦旋回した後でゆっくりと甲板に降り立ち、即座に船内へと潜入する。
「割と持ったものだ。だがもうバリアはねぇ。温和しくして貰おうか」
野太い男の声が聞こえた。
「お前のような輩には姫様に指一本触れさせない!」
涼やかな女性の声。しかし切羽詰まった声だ。シーリスは二つの意味で安堵した。一つは男達を無頼漢と決め付けて行動したこと。間違っていたら面倒なことになった筈で、そうならなくて良かったと考える。もう一つはとにかく間に合ったことだ。
「そこまで也」
部屋に踏み込んだシーリスは、すかさず男の四方に、男に向けてバリアを張る。
マリアンに伸ばそうとしていた男の手が弾かれた。男が後退ると後ろのバリアにぶつかり、それ以上を動けない。左右を見れば、そこにもバリア。
「何だ、これは!?」
前後左右全てにバリアが張られている。しかしバリアとは基本的に術者本人から外に向けて張られるものなのだ。誰も居ない向きからまで張られているのが理解できない。
「糞が!」
斧をバリアに叩き付ける。しかし今度のバリアは小揺るぎもしない。ひたすら斧を叩き付け続けるが、やはりビクともしない。最後は斧の柄が折れた。
「ふざけんな!」
荒い息を吐きながら叫んだところで漸く男はシーリスの存在に気が付いた。サーシャとマリアンは既に気付いていたが、目の前で男が暴れている状況では話し掛けるどころでは無く、声を出していなかった。だから余計に男は気付けなかったのだ。




