第292話 ミシェルの戦い③
黒い炎が燃え上がる。
「っ!?」
名前も聞いたかどうかも定かではないが、かつてその暑苦しいまでの見た目、性格、そして炎はたしかにミシェルの記憶の片隅にあった。
記憶と言っても、すぐさま凍りつかせて一瞬にも満たない内に勝負が決してしまったために片隅の中でもすぐに上書きされて彼方へと消えていってしまう類の、言ってしまえば彼女にとっては些事でしかなかった。
それが今、黒い仮面と黒い炎によって正に上書きされた。
(あの時はたしか拳を使っていた。ミナのような近接格闘タイプだったわね)
黒炎を拳に宿した仮面隷奴───漁火健吾が地面を蹴ると、弾丸の如き速さでミシェルへと驀進する。
(速い。けどミナほどではない)
杖に横乗りになって上空へ回避しようと試みる。しかし、地面から浮き上がりはするものの、それ以上高度を上げられない。
(これは───)
背後の仮面隷奴───倉地彩乃を肩越しにチラリと見る。すると彼女の持つ巨大な黒い戦斧が妖しい光を放っている。
(まさか重力操作? でもそれなら先程地面に引き寄せられるように落ちたのも頷ける)
その間にも漁火の黒炎がミシェルの目の前まで迫っていた。それをミシェルは虫でも追い払うかのようにぺしりとたたき落とす。
(……?)
かすかな違和感を抱くミシェル。
一方、拳を逸らされた漁火はそのまま地面に大穴を穿った。
ミシェルはスィ~っと地面の上を滑るように飛行しながらその範囲から待避する。
(今のは……?)
些細な違和感だが服にこびりついた汚れのように、彼女の思考の領域にたしかな痕跡を残して、その集中を乱そうとする。
その思考の間隙を縫うように頭上から圧が落ちてくる。
巨大な戦斧を振り上げた倉地だ。
「来たわね。〝無乳〟少女」
心なしか圧が増した気がした。
だがその圧もひらりと容易く躱す。
(わずかだけど反応はあった。だけど……)
【念晶の輝き】事件の際に保護された倉地を取り調べた迅水めぐりから、倉地が自分の体型にコンプレックスを抱いているのは聞いていた。
そのコンプレックスのお陰で倉地が正気を取り戻したことも。
(…………ワタシは今何を?)
黒仮面───仮面隷奴は駆逐すると誓っているミシェル。それで先日も美那とちょっとした口論になった。
しかし今彼女は、倉地を正気に戻そうとした自分に疑問を抱いた。
(黒仮面は必ず滅ぼす。だけど……)
|仮面隷奴を庇った美那の姿が脳裏を過る。
倉地彩乃との接点は多くはない。
【念晶の輝き】本部前で始めて会った時が、同じ場所に居た時間が一番長かったかもしれない。
だけどそれは倉地が黒仮面にいいように操られていて、保護された後は【異能研】の訓練や業務に真摯に取り組んでいたのを何度か見たことがあった。
(だけど今は黒仮面───)
───でも行方知れずになってからまだ一日も経ってないじゃん! そんな短時間で二段階も限界を超えられるモノなの?
美那の放ったセリフが甦る。
───無理矢理暴走させる物質が存在するし、黒仮面は意図的に【念晶者】の暴走を引き起こすことが出来る。ワタシはそれをどちらも目の当たりにした
それに対してミシェルはそう反論した。
戦闘中ではあるものの、極度の集中によるクリアで冷静な思考が並列して自分のセリフを分析する。
(例の〝黒いカクテル〟。たしかにあれは【念晶者】を暴走させる物質ではあるけれど、グラス一杯だけでは暴走には至らないというのがカナミの結論。実際あの日暴走したのは追跡対象だった一名のみ。その口ぶりからは常連だったと思われる。つまり暴走するには少なくとも数杯分は必要。無理矢理量を飲まされたか、濃度の高いモノを摂取させられたか、静脈注射のように直接体内に打ち込まれたか)
視界の端で漁火が突進してくるのが見えた。
氷壁を展開してその矛先を逸らすと、漁火は突進の勢いを殺すことが出来ないようでそのままフェンス激突コースへ。
(仮面隷奴が【念晶者】の暴走を意図的に起こせるのだとしても、予め仕込んでいなければいけない可能性が高い。コウムラに関しては例の人工的に造られた疑いのある黒い【念晶具】をしていた。オリエの時ははじめから暴走していたように思えたけれど、黒い靄のようなものが溢れてからワタシの氷を砕くまでに〝力〟を増した。その事からも事前の仕込みが必要と思われる。そして……)
戦斧を片手で振り回す倉地と、激突したフェンスの辺りからのそりと立ち上がる漁火の二人を順に見る。
(あの黒い仮面。カゼサキと同じ仮面に見えるけれど、あれが例の黒い【念晶具】と同様の代物だとすれば、ミナの言っていたことにも一応の辻褄らしき正当性が生まれる。つまりあの仮面を破壊すれば───)
不意に思考にどす黒い何かが混ざり込んできた。
ぶんぶんと頭を振る。
(───違う! あれは黒仮面。仮面隷奴。ワタシが倒すべき仇!)
どす黒いソレは、彼女の中にあった渦巻くモノに手を伸ばしていく。
ミシェルの目は怒りに満ちていた。
つづく




