第285話 〝絶望〟との遭遇
夕方。
ミシェルは日課の礼拝に、学院校舎裏の礼拝堂を訪れていた。
「…………っ」
いつもなら、聖母像の前に跪けば何モノにも心乱されることなく心穏やかに祈りを捧げている。
だがこの日は、いつものように一心不乱に祈りを捧げることが出来ないでいた。
無論彼女の信仰が揺らいだワケではない。
理由に心当たりはある。
彼女の中でどす黒いナニかが渦巻いていて、それをどうにか鎮めようとしてはいるのだが鎮めようとすればするほどソレは、眠れぬ夜の考え事のように彼女の心を掻き乱す。
眠れぬ夜のように気づけば眠っていたという兆候もなく、彼女の中のナニかはいつまで経ってもそこで蟠っている。
そういう状況が彼女の心を更に掻き乱すことで悪循環に陥っていた。
(……昼間はミナに当たってしまうし、まったくワタシらしくない)
苛ついているという自覚はある。
いつもであれば、些細なことなら自然と風化していくし、興味のないことであれば記憶にも残らない。
あの時から自分の果たすべき使命に邁進してきて、それ以外のことには目もくれずに生きてきた為にそういう習慣がついた。
だがこの日に限ってはそれを制御出来ないでいる。
つまりそれは、彼女の果たすべき使命が───討つべき仇敵の存在を強く感じているからに他ならない。そしてそれは〝黒晶人形〟とか黒仮面程度ではない。更に上位の、より凶悪な、遙かな深遠の。
強い感情は時にヒトを盲目にさせる。
盲目にさせると言えば恋を思い浮かべる人がほとんどだろうが、恋愛とは対極にあるであろう怨恨───つまり恨みや憎しみといった負の感情もヒトを盲目に陥らせる。
負の感情による盲目が今の彼女───ミシェル・J・リンクスの状態だ。
「……ふぅ」
一度頭を切り換えようと立ち上がったその時、
「───っ!?」
心臓が凍りついてしまいそうな程の禍々しい気配を、彼女の後方、礼拝堂の入り口辺りから感じた。
(……この気配は)
〈ニヴルヘイム〉の柄に手をかけながらミシェルは振り向いた。
「っ!?」
礼拝堂は今明かりを点けていない。その状況下で堂内がほのかに明るく見えてしまうほどの漆黒が、高さ三メートルはあろう扉を覆い隠すように鎮座していた。
(気配はたしかにこの前の紫色のヤツ。だけど……)
ミシェルが漆黒の出方を窺っていると当の漆黒は徐々に縮まっていって、やがて目深にフードを被ったローブ姿のヒトの形をとった。
そしてローブの奥に銀色の光が二つ灯る。
瞬間、総毛立つとともに身体の奥からナニかが湧き上がってくるような感覚があった。
「こんばんわ」
「───っ!?」
ソレが言葉を発した事にミシェルは驚愕した。
「ふふふ……」
ソレは不敵に嗤う。
(……この威圧感。黒仮面の比ではない)
ようやく巡り会えた宿敵かもしれない相手を前にミシェルは二の足を踏む。
(相手はとても強大。だけれど、〝ヤツら〟を目の前にしてワタシに引き下がるという選択肢はない!)
〈ニヴルヘイム〉の柄を握る手に力を込める。
「え……?」
〈ニヴルヘイム〉を引き抜く事が出来ない。
(威圧感による金縛り? それともワタシ自身がアレを恐れて───)
頭を振る……が、やはり頭も動かせない。
(なら〈ニヴルヘイム〉に直接魔力を……)
しかし何の反応もない。
(な───)
柄を握ったままの右手に、今まで感じたことのない重みと冷たさを感じた。
(〈ニヴルヘイム〉が応えてくれない……?)
〈ニヴルヘイム〉の〝力〟はかすかに感じられる。かすかにというか非常に弱く。励起まで至らない程に。
まるで目の前の漆黒に萎縮してしまっているかのように。
「どうかしましたか?」
目深に被ったフードのせいで見えないが、声で口許が嗤っているのが分かる。
(くっ……)
ミシェルに残された攻撃手段はただ一つ。
───〈ニヴルヘイム〉に頼らずに魔術を行使する。
ただそれには詠唱が必要になるためいつもより時間がかかる。
だが状況が四の五の言うのを許さない。
(───っ)
ミシェルは魔力を集中させる。
すると、今は簪として彼女の頭部を飾っている杖が淡い光を放ち始めた。
……が、すぐに光は消えてしまった。
(え……?)
魔力が拡散してしまったのを自覚してミシェルは狼狽する。
(これ……は……?)
と、外から入ってくる淡い光に気づいた。
(赤い……月光? まさか───)
赤い月光のせいか、いつの間にか堂内の雰囲気もおどろおどろしいモノに変わっていた。
「抵抗は以上ですか?」
静かな口調でありながら、周りの雰囲気も相まって狂気を含んでいるように聞こえる。
「聞いてはいたものの、〝光の欠片〟使いがここまで弱体化しているとは」
(〝光の欠片〟? 前にもどこかで……)
「となれば最早、貴女には無用の長物でしょう」
ローブの漆黒が一歩前進する。音は無く、まるで中に浮いているかのような動きだった。
「しかし元はと言えばソレは私の物」
また一歩前進する。
(〈ニヴルヘイム〉が……〝ヤツら〟の物?)
「返してもらうとしましょう」
そしてまた一歩、ミシェルに近づいてきたその時、
───しゃぁん。
音がした。
金属同士を打ち合わせたような、それでいて澄んだ音。
(今のは……?)
ふと周囲の変化に気づいた。
外から入ってきていた赤い月明かりが、淡く仄かな白へと戻った。
「……どうやら邪魔が入ったようですね」
その漆黒が徐々に薄れていく。
───近いうちにまたお会いしましょう。
そう言い残して、ソレは消えた。
まもなくミシェルの金縛りは解け、その場に膝から崩れて床に手をついた。
「ハァッ、ハァッ……」
全身から汗が噴き出し、過呼吸気味に息を荒くしていた。
「……なんてこと。アレがワタシの追っていた仇だというの……?」
そしてハッとした。
「ワタシを助けてくれたのは一体……?」
よろよろと立ち上がり、扉へ向かう。そして全体重をかけるようにして扉を押し開けた。そして辺りをキョロキョロ見回す。
すると、校舎へ向かう林道を遠ざかっていく白い影を見つけた。
「……あれが?」
それからまもなく、白い影は夜の闇に消えていった。
つづく




