第206話 涼香①
ある日、剣術の稽古から帰った叢丞は再びその現場を目撃した。
「何をしているんだっ!?」
再びというのは叢丞の感覚であって、実際には何度あったか彼には分からない。
だが度々涼香が怪我をしていたのは気づいていた。
以前目撃したこともあって叢丞は彼を疑っていたが、涼香が大丈夫と言うので何も言わなかった。
しかしこの日、叢丞はそれを目撃した瞬間、見て居てもたってもいられなかった。端的に言えばキレた。
「チッ」
舌打ちをする清九郎。
涼香は出来たばかりの傷を袖の中に隠した。
「何をしていると訊いているんだッ!」
「兄様っ! 涼香は大丈夫ですから……」
「涼香は黙っててくれないか」
「兄様───」
いつもの叢丞と違うと察したのか涼香が戸惑っているのさえ気づかない。それほど叢丞は激昂していた
「清九郎」
「なんです? 〝義兄上〟様?」
「何故こんなことをする……?」
清九郎はいつもの冷たい目を向けてくる。
「相変わらず気に食わない目だ」
「なに……?」
「〝力〟が戻ったからっていい気になるなよ?」
清九郎なら気付いて当然だろう。
「今はそんなこと関係ない。今は何故君が涼香に暴力を振るうかってことだ。仮にも許婚だろう?」
「許婚……ね」
「え……?」
一瞬だけ冷たい目が哀しさ帯びた。
しかしそれは見逃してもおかしくは無いほどの一瞬。
そして既にそれは再び冷たいものになっている。
「こんなのの許婚にされたなんて、ふざけているにも程があるっ!」
「こんなの……だと?!」
気付けば叢丞は清九郎の胸倉を掴んでいた。
「なんだ? やるのか? 〝力〟で俺に勝てると思うなよ?」
清九郎が何らかの術を発動しようとする。しかしそれは叢丞に止められた。
「なッ?!」
清九郎それに驚きを隠せなかった。
「僕の〝力〟が戻ったと言ったのは君だろう?」
剣術の稽古の後に行う木刀を使った陰陽の〝力〟の訓練により、叢丞の〝力〟はまだ完全とはいかないまでも、失う前以上に精緻な扱いが出来るようになっていた。
「それに、毎日咲夜と剣を交えているのは伊達じゃないッ!」
掴んだ胸倉を高く持ち上げる。
毎日毎日、来る日も来る日も心陰水薙流剣術の稽古をしている叢丞にとって、術の修練と何か研究らしきモノだけをしている線の細い清九郎を持ち上げることは造作も無いことだった。
「ぐっ……」
「兄様っ!」
叢丞の腕に宙吊りにされ、少しずつ清九郎の顔色が変わっていく。
手足をじたばたさせて逃れようとするが、じたばたすればするほど絞まっていく。
「い、いいのか……?」
絞められながらも清九郎は何とか声を絞るように出した。
「何がだ?」
「本家の俺に、手を出して……」
ここで清九郎は本家の名前を出してきた。
だがその程度で叢丞の憤りは収めることは出来なかった。
「本家分家は関係ない。お前に話しているんだ、谷曇清九郎」
「なん……だと?」
「それとも、〝谷曇〟という家の後ろ楯が無ければお前は何も出来ないのか?」
「き……さまぁッ!?」
今度は清九郎の方が激昂するが、優位は完全に叢丞の方にあった。
「兄様。あの……涼香はもう大丈夫ですから」
「しかしっ!」
「お願いします」
涼香に懇願されて叢丞はゆっくり腕を下ろした。
「かはっ! げほっげほっ……!」
急に空気を吸い込んだせいで清九郎が咳き込んだ。
「俺だって……」
「え?」
「俺だってな、谷曇の威光など借りず独り立ちする為に、軍の研究所に入ったんだ。それなのに……」
「清九郎……」
叢丞は彼の心がほんの少しだけ垣間見えた気がした。
清九郎はハッと我に返ったように顔を赤くした。
「ふんっ」
そして急に立ち上がり、叢丞に背を向けた。
「……あんたは妹を一番に考えているかもしれないが、一番妹のことを解かっていない」
そう清九郎が背中越しに叢丞に告げた。
「どういうことだ?」
「忠告は一度きりだ」
「清九朗様っ!」
「ふんっ」
涼香を振り払い、清九郎は廊下の角に消えた。
(僕が涼香のことをわかっていない……か)
叢丞はふと涼香を見た。
「………」
清九郎に振り払われ廊下に座り込んでいた涼香は、ただ呆然と床を見つめていた。
「立てるかい?」
「あ、はい……」
叢丞の差し伸べた手に涼香が手を伸ばす。
「───っ!」
しかしその手は触れることなく引っ込められた。
「涼香……?」
「あっ! いえ、その……」
涼香は取り繕う言葉を捜しているように見えた。
「その、いつまでも兄様に甘えるわけには行きませんから……」
「……これくらいのことで甘えてるなんて思わないよ」
「自分で……立てますから」
父上が亡くなってから、いつも叢丞の後ろにくっついて甘えてきた涼香。
だから彼女は自分には隠し事はしないだろうと叢丞は思い込んでいた。
しかし涼香ももう年頃の女の子だ。叢丞に限らず他人に隠しておきたいことの一つや二つはある。
そのことに少し寂しさを覚えながらも、その時はただその場を去っていく涼香の背中を見送る叢丞だった。
つづく




