第194話 海からの使者②
数日後の夜。
薄っすらと霧のかかる中を、叢丞と咲夜、そして白銀が歩いていた。
「今夜も出なそうだね」
二時間近く歩き回り真夜中を過ぎたところで叢丞が言った。
「かもしれんな。だが油断は禁物だ」
「うん。霧が少しずつ濃くなってきてる」
「それに満月も近いからな」
今は薄っすらとぼやけているが、月が真円を描くまで数日だというのは明らかだった。
「グルルルルルルル……」
白銀が不意に低く唸りだした。
「白銀?」
白銀は唸りながらまっすぐ霧の向こうを睨みつけている。
「向こうに……何かいるの?」
その瞬間、叢丞の背筋を冷たいモノが滴り落ちる。
「どうやら今夜はお出ましのようだな」
咲夜が叢丞達の前に一歩出てスラリと刀を抜いた。
不意に叢丞達の前方にぼんやりと人影が浮かんだ。それは子供くらいの小さな姿をしている。
「あれは……?」
叢丞はその姿に、どういう訳か既視感を覚えた。
刀を構える咲夜。叢丞は更にその前に出た。
「叢丞! 危ないぞ! そいつがどんなヤツかもまだ……」
「君は……誰?」
咲夜の声を無視するように、叢丞はソレに話しかけた。
「……………………………………………………」
十秒ほど沈黙が続いた。
短いようで、長く感じられた十秒。
その十秒の後、ソレは濃い霧に溶け込むようにして姿を消した。
「危ないじゃないか、叢丞!」
慌てて咲夜が叢丞に駆け寄る。
「ごめん。でもアレは殺意も敵意も悪意も無かった。ううん、僕らの前に現れてからそれが消えたのかな」
叢丞はその何かの居た方を見た。
「まさか、ね」
「叢丞。そうやって誰彼構わず優しくするのは別に構わん」
「別に誰彼構わずってつもりはないんだけど」
その自覚の無さに咲夜はもう何度目か分からない溜め息を吐いた。
「とにかく、無闇矢鱈と俺より前に出るのはやめてくれ。いい加減寿命が縮む」
怒っている咲夜の顔が、今にも泣きだしそうに見えて叢丞は戸惑った。そんな彼女の表情は一度も見たことか無かったからだ。
「う、うん。……ごめん」
「まったく」
と咲夜が説教を続けようとしたその時、
「──────ぅぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
遠くから男の悲鳴が聞こえてきた。
「咲夜っ!」
「いくぞ!」
濃くなる霧の中を駆け抜ける二人と一頭。
「さっきのに襲われたと思う?」
「どうだろうな……」
白銀の嗅覚を頼りに進んでいくと、やがて人が倒れているのが見えた。
「おいっ! 大丈夫か!」
「ぅぅ……」
意識が朦朧もしているだろうその人物に咲夜が駆け寄る。
「お前は……!?」
そして叢丞もその顔を覗き込む。
「一瀬さん!?」
「ぅ………………、叢丞……殿?」
「はい。八澄叢丞です。大丈夫ですか?」
「俺もいるぞ」
「咲夜殿……」
一瀬は少し罰が悪そうに顔を背けた。
「俺が言ったことを忘れたか?」
「すみません。言われていたのに出歩いてしまいました」
「なんでそんなことをしたんですか?」
一瀬は少しだけ躊躇うような仕草をした後、口を開いた。
「咲夜殿は夜出歩くなと私に言いました。ですが貴方がたはその夜に出掛けていく。少々野暮かとは思いましたが、それ以上に興味を引かれまして」
「『好奇心は猫を殺す』という諺が英国にあるらしい。〝過剰な好奇心は身を滅ぼす〟という意味合いだそうだ」
咲夜はいつに無く真面目な顔で言った。
「はい……」
見るからに一瀬は消沈していた。
「まあ、無事ならいい。これに懲りたら二度と夜の霧ヶ浜を歩かないことだ」
「は、はい」
「それじゃあ送っていきますよ。僕達もそろそろ引き上げようと思っていたところですから」
「ありがとうございます」
叢丞が手を引き一瀬を立ち上がらせた。
「それじゃあ白銀、先導よろしくね」
「ガウッ」
そして濃い霧の中を進んでいく一行。
「それで何があった、一瀬」
「……それがよく分からないのです」
一瀬は躊躇いがちにそう言った。
「よく分からない?」
「貴方がたの後を追うように歩いていたつもりだったのですが、いつの間にか霧が濃くなっていて、進もうにも道もよく見えないので立ち往生していました。それにしてもすごい霧ですね」
彼らの周りは一寸先も見通せない濃い霧が立ち込めている。
「山幸彦の伝説は知っているか?」
一瀬の話の腰を折るように咲夜が訊いた。
「え? ええ、まあ、詳しくは分かりませんが少しなら。出産の場面を見ないように言ったにも拘らず山幸彦はそれを見てしまい、怒った豊玉毘売が海へ帰ってしまったとしか」
「それだけ知っていれば十分だ。この霧はその約束を破った山幸彦への罰で、豊玉毘売が生み出していると言われている」
「この辺りでは、海からこの霧が来ると豊玉毘売の使いに連れ去られてしまうから外に出ちゃ駄目だって小さい頃から聞かされて育つんですよ」
叢丞は数日前の茉莉との会話を思い出しながらそう説明した。
「なるほど。ではさっきのアレはもしかした豊玉毘売の使いだったのでしょうか?」
「どういうことだ?」
一瀬の一言に二人の目が彼に向いた。
「お二人が駆けつけてくる少し前、私の目の前に突然小さな人影が現れました」
「小さな人影?!」
叢丞と咲夜が顔を見交わした。
「こんな夜分にどこの子供だろうと声を掛けようとしたところ、目が赤く光ったのです」
「目が赤く……?」
叢丞達が出会った人影は目を光らせるようなことは無かった。
「背筋に冷たいモノが走り、恐ろしくなって私は刀を抜きました」
「そこを襲われたということか」
「はい。襲いかかってきたところを受け、勢いのまま突き飛ばされ意識が朦朧としていたところをお二人に声をかけられました」
「一瀬さん程の達人でも敵わないなんて」
「そんな、私なんてまだまだ」
一瀬は謙遜する。
「まあ、未知の存在相手にいきなり立合ってみせろというのがどだい無理な話だ。命があるだけありがたいと思え」
「そうですね。しかし、お二人は先程私が遭遇したモノについてお詳しいようだ。あなた方は一体……?」
「一瀬殿」
不意に一瀬を呼ぶ声がした。三人がその方を向くとすぐ近くに咲乃が立っていた。
どうやら話をしているうちに水薙の屋敷の前に辿り着いたようだった。
「あれほど夜の外出はお控えくださいと言ったと思いますが、これはどういうことでしょうか?」
「も、申し訳ございません」
申し開くこともせずに一瀬はまず頭を下げた。
「我が家に住み込む事になったからには、我が家の仕来りには従っていただかないと困ります」
「住み込む事になった?」
咲乃の言葉を聞いた叢丞が咲夜に訊ねた。
「ああ。心影水薙流を学びたいと言うのでな。遠くから来たようなのでそうする事になった」
「ふ〜ん」
「どうした? 咲乃をあたたかく見守るような目で見て」
「咲乃にもとうとう〝春〟が来たのかなと思ってね」
それを聞いた咲夜は一瞬キョトンとしたが、すぐ盛大に溜め息を吐いた。
「そんなモノ、とうの昔に来ている」
「そうなの?」
「ああ」
その時チラリと咲乃が叢丞を見た。
「こんばんは、咲乃」
「こんな夜中に貴方が出歩いているのを涼香が知ったら、どんな顔をするやら」
「ごめん。でも、これは必要な事だから」
真剣な顔で叢丞は言う。
すると咲乃は薄っすらと頰を染めて顔を背けてしまった。
「咲乃?」
「涼香が気づかないうちに早くお帰りになったらいかがですか」
そう怒気を含んだような声で言うと、咲乃はさっさと門の中へ入っていってしまった。
「……僕はまた何かしてしまったのかな?」
「さあな」
咲夜は意味あり気に微笑むだけだった。
「さて。咲乃ではないが、早く帰らないと涼香が気づいてしまうぞ」
「そうだね。じゃあ帰ろうか、白銀」
ガウッと答えると白銀は八澄の屋敷の方へ歩き出した。
「それじゃあ、おやすみ咲夜」
「ああ、おやすみ」
「咲乃にもよろしく言っておいてくれるかな」
咲夜は背中越しに手を上げてそれに応えた。
そうして家路につく叢丞。
「さあ、帰ろうか白銀」
白銀は頷くように小さく吼えると、再び先導するように歩きだした。
つづく




