第二十話 『マジカル・パシフィック』
未練がないわけじゃない。幼い頃に抱いた途方もない目標を叶えられなかったことが人生唯一の後悔。わざわざリスクを背負って、周りの反対を押し切って無理矢理この学園に入学したのはそのため。無事に聖峰の一員になってからは海琳朱乃の生き方を全うしながら、わたしは無我夢中で夢を追いかけた。
でも現実はそう順風満帆ではなくて厄介なおじゃま虫が幾度も妨害するわ、入学前は背中を押してくれた大人が入学後には手のひらを返してクドクド説教してくるわ、兎に角、楽な生活ではなかった。
今日まで何回諦めようとしただろう。その度に学園に入学したのを後悔していた。周りの忠告を素直に聞いておけばよかったとどれだけ反省しただろう。だけどあれはわたしの夢。うまくいかない現実と板挟みになりながらも夢に向かって兎に角、走り続けた。
そんなわたしを世界は見かねたのだろう。世界は突如、魔法少女の弟子を名乗るお子様を派遣してきた。同い年とは到底思えない暗い元気で幼くて勘が良くて賢くて、まるであの夢を抱いた頃のあたしそっくりだ。
世界はその子をわたしのところに派遣してきてこう言うのだ。その子と一緒に青春を謳歌すれば人並みの思い出と幸福を手に入れられる。この灰色の人生に四季折々の彩りがやってくる。それのどこか不満なのか、と。
そういえばちょっと前にも自分で夢の引き際について考えたことがあった。こんな生き方が道徳的に許されるのかって。でももう答えは出た。無数にあった選択肢も今はもう一つしかない。と同時にわたしの人生も終焉に近づいた。たった一度の大失態がこれまで懸命に築き上げてきた平和を壊してしまった。その責任はわたしが取らないといけない。
わたしはこの学園を去る。これはもう決定事項だ。すでに荷造りは終えている。黙って学舎を発つ以上は実家に頼るわけにもいかない。だから無事に聖峰を離れることができれば適当に世界を放浪してみよう。それも面白い人生だろう。
時は来たれり。身も心も準備万端。これがこの学園での最初で最後の無茶。人生がバッドエンドへと向かうなら、いっそのこと大事件に発展するくらい大暴れしてやろう。
十六年前の七月八日。午前六時三十七分。突如悪が消えたという報告を受け、国連軍が巨悪の根城に突入した。その際、誰もいなくなった摩天楼の頂上に残されていたのが『トライアンフ・ロッド』。数年に及ぶ研究の結果、それは地球上存在しない未知の素材で作られていたことがわかった。現在では魔法少女が実在した数少ない証拠として丁重に扱われている。平和のシンボルとして讃えられているものの、正しい使い方をすればアレはわたしの窮地を救ってくれる力となる。
わたしがあの摩天楼を前に手をこまねいていたのは目の前に今と過去とを隔てる壁があったから。魔法少女でさえ手を焼いたという遥か高く聳え立つ鉄壁の壁を攻略する手立てがなかったのだ。わたしの見立てでは七人の魔法少女の力を結集して無理矢理こじ開けたと思ってる。魔法、ないしは魔力というのは使い手がいなくなっても後の世に残るから、壊れた扉が自然に修復されても不思議ではない。
そして今日、摩天楼は再び突破される。
昨夜、伝説の武器が学園にやってくるとマナが話していた。巨悪さえ倒せる伝説の武器さえあれば摩天楼の壁なんて簡単に突破できるはず。
眼前に降り注いでくる奇跡をつかもうとしないなんて人間失格だろう。宿舎からの脱走も手慣れたもので、今回に限れば戻ることを考えていないからロープを垂らさずぴょいと飛び降りれる。今日はいつもの道のりとは遠回り。心なしか足取りも軽いので心音で警備員に見つからないか心配だった。世界中からお偉いさんが集まるくせ、学舎に侵入するのは思ったより楽だった。きっと敷地内ではなく外からの侵入者に警戒しているのだろう。夜の静けさに染まったいつもの昇降口から、たんたんたんとテンポよく階段を下り、学園が誇る静謐へと赴く。
分厚い観音開きの扉を開けるとステージの中央にはガラスのショーケースに守られた伝説の武器が鎮座していた。うん、あれは紛れもなく『トライアンフ・ロッド』。レプリカと見間違えるほどわたしの目は濁っちゃいない。
ゆっくり、ゆっくりとステージに歩み寄る。アレを手にすれば海琳朱乃の人生は終わりも同然。これから始まる逃亡生活を思うと胃が痛くなる。だけどもう決めたんだ。
わたしは自分の夢を叶えるために、あらゆるものを捨てるって。
「そこまでにしておきなさい」
後ろを振り向いて確認するまでもない。静謐にこだまする榎本の声。その声色は授業で耳にする教師のものではない。息を荒げた一人の女性の悲痛な叫びだ。
まさかこんなタイミングで見つかってしまうなんてやっぱりわたしは運がない。友達も現実も誰一人味方をしてくれないんだ。それはもう最初から気づいていたこと。だから自分一人で犯行をやり遂げるしかない。
だけど不思議だ。いくら妖怪地獄耳だからとてこんなに早く気づかれてしまうのだろう。
もしかすると宿舎から跡をつけられてた? や、でもそうだとするとあの人が息を荒げている理由がわからない。おおかた偶然誰かが部屋が空いているのに気づいて、慌てて学園中を飛び回ったのだろう。
ま、なんだっていいや。この杖さえ手にしてしまえばカナちゃん一人くらいどうにでもなる。どう見てもこの状況、わたしの方が断然有利なのだから慌てる状況じゃない。相手が説得を試みているなら尚更だ。
「その杖を手にしたらあなたは世界に仇なす敵になってしまう。あなたも麗美も、ただでは済まされなくなる。……別に本当の姿がバレたっていいじゃない。可愛らしくて素敵よ? それにあなたも本当は嫌ってるわけじゃないでしょう? 昔はよく自慢してきたし」
「ちっちゃい頃の話を持ち出してくるのはズルい。子供は子供のままではいられないんです。カナちゃんにだって思い当たる節はあるでしょう? 今がその、子供から大人に成長する瞬間なんです」
「そりゃいくらでもあるわよ。この歳になれば青春の思い出も後悔も、自分よりガキだと思ってた友達が一気に大人の階段を駆け上がっていく様もね」
「なら今回は再放送ですよ。子供だと思っていた生徒が一気に大人の階段を駆け上がる様のね」
今の自分に中途半端な説得なんて焼石に水だ。昔を知っていればわかることだろうに。
後ろから聞こえる説得を無視してピカピカに磨かれたガラスに手を伸ばす。指先に冷ややかな感触が伝ってくる。盗まれることを考慮していないのか、これくらいの強度ならレリックの時と同じように魔力を流すだけで労せず壊せる。平穏な人生と夢との境界がこれだけの厚みしかないと思うと自分の価値が儚くも思えてしまう。
「さぁ、今すぐ離れなさい。……といっても、もう止まる気はないのでしょうけど」
「よくわかってらっしゃる」
「だからその前に一言、今まで伝えられなかったことを伝えたいの」
そこでわたしはようやく後ろを振り向いた。カナちゃんは俯きながら拳をプルプルと振るわせている。諦めてくれたわけではなさそうだけど一体——?
母ととびきり仲が良かったカナちゃんとトモちゃんは、わたしが物心つく前からしょっちゅう顔を合わせていた。大学の講義の隙間時間を縫って家に来て面倒を見てくれたり、時には休日を女水入らずで遊びに連れていってもらったらしい。残念ながら記憶から抜け落ちてしまっているけど、その思い出のほとんどは実家のアルバムにきっちり保管されている。
そんな二人とも各々の道を歩み始めてから顔を合わせる頻度は極端に減った。トモちゃんは大学院、カナちゃんは一足早く聖峰で教鞭を振るった。多忙の身にも関わらず、長期休暇になれば時間を合わせて必ず二人と会っていた。すくすく育つわたしを可愛がってくれたし、わたしはお母さんが何人もいるような幸せな感覚。わたしは二人とも大好きだっ。だから教師としてでなく「カナちゃんからの言葉」としてなら一度だけ聞いてやろう。
と、しげしげとカナちゃんの方を見ていると、おもむろに姿勢を崩し両手を地面につけていた。
「あなたに未来を背負わせたのは私たちの罪です。誠に申し訳ありませんでした」
初めて目にする大人の誠意ある謝罪。心変わりする気もなかった冷たいわたしの心が動揺した。足元はもう滴る涙で溢れているのに、彼女は目を拭うどころか頭を上げようともしない。
やめてほしい。学生の手本となる先生が泣いて詫びて頭を下げるなんて見たくもない。わたしが小さい頃から憧れていたのはどんな状況でも冷静沈着に最適解を導き出せるあなたであって、せめて教師なら言葉でねじ伏せてほしかった。打つ手なく感情に訴えるなんて惨めだ。
「どんなことをしようとしたって無駄です。これはわたしが生まれた時からの宿命であり意思であり夢なんですから」
眼前の大人はゆっくりと頭を上げる。目元はすっかり化粧が崩れて黒ずんでしまって人前に見せられるものではない。次の言葉を待ってみるのも一興だけど、どうせ時間を無駄に消費するだけ。ここらでもう終わりにしよう。
「もういいですね。これからは宿命を忘れて一人で生きていこうと思います。みんなには……お母さんにもヨロシク伝えといて」
項垂れる先生を横目にショーケースと向き合うわたしは、再び手のひらをガラスの表面に当てる。
これを壊せば終わりの始まり。騒がしいひとときだったけど、この箱庭に来れて良かった。
ま、わたしの青春は悪くなかったんじゃないかな。
「朱乃ちゃん!」
絶妙な間合いだった。あともう一度、胸が鼓動を刻んでいれば間違いなくガラスを割っていた。誰の声かなんて振り向かなくたってわかるさ。毎日毎日、朱乃ちゃん朱乃ちゃんと、呼ばれているんだもの。
だけど人の思考って意外と融通が利かないもので、自分の目で確認しないと気が済まなかった。
「マナ……と、おまけが二人、ね」
幻聴でも幻覚でもなかった。運動神経抜群のあのマナが汗だくになって肩で息をしている。後から遅れて姿を表したのは忌々しい風紀委員長と巴さん。奇しくもここにいる全員がわたしの秘密を知っていた。
突然の来客者に呆然とするわたしに対して、何故かマナは薄い胸を張る。何か意図があるのかと疑ったが多分あれは虚勢。なんの意味もない。そういうのは余裕がある時に見せるものであって、息も絶え絶え弱々しくなった姿でやるものじゃない。どついたら簡単に倒せそうなのはさておき、何人増えようがさほど大きな問題ではなかった。
「すっごく綺麗だよね、それ」
マナの口元が緩んだ。
「夕方、あたしも見せてもらったんだけど綺麗だよね。見てたらあたしも欲しくなっちゃった。人を魅了させる魔法でもあるのかな」
「だとして誰を魅了させるんだ」
「えと……巨悪?」
「敵の親玉を懐柔しようとしてどうする」
「あぁ、そうかも。さすが朱乃ちゃん。いつもあたしの気づかないことに気づいてくれる」
どんな説得が飛び出してくるのかと身構えたが、飛んできたのはいつもの雑談。久しぶりに顔を合わせると思えば、そういや毎日扉越しに話していた気がする。
だけどこの後に及んで要件はなんなんだ。わたしの見えないところでこの三人は情報共有して、わたしが何を企てているのか見当がついているはず。だからみんなが止めに来た、そう思っていた。なのにあの口ぶりはなんだ?
それとも偶然通りかかっただけ。そんなわけない。なら鷺谷委員長がここにいる意味がわからない。当の本人はというと人形のような冷たい表情でただ突っ立っているだけ。相変わらず心が読みにくい無愛想な人だ。トモちゃんはというと……体力が朽ちて見るも耐えない姿だからしばらく放っておこう。
「で、話がなければカナちゃん連れて引き上げて欲しいんだけどな」
ロッドを手にしたわたしは天下無敵。風紀委員長との追いかけっこなんて天と地ほどの差がある。大人二人は戦意喪失と体力切れ。マナはこういう戦闘に慣れていないだろうから一瞬でカタがつく。計画になんの狂いはない。さぁ、余興も終わりに——
「待って!」
三度目の正直、わたしの手にガラスが触れると突然マナがバタバタとわたしの元に駆け寄ってきた。敵意のないその走りにわたしも思わず目を見開いた。作戦外の行動なのか他の三人も目をぱちくり。そして、わたしの前で立ち止まると満面の笑みでこう言い出した。
「あたしも朱乃ちゃんに加勢するよ。少しは戦力になるさ」
——はい? 何をおっしゃってるんだ。このちんちく。
わたしがこれから何をしようとしているのか理解しているのか? ちゃんと四人はミーティングしたのか?
これはただの文化財ではなく平和の象徴。盗むという行為はつまり世界を敵に回す宣戦布告。もちろん、そんな大うつけはこの十六年で誰も現れなかった。前代未聞の大事件になるのは間違いなし。本当に奪われてしまえば生涯世界の軍隊との追いかけっこが始まるし、なにより犯人の家族もただでは済まされない。
「朱乃ちゃんが言いたいことは全部わかる。でもあたしには家族も帰る場所もないし、犯罪者になったって誰も悲しまない。そんなことより目の前で親友が困っているならあたしは親友を助けたい。だからはい、これ、あたしが裏切らない証明。朱乃ちゃんに預けるね」
そういうとマナは首から下げていた懐中時計——マナが大切にしている魔法少女の弟子の証を渡してきた。正気を疑ったが純粋な目をしている。彼女は本気だ。本気で加勢しようとしてくれていた。
「ちょっと! 何を血迷ってるの、『天眼』を止めるんじゃないの?」
これまで静観を貫いていた鷺谷も痺れを切らして声を張り上げた。その動揺からマナの寝返りが作戦でないことがわかる。
到底理解できない。これは海琳朱乃の純度百パーの我儘なのであって、マナが手を貸す理由がわからない。別に大金持ちになるわけではないし、身長が大きくなるわけじゃないんだ。これまでの平穏を捨てて共犯者の道に進むだなんて馬鹿げている。
わたしはもう自分を曲げるつもりはないけれど、誰かを巻き込みたいわけじゃないんだ。笑顔を崩さない彼女に懐中時計を返却しようと押し付けるが一向に受け取ろうとしない。
「あたしは準備万端。いつでも摩天楼まで行ける」
「意味がわからない。わたしらはたった数ヶ月の短い付き合いなんだ。なのにどうしてあなたは一番の宝物と人生を賭けられる? それもと窮地を脱する一発逆転のカードでもあると思った? だとしたら大きな勘違い。わたしはわたしの我儘を突き通すために罪を犯すんだ。用済みになれば真っ先にあなたを切り捨てる覚悟もある。それでもついてくると?」
これからピクニックにでも出かけるような陽気なテンションに苛立った。ドスの効いた声で威圧したつもりなのに、それでもマナは気にも留めず、いつものような眩い笑顔で、考えうる限り最も残酷な一言を放った。
「もちろん。だってあなたはあたしの憧れ——『マジカル・パシフィック』にそっくりだもの! それなら弟子がついていくのは当然だよね」
無邪気に放つマナの一言が心に突き刺さる。その言葉は、その言葉だけは生涯聴きたくなかった。
……わたしを魔法少女と結びつけるなんて目が節穴なんじゃないか?
外見も中身も全然似てないだろう。わたしの方が背は高いし、向こうは天パで眼鏡がずれるくらいには鼻が低い。奥二重なのは気に食わないけどスタイルの良さならわたしが勝ってる。
違いを挙げれば無限にある中で、今日、マナはわたしを魔法少女と呼んだ。
これまで自分は何をしてきたんだろうな。物心ついた時から周りの目を気にして暮らしてきた。努力だって欠かしたことはない。それがハリボテではなかったからこそ、これまで平穏に生きてこれた。
「うまく、演じてきたつもりだったんだけどな」
バレた途端、この十六年間抑圧してきた我慢が込み上げてくる。
誰かの失態があったわけじゃない。わたしも完璧に海琳朱乃を演じてきたつもり。なのに気づかれてしまったということは運部天賦や結果論ではなくて、ただ単にわたしが実力不足だったのだ。つまりはというと自分は才能もないのに無駄な努力を重ねてきた。その事実が純粋無垢な言葉で露呈されればもうもう反高する気も無くなってしまった。
「ど、どうしたの! なんで泣くの?」
膝から崩れ落ち、ただただ己を恥じて慟哭するわたしに対し、勝者は勝利を抱くどころか狼狽えて気遣いを見せてくる。完敗だ。お子様の前で子供みたいに泣きじゃくるなんて我ながら情けない。
「ね? いくら完璧を装っても周りってのはよく観察してるものなの。これでもあなたは世界が求める海琳朱乃を演じるつもり? いい加減諦めて、後の面倒は大人に任せたら?」
「——わかった。わたしの負けね」




