第一話 魔法少女の弟子
この数ヶ月で日常が劇的に変化した。そのせいか最近やたらと思考がまとまらない。疑問が湧き出ても頭の中で意味のない問答の繰り返すだけ。最終的に閉塞感に陥るだけの負のスパイラル。おかげで朝の目覚めは悪くなり、やり場のないため息をつくのがうら若き乙女の日課になっていた。
打開策はとうに見出している。実践しようと努力はしている。が、それでも結果がついてこないのだからやるせない。そんな悩みのせいか、はたまた生まれ持った性分かは定かではないけれど、今日は起き抜け早々天国と地獄の瀬戸際に立たされていた。
「諦めるな、わたし、まだ五分もあるんだ。反省文なんてぜったいに書きたくないっ」
ネクタイを結びながら宿舎を飛び出した時の寮母の呆れた顔が忘れられない。どんな絶望に直面しようと人間はいつだって希望を見出してきた。世界を救うよりいささか厳しいかもしれないが、全力で駆け抜ければまだ希望はある。
生まれ育った都会からいくつか県を跨いだ山奥に位置する我らが学舎、聖峰女学園は国内有数のお嬢様学校。全寮制でミッションスクール。「ごきげんよう」と「ございます」が飛び交う花園は世間の評価が高い。
『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて、感謝しなさい』
入学してから耳にタコができるくらい聞かされた聖書の一節。この学園のスローガンに倣うなら息を切らして駆け抜けるこの状況にも感謝しろとのこと。まったく、馬鹿げている。
学園に入学してから後悔ばかり。わざわざこんな人里離れた学舎を選ぶなんて諸手を挙げてアルカトラズに入所するようなもの。時々、刑務所の生活の方が楽なんじゃないかって思うくらいには味気ない。貴重な休日に息抜きをしようにも元気盛りの女学生が半日足らずの自由で満足できるわけもなく。おかげさまで順調に淡白な青春を謳歌している。
幸いにも刺激を求めるならここは刺激で満ちている。だが縛りを破ろうものなら追放は避けられない。
この聖峰には至る所に規則が存在する。故意に規則を破ろうものなら停学は当たり前。過去には学園の禁忌に触れて退学になった生徒もいると聞いたことがある。掟を破れば停学か退学かの二択。そんな意味でも刺激的だ。
「ん? なんてこんなところにレリックが?」
秋になると一面が黄金に包まれるという並木道の真ん中にキラリと輝く指環が落ちていた。余計な装飾が施されていないピンクゴールドリング。わたしが左の親指に嵌めているものと同じデザイン。貴賓あふるる聖峰では校章代わりに指環が貸与される。学園に籍を置く限り、生徒はいついかなる時でも必ず身につけなければならない。だからこの指環の持ち主は今頃血眼になって探しているだろう。反省文の面倒を知る立場として見知らぬ同胞を助けるのもやぶさかではない。それに遅刻の理由もできたんだ。祈りとやらも案外馬鹿にはできないみたい。
世界が未曾有の危機に瀕しても人は祈りを忘れなかった。
——どうかこれ以上、罪なき人間が犠牲になりませんように。
——どうか再び、世界に平和が訪れますように。
その祈りが天に届いたかどうかは神様しかわからない。ただ少なくとも祈りが形となったのは紛れもない真実といえよう。
突如として現れた七人の魔法少女。彼女らの出現で戦況は一転攻勢。彼女らの尊い犠牲によって世界は二つの奇跡を手に入れた。
平和と魔法。
救世主は荒廃した世界に魔法をもたらした。
◇ ◇ ◇
無事に事務室まで届けて一件落着。現時点では指環を落としたという連絡は受けていないとのことだ。まぁ、罰則が見えていれば素直になれない気持ちもわかる。
淑女たるもの己を犠牲に他人に優しく。その心が事務員にも伝わったようで、今回の遅刻の理由を職員室に連絡してくれるようだ。話がわかる人でわたしもすごく安心した。だから「この子、遅刻の口実にしたな」とでも言いたげな目は気のせいだと思う。そう思いたい。
それから教室から溢れる元気な声を堪能しながらゆっくりと廊下を踏破する。たまには合法的な遅刻というのも乙なもの。そんなこんなで自分の教室の前に到着。多分朝のホームルーム中だろう。一応周囲に配慮して音を立てないように忍足。慎重に扉を開けた。
……最悪のタイミングだった。よりにもよって教室に踏み込んだのがしんと静まり返った瞬間。
教室中の視線を攫ってしまい、急拵えの笑顔で誤魔化す。
「——っと」
奇妙だったのは二点。担任の榎本佳菜子がわたしに気づいても何も反応しなかったのと、黒板には見慣れない文字が書かれ、見覚えのない顔が壇上に立っていること。世の女性が羨むような光沢を放った黒髪に年不相応の童顔。どうやら彼女は何か喋ろうとしていたところを邪魔してしまったようだ。わたしはぺこりと頭を下げてそそくさと自分の席に戻る。
「こほん、では仕切り直してもう一度」
窓際の最後尾でも壇上から深呼吸がはっきりと聞こえた。
「東京から来ました紺野麻奈といいます。趣味は映画鑑賞と料理、最近はお笑い番組にハマってて楽しいことが大好き。よろしくね」
紺野が深々と頭を下げると教室から拍手が沸き起こった。こんな状況を目の当たりにすれば後から合流しようとも事態を把握できる。
転入生か。何年も学校に通っていれば一度や二度発生するランダムイベント。だけどここは由緒正しきお嬢様学校で普通とはちょっと違う。予告もなく転入生がやってくるなんてあまりにも不自然だろうに、周りを見ても違和感を抱いているのはわたしだけ。拍手が鳴り止むと榎本は廊下側の最後尾を指差し、転入生がそこに座るといつもどおりのつらつらした口調でホームルームを進めた。
「新しい仲間を加えて新しい2組を作っていきましょう。まだ教室の場所がわからないと思うので……慣れるまでしばらく海琳さんにお世話係を任せましょう」
「ほっ?」
唐突に名指しされたので思わず頓狂な声をあげてしまった。いや、なんでわたしがそんな面倒なことを。こちとら信用を得られるほどの働きはしてないぞ。小野田とか古賀とか、わたしなんかより適任がわんさかいるのにどうして。
あ、ひょっとして遅刻の件、怒ってたりする? だけど今回の遅刻はれっきとした免罪符があって——
「淑女たるもの他人に優しく、でしょう?」
妖怪地獄耳め。そこら中に盗聴器でも仕掛けているんじゃないかって常々思う。ぐうの音も出ないカウンターを食らって顔が引き攣るわたしに対し、転入生は弾けんばかりの笑顔を向けてきた。
◇ ◇ ◇
「あなたのお名前は?」
「海琳朱乃」
「わっ、荘厳なお名前だ。あたしは——」
「もう聞いたよ」初対面の人間に向かってその言葉はどうかと思う。ずいぶんと変わっている子だな。
「ねーねー、家庭科室ってどこ?」
「一階」
「一緒に行こうよ」担任に直々に指名された以上は従う他ないが、やたらと距離感が近くないか。
「ここの学食って何がおすすめ?」
「水」
「へぇー、山奥だから井戸水なのかな」嫌味を言ったつもりなのだが本気にされてしまった。素直と馬鹿は紙一重。ずる賢い連中がわんさか集まるこの学園で生き残れるかは別。ま、知ったこっちゃないけども。
それから何度も何度も時間が空くたびに話しかけられる。人懐っこい性格と幼い外見も相まって親戚の子供を相手にしている気分。おかげで昼休み前なのにへとへと。次第に相手をするのも億劫になってきた。それにわたしが構わずとも物好きなクラスメイトが面倒を見てくれている。現にさっきの休み時間も手作りクッキーで餌付けされていた。いろいろと言いたいことは山ほどあったが、世話役から解放されるに越したことはない。四限の終わりを告げるチャイムが鳴り終わると一目散に教室を飛び出した。
向かう先はなんてことはない校舎の屋上。晴れている日は心地いい風を堪能できるのに、何故か校則では立ち入り禁止。この心地よさを共有できないなんて少しもったいない。
ごおごおとけたたましい音を響かせる室外機にもたれながら、寮母の巴さんお手製のチョコパンと缶コーヒーを口にして暇を潰すのが日課。入学して早々にこの場所を発見できたのは行幸だった。ここなら誰かに絡まれることもないし戦々恐々とされる心配もない。ただでさえ窮屈な集団生活を強いられるのだから昼休みくらい一人にさせてほしい。
青空を眺めながらパンをひと齧り。うん、時間が経ってもやっぱり巴さんが焼いてくれたパンはおいしぃ。じんわりと口に広がる極楽の甘味をほろ苦いブラックで流し込むのが格別なんだ。屋上の扉の施錠のやり方ならいくらでも教えるけど、極楽に関しては独占したいと思ってしまうわたしは独善的なのかもしれない。
たった二ヶ月、されど二ヶ月。学園の一員になってから「施し」とは無縁の日々を過ごしている。世間では評判が高い学校でも、裏では魑魅魍魎とした人間関係が張り巡らされた蜘蛛の巣。他人に優しくできる余裕なんていつの間にか無くしてしまう。
伝統と信仰、奇跡が根付いたこの学園には警察も真っ青になるほどの強固なセキュリティが敷かれている。生まれてこの方硬貨を見たことなさそうなご令嬢を預けるには理想的な環境。笑顔で「ごきげんよう」とだけ振る舞っていればいいものを、多くは家柄を箱庭に持ち込んで暗黙の了解を押しつけてくるのが非常に厄介なのだ。
ここでの生活を優位に進めたい。もしくは外の世界で敵対している権力者を潰したい。
そんな私情丸出しの思惑が飛び交う箱庭で自由に生きるには、権力者に立ち向かえる勢力が必要。似たような地位の生徒が徒党を組んで勢力に属する。それがこの学園での常識。
それを知らない新入生は先輩からの甘い誘惑や手厚い面倒で囲い込まれ、知らず知らずのうちにどこかのグループに所属する。運動部ならまだ顧問の目があるだけマシだ。だけど大人の目が届かない武闘派のグループに属してしまうと、本人の意思関係なく血みどろ抗争に巻き込まれてしまう。可哀想だけど赤の他人を簡単に信じてしまったのが運の尽き。どのグループもあらかた戦力を補充し終えた今、時期ハズレの転入生はどうなるのだろう。
「しゅーのーちゃん」「わっ! な、なんでこんなところに」
突然の声にハッと振り向けば人畜無害で太陽のような眩い笑みを向ける転入生が佇んでいた。なぜこの場所がわかったのか。周りにいた他の連中はどうしたのか。そんな疑問を置き去りにして転入生は偉そうに薄い胸を張った。
「ふふん、教室から出て行った朱乃ちゃんを尾行したの。安心してね、ちゃんと追手は撒いたから」
「女子高生が誇る技術じゃない……って、追手?」
「うん。男の先生だった。鍵持ってたし見回りじゃないかな」
嫌な予感がする。
転入生は知らないと思うけど、ここは本来立ち入り禁止なのだ。見回りってことはつまり——
「ん? 鍵が開いてるな」
はぁ、最悪。塔屋から男の人の声が聞こえた。あの声はおそらく体育の神田。よりにもよって一番厄介なやつが来てしまった。バレー部の顧問で熱血系といえば聞こえはいい。悪くいえば善悪をハッキリさせたがる頑固なタイプ。発見されれば言い訳無用、処分待ったなし。
もちろん規則違反をしている覚悟はあったから見つかった時の対処も考えていた。室外機の物陰や扉の裏、隠れる場所はいくつか見当をつけていたのに、この瞬間は全て水疱に帰していた。二人も隠れるなんて想定してないっ!
まぁ、転入生だけなら「初日だから知らなかった」と大目に見てくれるかも。自分は往生際の悪い性格ではないから負けは負けとして素直に認める。見苦しく足掻くほど無様ではない。潔く現実を手放したわたし。足掻くこともなく諦めたのにどうしてか——天はわたしを見放さなかった。
* * *
「誰かいるわけないよなぁ。はぁ、俺もとうとうボケてきたか」
屋上に姿を現した神田はぐるりと一周。入念に物陰まで確認。息を潜めて、どうか気づかれませんようにと心の中で祈りながら様子を見守った。
生きた心地がしたのは神田の姿が見えなくなり、がちゃんと施錠音が聞こえてから。新鮮な空気を吸い込む頃には眼前の奇跡にも順応してしまい、今更驚くのも不自然があった。数十秒ぶりの地上との再会。着地した時はやけに身体が重たく感じた。
「助けてくれてありがと。神田に目をつけられると制服の着こなしまでケチつけてくるから気をつけた方がいい」
「は、はぁ」
「それからここは一応立ち入り禁止。忠告が遅くなったけど勘弁してね」
「えと」
「あー、次の化学の授業は移動教室だから気をつけて。どう? 今回の貸しはこれで返せたと思うけど」
わたしにしてはだいぶ手厚い報酬を渡したつもりだった。学園の校則とすぐ使うであろう情報、それから知っておくとお得なマル秘情報まで教えたのだ。ありがたいと思うのが当然だろうに転入生は何故か鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。なんだ、子供みたいな風貌のくせに中身は意外と欲張りさんのようだ。しょうがない、ここは残りのチョコパンで餌付けを——
「お礼よりも先に訊くことあるよね⁉︎」
「ほっ?」
「だって空を飛んだんだよ? 普通は気になるよね? 普通は!」
ちんまり転入生の圧が強い。見かけによらず随分と大きな声を出せている。
「疑問も何も……魔法でしょう?」
「そうだけれども! どうして魔法が使えるのか気にならない?」
と、言われてもすごく困る。
「胸元のポケットの懐中時計——レリックのおかげでしょう? あれだけの魔法を顕現できるのは珍しいとは思うけどね」
気づかれてないと思ったのだろうか。神田が扉を開けた瞬間に、転入生の胸元に淡い光が灯ったのをわたしは見逃さなかった。
世界には魔法が存在する。でもそれは決してありふれたものではない。骨董品蒐集を生業としない限りは、同年代で魔法を目にしたことがある人は少ないだろう。まして天地分け目の大戦から十六年経った戦後世代には馴染みのないものになりつつある。
いとも簡単に秘密を見透かされた転入生は胸元から古びた懐中時計を取り出した。表面は赤みを帯び、文字盤は蓋で覆われている。アンティークだろうと時計は時計。少なくとも学園では不要物ではない。問題は先生が見逃したのか気づかなかったのか。この状況を踏まえるに前者だろうけど、後者だとしたら見逃す訳にはいかない。
「それの出所を訊いても?」
「魔法少女がくれた。といってもあたしが産まれる前の話だけど。あたしの出産予定日にお母さんが入院していた病院が襲撃されてね、夜通し魔法少女が防衛してくれたの。その時に無事に産まれるようにってお守りにコレをくれたの。本当か疑わしい話だけど、それから何度も魔法少女がお見舞いに来てくれたみたい。それでお母さんとあたしが退院する時に『この子はわたしの弟子になるね』ってお墨付きをもらったんだって。だからあたしは魔法少女の弟子なのさ!」
魔法少女の弟子……ねぇ。与太話としてさっさと片付けたいが、赤銅色の懐中時計の存在が話の信ぴょう性を高めている。
「元々は都内の高校に通っていたんだけど、車に轢かれそうになってた子猫を助けようと魔法を使ったら学園の理事長さんに見られちゃってね。その場で特待生としてスカウトされたの」
この世界で魔法を顕現するには「レリック」と呼ばれる魔法少女の残滓が必要になる。
魔法少女と悪の決戦の舞台となったこの地には、ほんの数年前まで魔力で汚染された緋色の土壌がありふれていたそうだ。
終戦後、この学園の上層部は世界で誰よりも早く奇妙な土壌と魔法の関係性を見出し、復興間もない時代に魔法の実用化を目指した。その成果がピンクゴールドリング。あまり知られてないが、これは魔力を帯びた土壌を混ぜて作られた正真正銘本物の「レリック」。学園が淑女の嗜みとして貸与しているわけでなく、全国から魔法を顕現できる逸材を見つけ出すための判別機。しかしこれまで成功例が見つかってないことから指環の正体を知る人は一部だけ。大戦から十六年経過しても魔法の実用化は夢のまた夢。どころか現代科学では魔法のメカニズムを解明できていない。
この十六年で魔法少女を取り巻く情勢が大きく変化した。当初はこの国が独占していた研究も昨今では大国がしのぎを削って成果を上げている。とある研究機関によれば三年以内に弾丸の代わりに魔力を使用した拳銃が完成するとのこと。補充いらずの武器の登場は確実に世界を変える。この様子は冷戦期の宇宙開発競争を彷彿とさせると一部の学者から警告されている。
あらゆる国が魔法を支配する未来を夢見る時代に、魔法少女の弟子を名乗る少女が現れた。これがどれだけ世界に影響を与えるか語るまでもない。千載一遇の好機を静観するほどこの世は平和ではない。だから先んじて転入生を囲った理事長の判断には脱帽せざるえない。
「ね、紺野。真面目に答えてほしい。魔法が使えること、レリックを所持していること、それから魔法少女の弟子ってことはわたし以外に誰が知ってる?」
「うーんと」 弟子は顎に手を当てながら記憶と対峙する。
「レリックと魔法のことは理事長さんだけ。いつもは家で保管してるんだけど、その日はたまたま修理に出そうと思って店に持っていく途中だったから魔法を使えたの。魔法も時々家で練習するくらいで、外で使ったのはあの時と今くらい。三つ全部知ってるのは朱乃ちゃんだけだよ!」
うん? それはおかしくないか。だってその懐中時計を魔法少女からもらったと証言した人がいるじゃないか。首を傾げて不思議がるわたしに、転入生は「忘れてた」と可愛らしく舌を出した。
「もちろんお父さんとお母さんも知ってた。だけど何年の前に交通事故で亡くなってる」
「ごめん。辛いこと思い出させたね」
「いいのいいの。もう昔のことだから」
「お詫びといってはなんだけど、もう一つ助言してあげよう。この話は絶対に口外しない方がいい。それが平穏な学園生活を送る最低条件だろうから」
「それは構わない、けれど」「けど?」
「あたしからも条件追加。赤の他人から一方的に押し付けられるのは好きじゃないから——あたしと友達になって! 『紺野さん』なんてヨソヨソしく呼ばずに『マナ』って呼んで。友達との約束なら絶対に破らない」
思いがけない要求にたじろいでしまう。それはちょっと困る。
初対面の人間を気さくに名前で呼べるほど人間できていない。それにこの学園では生徒全員を名前で呼ぶと決めているし。
ま、でも「友達」との約束なら仕方あるまい。呼称ひとつで平穏が手に入るなら安いものだ。
「わぁかった! これからよろしく、マナ」「うん! よろしくね、朱乃ちゃん」
味気ない日常がたった半日で劇的に変化してしまった。ただでさえ大きな問題を抱えているのに子守りもこなすとなると先が思いやられる。けれどマナの秘密を守り抜くのは己の平穏を守るのと同義。となれば放っておくわけにはいくまい。
あぁ、憂鬱。快晴の空の下でため息をつくなんて自分はどれだけ不幸なのだろう。味気ない日常にスリリングな足枷。これ以上ないってくらいの劣勢だ。これがゲームなら降参一択。なのに不思議と胸が高揚している。これもまた生まれ持った性分なのかもしれない。




