プロローグ〜ある晩の一幕〜
都会で育った人間にとって摩天楼はさほど珍しい光景ではない。コンクリートジャングルの中で見上げる空はいつも窮屈で、長い連休の度に遊びにいく両親の故郷の空とは大違い。都会育ちで勉強ばかりさせられる現代っ子には勿体ないくらい広大でいつも酔いしれる。
欲しいものがいつでも簡単に手に入るのが都会の利点だとしたら、田舎は自然のせせらぎが心地よくて熟睡できる。どっちがいいかなんて一概に決められない。どっちにも良さがあって不便があって、わたしは両方とも好き。
けど、どうだろう。双方が歪な形で融合するとなると。
ここは緑生い茂る山の中。見渡す限りの大自然の中にぽつんと聳え立つ摩天楼。奇妙なことに、かのエンパイア・ステート・ビルディングを模倣して造られた摩天楼の一角が鎮座している。絶対にあるはずがないものが存在する矛盾に言葉にし難い嫌悪を抱く人間は少なくない。かくいう両親から「心臓に毛が生えている」と言われて育てられたわたしでも初めて見た時は背筋がゾッとした。けど諦めず夜な夜な通い詰めれるとすっかり慣れていた。
こうして見上げていると海の向こうのマンハッタンへの憧れが沸々と湧いてくる。こんな模造品で満足できるほどわたしは大人ではないし、何よりこれには致命的な欠点がある。
なんと、この摩天楼には中に入る手段が見つからないのだ。エントランスはなく、上階に窓があっても特殊な加工からか中の様子は窺えず、地下通路はおろか空中回廊もない。巷では「都市伝説製造機」なんて呼ばれ、ネットではこの摩天楼を題材にしたホラー小説が星の数あるとか。そんなおどろおどろしい場所でも慣れた今では何も感じない。
「今日も異常なし、か」
入学から二ヶ月が経った。宿舎から摩天楼までの山道もなんのその。たとえ雨で地面がぬかるんでいてもライト片手に辿りつけてしまう。もはや警備に怯えた日々も懐かしい。今の自分に恐怖するものがあるとすれば一向に手がかりが掴めない状況に慣れる自分だけ。それは絶対にあってはならないと自分に言い聞かせながら、いつものように摩天楼の周囲を一周した。
「まーだ諦めてないの? 暇な人ね」
壁からなんとかよじ登れないかと模索していると背後からため息混じりの声が聞こえてくる。振り返ると夜風に白髪を靡かせる、冷酷無慈悲の風紀委員長が仁王立ちしていた。
いつもこうだ。直向きに調査をしていると必ずお邪魔虫がやってきて、無害なわたしを捕まえようとしてくる。これが厄介なことに逃げるのもかなり面倒。捕まればさらに面倒なことが待っているのでいつも死ぬ気で逃げている。その甲斐あって今のところ全勝中。けど自分の部屋に戻った後は汗だくのクタクタ。捕まらないための必要経費として渋々受け入れてはいる。
そして今日もまた彼女を凝視して身構えた。いつでも離脱する用意はできている。しかしどういうわけか今日の彼女は様子がおかしい。「ふわぁ」と可愛らしく欠伸するだけで猛獣のように追いかけてこない。
「……ね、悪いこと言わないから今日はもう引き上げてくれない? ただでさえ夜更かしは美容の敵なのに仕事が多くて徹夜続きなの。大人しく帰ってくれたら見逃してあげるから、さ」
悪い取引ではない。どのみち今日も手がかりを得られず宿舎に帰るつもりだったし、穏便に済むなら越したことはない。彼女に促されるがまま無言で摩天楼から離れ大人しく引き上げることにした。この間、彼女は約束どおり口に手をあてて大欠伸をするだけ。いつもみたいに捕獲する素振りは見せなかった。
「この中に入っていった人たちはみんな死んでしまった。残ったのは不気味な負の遺産だけ。あなたはこの建物の何を知ってるの?」
すれ違い様、彼女は子供が授業中にするような純粋な声で疑問を投げかけてきた。
しかし返事はしない。だって人の浪漫を潰すなんて神様だろうと救世主だろうと許されることではない。わたしなんかが憶測混じりであれこれ教えるなんて無粋に決まってる。




