第十六話 オフレコの代価
夕食の時間は十八時から十九時。入浴は十七時から二十二時の間。門限は二十一時。どれも入学初日に朱乃ちゃんから教えてもらったこと。どれもしっかり守っている。
悠々自適の一人暮らしの期間が長かったから最初は集団生活に順応できるか不安だった。だけど正鵠を射た朱乃ちゃんの忠告や周りの助けもあって今はもう大丈夫。
だから今度はあたしが恩返しする番。あたしは自分の役割を全うする。
「朱乃ちゃーん! 夕食のお届けに参りましたよ。今晩の献立は冷しゃぶとほうれん草のおひたし。それに加えて今日はなんとっ、うなぎの蒲焼もついてます! 学校のプリントと一緒に部屋の前に置いておくね」
公には海琳朱乃は体調不良ということになっている。体調不良の人には誰かが夕食を届けるのが宿舎のルール。クラスメイトかつお世話掛のあたしが率先して仕事を引き受けてもなんら違和感はなかった。
こちらの問いに部屋から返事はない。ここ数日ずっとこんな調子。今日も端から期待していなかったけど、気だるそうなあの声を聞けないとやっぱり寂しい。刺々しく突っぱねる口調でまたあたしの名前を呼んでほしい。時間が彼女の傷跡を癒してくれるのを祈りながら部屋の前から離れた。
「どうだった?」
「いつもどおり無反応でした」
食堂に戻った頃には巴さんと数人のお手伝いさんが後片付けを始めていて、生徒の姿はほとんどいなかった。投げやりなため息をつきながら腰を下ろすと、巴さんが労いのココアを淹れてくれた。
「麻奈ちゃんが気負う必要はないからね」
大人の好意には素直に甘えるのが子供の常識。ありがたく頂戴しようとしたが、あいにくあたしは猫舌で湯気立つカップに悪戦苦闘。その様子を見ていた巴さんが「熱くしすぎたね」と悪戯っぽく笑っていた。
飲めるようになる頃にはお手伝いさんたちも引き上げ食堂はすっかりがらんどう。ようやく落とすれた休息に、巴さんは換気扇の真下でタバコを咥えながら天を仰ぐ。
「はぁーーー、労働の後の一服ほど極楽はないよなぁ」
「生徒の前でいいんですか?」
「私は寮母であって教師じゃないから。誰かに迷惑かけなきゃいいのいいの」
と、勢いよく煙を吐き出した。体面を使い分けられるなんてずる賢い大人だ。
「ビックリしたでしょう?」
「へ?」
「急にみんながピリピリしちゃてさ。ほら、式典には世界中のお偉いさんが集まるでしょう。多感なお嬢様方は自分を高く見せようと優劣をつけたがるの」
「あはは……でも慣れちゃいました。そういえば巴さんもこの学園の卒業生だったんですね。当時からこんな雰囲気で?」
朱乃ちゃんが意味深な言葉で翼さんを焚き付けていたのもまだ記憶に新しい。あたしがその事実を知ったのは翌日の夕食、大発見に同行できずに悔しそうにしていた翼ちゃんから教えてもらった。
古賀翼は現場にいなかったのであの出来事を知らない。でも発見者の名前に、自分と一緒に帰らなかった海琳朱乃の名前がないことを気にしていた。加えて翌日は体調不良で自室に引きこもり。時計塔探索時はあれだけピンピンしていたのに、一体全体どうしたのかと心配そうに訊いてきた。
もちろんこれも鷺谷委員長の想定内。「頭痛で帰った、とでも言っておきなさい」と言われていたのでそのとおり説明しておいた。
話を戻そう。翼ちゃんから巴さんのことを聞いた時は得体の知れない魔法を見たばかりでもビックリした。我らが寮母さん——巴恵美さんはこの学園の卒業であられ、そして魔法少女大戦終結の年に卒業している。巨悪の出現と支配、そして魔法少女による解放を最前線で見てきたいわば生き証人。魔法少女の弟子として根掘り葉掘り訊きたいところだけど、この宿舎において巴さんの年齢に関する話は禁忌。
以前、巴さんに向かって軽々しく「おばさん」と口にした生徒は卒業まで巴コインの配給がなかったという。下手に過去に触れたら痛い目にあるのは目に見えていたが、この緩くてほんわかしている空気ならいけそうな気がした。すると宿舎の支配者はおもむろに口を開け、灰皿に灰を落としながら懐かしむようにこう言った。
「ちょうど私が短大を卒業して寮母として戻ってきた年に式典ができたんだよね。その頃からずっとこんな感じ。私が学生だった頃とは大違い。これも平和になった証なのかね」
「というと、昔はほんとにお嬢様ばかりだったんですね」
時代が変われば人も変わる。どうやらあたしが聖峰女学園に抱いていた品格は過去の遺物だったみたいだ。巨悪に侵食されるまでは「おほほ」と「ですわよ」が飛び交っていたと思われる。正直その時代が羨ましい。換気扇に向けて煙を吐く巴さんもかつては「ございますわ」とか言ってたのだろうか。あたしには到底真似できない。ちょっとだけ寮母を見る目が変わった……のだから、どうかばつが悪そうな顔をしないでいただきたい。
「今頃、悪友たちは何をしているのやら。大戦の動乱のせいで今でも連絡を取れるのは数人だけ。大半は私が学園に戻ってきてるのも知らないんだろうなぁ」
「きっと皆さん驚くでしょうね。母校で働くなんて珍しいですし」
「そんなことないよ。だって他にも佳菜ちゃんだって——」
「……佳菜ちゃん? えっ、佳菜ちゃんってまさか榎本先生?」
「そっ、あなたの担任の榎本佳菜子先生。あの子も私と同じ出戻り組」
「えぇ⁉︎」
それは誰からも聞かされなかった衝撃の真実。最初の顔合わせの時に話しているのかもしれないが、少なくとも転入してきたあたしは一度もそんな話を聞いたことがない。巴さんが年不相応に若いから、良くも悪くも二人を見比べてもとても同い年とは思えない。
「ろくな青春を送れなかった分、最前線の特等席で誰かの青春を眺めたいのかも。私ら三人は似たもの同士だから自ずと行動も似ちゃうんだよね」
おいそれと口を挟める内容ではなかった。最前線で絶望を味わった人の言葉は重い。時代の犠牲者なのだからなおのことである。
そんな空気を読めるあたしでも、一つ、気になる発言を耳にしてしまった。大人の女性を振る舞って聞かなかったフリをしようと思ったのに、気づいたらもう疑問を投げかけていた。
「三人って、他に誰かいるんです?」
「ん? あぁ、麗美ちゃんは嫁いで今は旅館の若女将。すごいよね。専業主婦からいきなり旅館の若女将になるんだから。私と佳菜ちゃんと麗美ちゃんは親友だと思ってるけど、あの子の思考は全く読めない。麗美然り朱乃然り、親子揃って厄介ったらありゃしない」
親友という耽美な響きに焦がれない理由はない。小学生の頃は仲のいい友人はいたけれど家の事情で別れたきり連絡は取ってない。義務教育を終えて親戚の元を離れてようやく落ち着いたと思ったら、今度は聖峰に転入することになった。思えばあたしの人生って結構慌ただしい。
親友なんて立派なものはいらないから、せめてここで友達一人くらいほしい。それこそ教室で話す人はたくさんいるけど、教室外で話す子なんて朱乃ちゃんくらい——ん? 今なんと?
「……朱乃ちゃんのお母さん?」
聞き違いではないはず。今絶対に間違いなく「親子」って言った。頭によぎった疑問をすかさず言葉にすると、先ほどまで饒舌だった巴さんの口が真一文字。みるみると顔が青ざめていく様子がアニメみたいで面白い——ではなくっ!
えと、えっと、話を整理しよう。
巨悪は十七年前の冬。魔法少女大戦終結は十六年前の夏。巴さんたちが聖峰女学園を卒業したのは十五年前の春、のはず。あたしは魔法少女大戦真っ只中の五月十日生まれの十六歳。一応はあたしも子供を産める年齢だから高校三年生が出産していても不思議なことじゃない——
「いやいやいや! へっ、ってことは学生出産? でもここは淑女の花園であって……や、え、つまり朱乃ちゃんのお母さんはお母さんで、朱乃ちゃんのお父さんもお母さん? い、いやいやいや、落ち着けあたし。そんなの魔法でなければありえない話。もっと現実的に考えるなら——ひょっとしてあれですか、女子校に男が一人紛れ込んでいて学園ハレンチ化計画を——」
「こら、落ち着きなさい」
「むぐぅ」
唐突に口の中にほのかな紅茶の香りが広がった。サクサクした食感の中にコロコロと固いものも混ざってる。噛み砕くまでもなく、舌で小粒を転がすとチョコレートの甘味が口の中に爆発した。こ、これは世の女性が午後三時に渇望するチョコチップクッキーではないかっ!
や、紅茶の香りがするのだから紅茶クッキーなのか? 正体はどうであれ美味であることには変わりない。
「あぁ、私が迂闊だった。聞かなかったことにして……って土下座しても無駄だよね」
そりゃそうだと数回首肯。口止めされようとも、こんな大スクープを聞かなかったことにはできない。宿舎の支配者が動揺した姿はもはや子羊。話し始めるまでに幾度も手を震わせながらカップに口づけ、巴さんらしからぬ嘆息を溢したのちに意を決した声で語ってくれた。
「ここからもオフレコにすると誓ってくれるならかるーくお話ししたげるけど守ってくれる?」
「うんうん」
「麗美ちゃんも旦那さんもとってもいい人よ。私もあんな家庭を持てたら幸せだろうなって嫉妬するくらい素敵な家庭。旦那さんは麗美ちゃんの幼馴染で、実家は地方の山奥で旅館を営んでいる。私は麗美ちゃんと知り合った当初から幼馴染の話をしょっちゅう聞かされた。過去の惚気話がうざったいから、よく麗美ちゃんを揶揄って遊んでたよ。
で、揶揄っても満更でもない顔で幸せアピール満開。僻むのもバカらしくなるくらいの遠距離バカップルだった。ただ知ってのとおり、二人の恋路は前途多難だった。時代と環境が悪かったのね。巨悪が支配していた頃は『恋愛なんてもってのほかだ』みたいな空気が世界中で当たり前だった。それが平和になった途端、世界中で抑圧されてきた感情が爆発しちゃったの。私らの年代だと麗美ちゃんみたいな子はそう珍しくなかった。だから別にあの子だけが変わってるわけではないし、学園も当時のクラスメイトも特に気にしていなかった。
でも朱乃の場合は普通とは違って、周りの目をかなり気にする子だから自分の誕生日も家族構成もあまり話したがらないし知られたくもない。だから今日話したことは全て本人に訊かないであげてくれる? と、く、に、私が漏らしたって絶対に言わないで。あの子、麗美ちゃんに似て怒るとすっごく怖いから」
人には誰にだって触れられたくない過去はある。弱みにつけ込もうなんて魔法少女の弟子の名が廃る。口止めされなくたって本人に訊くつもりはない。
……でもそれはそれ。弟子だろうとあたしは人間。あたしにだって欲望はあるんだ。
「それには条件があります——子供の頃の朱乃ちゃんの写真、見せてください」
こんなビッグチャンスを逃すほどあたしはバカじゃない。
あたしは実は知ってるんだ。普段一匹狼を気取る朱乃ちゃんだけど実はカッコいい系ではなくて可愛い系なんだって。眼鏡を外してコンタクトにして、ありのままを見せてくれればアイドルにも負けないくらい可愛いって。今でさえそう思うのだから、目に入れても痛くない時代なんて見てみたいに決まってる!
だけど朱乃ちゃんの性格を踏まえれば小さい頃の写真なんて絶対に、ぜっったいに見せてくれない。予々、どうにかして拝む術を考えていたのだが、まさか好機が転がってくるとは夢にも思わなかった。
「ふっふっふっふ、いいでしょう。きみらの期末考査が終わったら私の秘蔵コレクションから選りすぐりの朱乃をお見せしよう。もちろん可愛らしいエピソード付きでねっ」
「わぁ、燃えてきた! テスト頑張らなきゃ! 頑張って頑張った先に……ぬふへぇ」
まさかこんなところに同胞がいたなんて。灯台下暮らしとはこのことだ。結果的に隠れた同胞と密約を交わす幸運に恵まれた。あたしって運がいいね。
子供の頃の朱乃ちゃんのエピソードで揶揄ってやりたいのが本音、だけど嗜虐心をギュッと抑えて我慢した。
お腹いっぱい、夢いっぱい。だけどますます朱乃ちゃんの顔を見たくなってしまった。




