第36話 三年目③ 縛られる犬
大型犬の膝の上でゆっくり癒された三日後。
アデレインは困っていた。
「アデレイン様、いつまでヒューイ様を縛るおつもりなんですの?」
なるべく関わらないようにしていたのに、お昼休憩のわずかな隙をつかれて、アデレインは王宮の庭の、人があまり立ち入らない場所へと、カサンドラ様たちに連れて来られた。
相手は公爵令嬢。王妃様の後ろ盾の家とあっては、下手に刺激するわけにもいかない。
「ねぇ、貴女、わたくしとヒューイ様が並んでいるのを見て、なにも思わないのかしら?」
随分と自信があるらしい。
確かに美しい。それでも、ヒューイ様の方が遥かに美しいのだが、アデレインよりはよほど彼の隣に相応しい。
ただし。
(……見た目、だけなら)
こんな風にアデレインを呼び出し、公爵家の威光を振りかざすのはどうかと思う。
カサンドラ様よりも格上の、筆頭公爵家のヒューイ様は決してこんなことをしない。
アデレインは心の中だけで、ため息を吐いた。
何も言わないアデレインの代わりに、取り巻きのご令嬢たちが、口々にカサンドラ様を褒め称える。
「カサンドラ様とヒューイ様が並ぶと、まるで一枚の絵のようですわ」
「ええ、本当に。お二人の出会いは運命ですわ」
「ヒューイ様も、先にカサンドラ様と会っていらっしゃったら、間違うことなくカサンドラ様に婚約を申し入れたでしょうに」
(そこは『迷うことなく』でしょう?……間違いで悪かったわね)
さすがにアデレインはイラっとした。それに運命というなら、家の権力など使わずに出会ってから言ってほしい。
「アデレイン様がヒューイ様を手放したくないお気持ちは分かりますわ」
「ええ、離縁されているだけではなくて、お子様もいらっしゃるのよね?」
「次の婚約なんて本来は、難しいですもの」
「だからって、ヒューイ様を縛るのは如何なものかしら?」
とても洗練された連携に、アデレインはいつものように意識を飛ばすことにした。
その手段として、縛られるヒューイ様を想像したのだが、思わず笑ってしまい失敗する。
「……なぜ、笑うのかしら?」
カサンドラ様の眉がピクリと動く。
空気が冷えた。
三人の取り巻き令嬢たちも表情を硬くした。
「失礼いたしました。つい、ヒューイ様が縛られているのを想像してしまいまして」
「……貴女、わたくしの話を真面目に聞いていますの?」
「もちろんです」
「とてもそうは思えないわ。……随分と生意気な口を利くのね?」
アデレインは、これ以上口を開いてはいけないと悟る。
だが、目の前のカサンドラ様はすでに興奮されている。
今からどうやって冷静さを取り戻してもらえればいいのか。
取り巻きのご令嬢を見ても、彼女たちはただ黙るだけで、役に立ちそうもない。
「生意気な口を利いたつもりはなかったのですが、ご気分を害したのであれば……」
「ねぇ、何してるのかなぁ?」
割って入ってきたのは、ヒューイ様だった。
すっとアデレインを背に隠す。
そのせいで、カサンドラ様たちの姿が見えなくなってしまった。
「ヒューイ様、誤解されないでください。わたくしは、アデレイン様がヒューイ様にご迷惑をかけていないか、確認していたのです」
「……君が確認をする必要はないし、なにより」
ヒューイ様はそこまで言うと、アデレインの手首を掴んで、抱き寄せた。
腰にヒューイ様の腕が回っている。
「婚約者にかけられる迷惑など、ご褒美でしかないよね?」
額に柔らかな感触。唇が触れたのだ。
(……な、なにを! それにそれはお義兄様の台詞)
暴れたいのを必死にこらえる。
ここで嫌そうな様子を見せては、ヒューイ様の体裁が悪くなる。
「ヒューイ様!? どうしてですの? わたくしにあれほど優しくしてくださいましたよね?」
涙すら浮かべているカサンドラ様に、ヒューイ様の冷たい声が続く。
「なんのこと?」
「何って……何度も、丁寧に、優しく、教えてくださって……」
「……あのね、仕事なんだから優しく教えるのは当然だと思うけど?」
呆れたようなヒューイ様の声。
王宮では聞くことのない、心底嫌そうな響きだ。
「そ、そんな! あんなにも何度も丁寧に」
「だから、君が覚えないからだろう?」
(……そうでしたの)
アデレインの目にも、ヒューイ様はとても丁寧に彼女に接していた。彼女の言う通り、何度も。
その、何度もの意味を、今、初めて知った。
(ちゃんと訊けば良かったのかしら……)
抱き込まれたまま、アデレインはヒューイ様を見上げた。
イライラとしているのがよく分かる。
「アデレインは一度ですぐに覚えたよ。っていうか、君、仕事だって分かってる? 遊びに来てたの?」
「そ……それは」
「まぁいいや。それについては、僕から王妃様に報告するから」
「え?」
カサンドラ様だけではなく、取り巻きのご令嬢たちもピシリと固まる。
「お、王妃様はわたくしの家が後ろ盾ですわ……」
「だから、なに? 僕が進言すれば、王妃様は動かざるを得ない。そもそも、王妃様はこういうことを見越して、僕と君を組ませたんだ」
「え?」
これにはアデレインも声を上げた。
ヒューイ様の目が、やさしく細められ、アデレインを見た。
ついで髪を撫でられる。
甘い眼差しが、やがて鋭くなる。
その視線の先にはカサンドラ様。
「君と僕を組ませて、問題なく女官として仕事するなら良し、そうでないのなら、僕から報告させて、君の父君にも文句を言わせない。そういうつもりだったんだよ」
「そ……そんな」
「王妃様を舐めすぎだよ」
カサンドラ様が膝から崩れ落ちていく。
取り巻きのご令嬢たちが慌てて支えようとするが、彼女たちの足も震えていて、なんだか気の毒になっていく。
それなのに、ヒューイ様は容赦なかった。
「僕の愛しい人を傷つけたんだ。当然、我が家からもモントローズ公爵家に抗議する」
「ま……待ってください」
カサンドラ様の手が弱々しく伸ばされる。
「なんで待たなきゃいけないの? 僕のアデレインを泣かせるなんて絶対に許さないから」
「……泣いていませんが?」
ヒューイ様はアデレインの話を聞いてくれず、目尻にも口づけをした。
カサンドラ様は取り巻きのご令嬢たちに支えられながら起き上がり、よろよろと歩き出す。
「……いつまでこうしているんですか?」
「ん~、もうちょっとダメ?」
アデレインは考えた。
「これがご褒美ということですか?」
「え?」
驚いたように目を瞬かせる彼に、アデレインは目を瞑った。
「……それは、ちょっと違う気持ちにさせるんだけど?」
意味が分からず目を開けると、彼の唇が目尻に触れた。
「はぁ……そういうの良くない」
「……意味が分かりませんが」
「絶対に良くないから」
ぎゅっと頭ごと抱え込まれて、アデレインはもう一度目を閉じた。
顔は完全に胸に埋めているので、表情は見えないはず。
(ふふ……)
アデレインはつい笑ってしまう。
口元が緩んで、嬉しくなっている自分を制御できずにいる。
「あ~……今すぐ家に帰りたい」
ヒューイ様の呟きが聞こえた。
(わたくしも家に帰って、飼い犬の毛並みを撫でたいですわ)
アデレインは閉じた瞼の裏に、膝の上で甘える大型犬を思い浮かべた。




