第3話 穏やかで忙しい日々
王妃付き女官として働き始めてから、約一か月。
六月、七月、八月と王宮にて大きな夜会が続くため、忙しい毎日だ。
「あら? お帰りなさい」
馬車寄せにグレイスコート侯爵家の家紋がついた馬車が止まっていたので、もしかしたらと思ったのだが、やはり姉と、姉を迎えに来た義兄のグレイスコート侯爵ご本人がその腕にコンスタンスを抱えて玄関ホールに立っていた。
「お姉様、今日も来てたのですか?」
「ええ」
「お義兄様にご迷惑をかけすぎでは?」
ちらりと義兄を見れば、甘やかに微笑まれた。
御年三十二歳、姉と婚約するまでは社交界で華やかすぎる交流をしていた方で、その破壊力の高い笑みは、今も健在だ。
「大丈夫ですよ。君の姉君に掛けられる迷惑など、ご褒美です」
「……相変わらずですね」
「ええ。変わりようがありません。いえ、君の姉君への愛は募るばかりです」
聞き慣れ過ぎてうんざりするほどの甘い言葉が疲れた体に響く。
姉の方を見れば、なぜか得意げに頷いている。とても自分の現在の旦那を妹の婚約者にしようと画策していた本人とは思えない。
「それにしても、忙しそうね」
姉が少しだけ声のトーンを落とした。心配してくれているのが伝わる。こうして家に押し掛けてくるのも、離縁したアデレインと養子のパーシーのことを気にかけてくれているからなのだ。愛情だと分かってはいる。だが、毎日はやりすぎだと思う。現に父からは『お前は出戻ったのか?』とまで言われている。
「夜会シーズンがすぐですから、しばらくは忙しいままです」
「ああ……そうね。蕾の夜も、もうすぐだものね」
「ええ。お姉様も参加されるのでしょう?」
「もちろんよ。少女たちの愛らしいデビューを見届けなくては」
姉はドレスや宝飾品が大好きなのだ。義兄との結婚を決めた最大の理由は、その財力にある、と本人は言っている。それだけではないことを、もちろんアデレインは知っている。
「慣れない仕事で疲れているのでしょう? 無理はダメよ」
「ええ。でも、とても充実しています」
王妃付き女官の仕事は姉に紹介されたものだ。どういう繋がりなのかは不明だが、姉はどうやら王都の社交界でそれなりの影響力があるらしい。女官の補充が必要であることを知り、そこにアデレインを推薦してくれたのだ。
おそらくそれも、離縁したことで社交界で白い目で見られかねないアデレインを守るためのものなのだろう。女官であれば、私的な社交に出られなくてもおかしくない。まして王妃付きの女官の悪口を表立って言えるものではない。
(……ほんと、お姉様には頭が上がらないわ)
色々と言いたいことがないわけではないけれど、十二歳で母が亡くなってからずっと、姉は姉なりにアデレインと弟のレジナルドを守ろうとしてくれているのだ。
「あ、パーシーはレジナルドが見てくれているわ。レジナルド、パーシー相手に授業してたわよ。歳の離れた弟みたいで可愛がってるのね」
「そうみたい。……いつもありがとう。お姉様」
「あら? 珍しく素直じゃない?」
「ええ。ちゃんとお礼を言わないと、お礼を言われるまで家に押しかけられちゃうもの」
「ふふ。だいぶ元気になったわね。忙しそうだけど、良かったわ」
姉はふわりと微笑んでから、コンスタンスを抱えた義兄と並んで帰っていった。
* * *
姉を見送って、自室に戻る前にパーシーの部屋を覗くと、レジナルドと二人で仲良く本を読んでいるところだった。
邪魔をしないよう、そっとドアを閉めようとしたのだが、先にレジナルドがアデレインに気づいてしまった。
「姉上、お帰りなさい」
アデレインが十八歳で結婚した時、レジナルドは十二歳だった。その頃はアデレインよりも背が低かったのだが、それから四年で成長し、今はもうアデレインが見上げる位置に顔がある。
こちらを見るレジナルドの青い瞳は、四年間過ごしたフェアモント領にあるフェアリーリーフ湖を思い起こさせた。
「レジナルド、ただいま」
「お義母さま、お帰りなさい」
レジナルドの後ろからパーシーも顔を出し、アデレインを出迎えてくれた。
パーシーの背はまだ低い。目の位置を合わせるために少し屈み、アデレインは持っていた鞄から一冊の本を取り出した。
「はい。あなたが読みたがっていた本よ」
「あ! お義母さま、ありがとう!!」
金色の瞳が嬉しそうに輝く。その隣でレジナルドがパーシーの頭を優しく撫でている。
(……ちょっと気が引けたけど、パーシーがこんなにも喜ぶなら良かったのかしら)
アデレインは今日の出来事を振り返った。
* * *
「オルダートン嬢」
王宮の廊下を歩いていると、声を掛けられた。
振り返らなくても声で分かるが、呼び止められているのだから当然振り返る。
「ちょうど良かった」
予想通りの人物がこちらへと走って来る。
(……何度見ても慣れないわ)
さらりと揺れる金色の髪。
夏仕様の外交儀礼官の制服は、白いシャツに琥珀色のスラックス。そして琥珀色のベストのみの着用のため、着用者の体型がくっきりと出る。
それはヒューイ様とて例外ではない。
広い肩幅、それでいてキュッと締まった腰、そしてそこからの長い脚。しかも肘の下あたりまで腕まくりをしていて、腕の筋肉が惜しげもなく晒されている。
(非常に目の毒だわ)
実際、同僚の女官たちは『来たわ、この季節が』『ええ、ヒューイ様の腕まくり』『アデレインもぜひ見て頂戴』と大盛り上がりだ。
(若い子では仕事にならないわ……こんなの)
アデレインは、この公爵子息の油断ならない姿のせいで、ヒューイ様と組む仕事を割り振られたと思っている。
思わずため息を吐きそうになって、なんとか飲み込んだ。
「何かご用ですか?」
アデレインは努めて冷静に声を出す。
決して、目の前の、少し緩められたシャツの襟元から覗く首筋に、目を奪われてなどいない。
「はい。これが明日の会議の資料。それから」
そう言って彼はアデレインに書類を渡す。
これが傍目には親しげに見えるらしいが、アデレインにしてみれば、単なる書類の受け渡しでしかない。他の女官にだって同じようにするはずだ。
アデレインは受け取った書類を、その場でペラペラと確認する。
と、そこに。
「あと、これ」
視界を遮るようにして、一冊の本が現れた。
「え?」
思わず顔を上げると、公爵子息のやわらかな笑顔があった。
「ほら、この間君が言ってた本」
「え……ええ」
「ちょうど家にあったんだよ」
「あ、あの?」
家とはおそらくブランデルウッド公爵邸のことだ。公爵家所蔵の本をアデレインが受け取るわけにはいかない。
「お気持ちは有難いのですが……」
「気にしないでよ。うちには小さな子はいないし、一番下はクラリッサで、あの子は冒険譚とか興味ないから」
「そうかもしれませんが」
「ああ、もちろん返してもらうし」
「当然です!!」
アデレインは慌てた。貰うつもりなんてさらさらない。
「はは、分かってるって。はい」
押し付けるようにして本を持たされた。
アデレインが受け取ったのを確認すると、彼はもう一度笑みを浮かべて、爽やかに去っていく。
(……いやいや、だから誤解されるんですって)
アデレインはため息を吐いた。
今からでも追いかけて返そうかとも考える。
だが、それはそれで周りに見られれば誤解の元となる。
(こうなっては仕方ありません)
彼の言葉に甘えて、パーシーに読ませよう。
(あの子が読みたがっていた本ですもの)
アデレインは書類と一緒に借りた本を抱えて、女官室まで歩いた。
* * *
「お義母さま」
借りた本を嬉しそうにめくっていたパーシーが、何かに気づいたようでアデレインを呼ぶ。
「なに?」
「これは……なんて書いてあるんですか? 見たこともない文字です」
本の裏表紙の刻印を小さな指がなぞっている。
「ああ、これは古い字体で……」
読み慣れていない字体を、アデレインはひとつひとつ解読していく。
(さ……さすが、ブランデルウッド公爵家ね)
あの家は蔵書しているすべての本に刻印をしているのだろうか。
「それは持ち主の方の家名よ」
「家名……古い字体……」
アデレインの言葉を繰り返すパーシーと、話に興味を持ったのか横からレジナルドが顔を出し、そしてゆっくりとアデレインを振り返った。
その顔は青ざめている。
「姉上!?」
レジナルドの声が裏返っている。
気持ちは痛いほど分かる。
「……職場の方に貸して頂いたの。大事に読むのよ」
「はい」
パーシーはとても良い返事だった。
レジナルドは信じられないと、目を見開いていた。




