第25話 一年目⑤ ヒューイの月の夜
ヒューイは、アデレインの背中にそっと手を添えていた。
(……我慢、我慢)
王宮の『月の夜』の会場。
気を抜けば、彼女を引き寄せてしまいそうな己を必死に律する。
(……細かったなぁ)
馬車の窓に映った、彼女の足を思い出す。
靴を履き替える際に見てはいけないと視線を外したつもりだったのだが、その姿が窓ガラスに映り込んでいた。そこで目を瞑ればいいものの、どうしてもできなくて窓を凝視していた。アデレインに気づかれていたら怒られるに違いない。一週間、いや、下手したら一か月は口を利いてもらえないかもしれない。
それに。
(思ったよりも小さかったし、温かかったし、可愛かったし、綺麗だったし……白かったし)
ついつい抱き上げた時のことを思い出した。
あのまま膝の上にいてくれても全然良かった。
(いや、良くないかも。離したくなくなるし……口づけのひとつもしたくなるし)
アデレインはヒューイを受け入れているわけではない。
婚約者という形を許してくれているだけで、これはまだ賭けの途中なのだ。下手なことをして、賭けを終わらせるわけにはいかない。
だからこそ、今もヒューイは気を張っている。
必要以上に彼女に触れすぎないように。
背中に手を添えているのは、足を痛めたかもしれない彼女の負担を軽くするためであって、婚約者として触れているわけではない。
(……はぁ。どうしたら好きになってもらえるんだろう)
次から次へとヒューイとアデレインに挨拶に来る貴族たちと言葉を交わしながら、ヒューイはそんなことを考える。
濃紺のドレスを纏った彼女はとても美しい。
襟元と袖には透け感のある生地が使われていて、彼女の白い肌がそれとなく見えている。これが本当に嫌だ。どうしてヒューイ以外に彼女の肌を見せなくてはならないのか。母上は何を考えて彼女にこれを薦めたのか。次からは絶対にヒューイもドレス選びに参加することにした。母上に反対されようが構わない。暴れてでも参加する。
「……ヒューイ様?」
「あ……あぁ」
アデレインがちらりとヒューイへと視線を寄こした。
まるで流し目のようで、ヒューイの心臓は激しく音を立てる。
彼女の背中に添えた手を一瞬だけぎゅっと丸めて、なんとかやり過ごす。
そして、誤魔化すように微笑んだのだが。
「……どうされました?」
訝しげに傾けられる頭。灰青色の瞳がじっとヒューイに向けられたままだ。
(ほんとに俺と結婚する気がないなら、こういうのはやめてほしいなぁ)
アデレインは自分に魅力がないと本気で思っているらしい。
だがそれは、周囲の評価とはかけ離れている。
彼女は同僚たちの間でも評判が良かったし、王宮で働く他の男たちからもきちんと異性として見られていた。地味という言い方を彼女はするが、控えめな雰囲気でありながら、凛とした強さを併せ持つ彼女に心を奪われていた男は、自分だけではない。
だからこそ、アデレインの姉のグレイスコート侯爵夫人が身上書をかき集めていると知って、ヒューイはすぐに手を打ったのだ。
(……あの時、はじめて自分の気持ちを知ったわけだけど)
先輩たちの的外れだと感じていた行動は、的外れでもなんでもなく、ヒューイ自身が気づいていなかった恋心を見抜いていただけだった。
「ヒューイ様?」
「ああ。ごめん。ちょっと君が可愛すぎて、どうしようか考えていただけだから」
そう返しても、以前なら頬を赤らめていたのに、慣れてしまったのか、ため息で返される。
「ところで、大丈夫?」
「え?」
「足」
少し意趣返しで、わざと耳元で囁くと、素早くヒューイから逃げようとするので、背中を支えていた手で彼女の腰の辺りを押さえる。
(これは、彼女の足に負荷が掛からないようにしているだけで……)
当然言い訳である。
「ちょ……」
「あんまり動くと、足に響くよね?」
「平気です」
パシンと手を弾かれた。それすらなんだか可愛くて堪らないのだから、ヒューイは自分が重症だと思う。父や兄の恋愛の様子をそれとなく見ていて、どうしてあそこまで盲目的なのかと多少呆れていたのだが、結局自分も同じ血を引いていた。
「平気ならいいけど。でも無理は禁物だよ」
「……ありがとうございます」
彼女は少しだけ目を伏せて、そう言った。
(ああああ!! もう、なんでそんなに可愛いの)
耳や首まで赤く染まっている彼女を、抱き締めたくなる。
「とりあえず、休めるところに行こうか?」
「え?」
「ん?……あ!! 王宮にはそんな不埒なところはないから!!」
「あ、当たり前です!!」
顔を真っ赤にして叫ばれた。それさえも可愛い。
……脳裏に一瞬だけ浮かんだ光景は、即座に追い払った。
「ほら、軽食のところって座れるようになってるだろう?」
「あ!」
彼女の顔がふわりと綻ぶ。
(食べるの好きだもんね)
「せっかくだから食べようね」
「ええ」
彼女へと腕を出せば、そっと手を置かれる。
今はこれが、なんとか当たり前になりつつあるけれど、この幸せをヒューイは永遠にしたい。
(……どれだけ時間が掛かってもいい)
契約の三年。
三年間、ヒューイの気持ちが変わらなければ、賭けは勝ちだ。
はっきりいって勝ちは目に見えている。ヒューイの気持ちなど変わりようがないのだ。
それでも、彼女が三年ではまだ足りないというのなら、いくらでも延ばす気はある。
彼女が納得するまで待つ気はある。
そうして、本当の意味で彼女と共に生きていきたい。
軽食に目を輝かせている彼女を、ヒューイは見つめていた。




