晩餐会のテーブルの下で
王都ルンデルの夜は、辺境とは違う匂いがする。
馬糞や泥の匂いではなく、高価な香水、焼けた蜜蝋、そして「権力」の匂いだ。
王城の別館で開催される、貴族たちによる晩餐会。
俺はセラフィナの「従者」という名目で、彼女の少し後ろに控えていた。十二歳の庶子など、本来は建物の中にも入れてもらえないが、王女直々の連れとなれば誰も文句は言えない。
「緊張しているの、アルデン?」
セラフィナが、扇で口元を隠しながら小声で尋ねてきた。
彼女は今夜、深紅のドレスを纏い、憂国の姫という仮面を完璧に被っている。
「いいえ。ただ、この晩餐会の『コスト』を計算していただけて」
俺はホールを見渡しながら答えた。
「この一角だけで、辺境の村一つが一年間食べていけるだけの金が、一晩で消費されています。そして、彼らが口にしているワインの八割は、オルヴァーネ商業連合からの輸入品だ」
「それがどうかしたの? 貴族の務めは、こうして経済を回すことよ」
「いえ。彼らが回しているのは『借金』です。この国の貴族は、自分たちが誰の金で酒を飲んでいるかすら理解していない」
セラフィナは苦笑し、それ以上何も言わなかった。
彼女の目的は明確だ。今夜、俺を「王都の政治の汚さ」を見せつけ、同時に俺がどれほど通用するかを試している。
***
晩餐会も半ばを過ぎた頃、俺たちの元に一人の男が近づいてきた。
「やあやあ、セラフィナ殿下。今夜もお美しい。……おや、そんなところに小さな従者を連れていらっしゃるとは」
肥満体躯に、絹のローブ。指にはめられた指輪は、どれもが領民の一年分の収入に匹敵するだろう。
財務大臣を務めるヴァロワ公爵だ。
彼は王都の「穏健派(ハト派)」の筆頭であり、オルヴァーネ商業連合と深いパイプを持つ、この国の「売国奴」の親玉である。
「ヴァロワ公爵。貴方こそ、またオルヴァーネの商人たちと密談でも? 国の財産を切り売りするのは、昼間だけでは足りなくなったのかしら」
セラフィナが鋭く返すと、ヴァロワは愉しそうに笑った。
「ひどい言い草ですな、殿下。我々は『外交』をしているのです。
ラズラン帝国が国境で剣をちらつかせている今、我々が頼るべきは騎士の蛮勇ではなく、オルヴァーネの『金』です。
連合から多額の借款を受け、最強の傭兵団を雇えば、帝国など恐れるに足りません。……殿下の『焦土作戦』などという、領民を泣かせる野蛮な案より、よほど文明的だとは思いませんか?」
surrounding(周囲)の貴族たちが、ヴァロワに同調して嘲笑を漏らす。
この国の支配層は、「金で解決できる」という麻薬に侵されている。
セラフィナが、反論しようとして唇を動かしたその時——
「公爵閣下。その『借款』の担保は、何でしょうか?」
俺が、静かに口を開いた。
ホールの一瞬の静寂。
貴族たちが、従者の分際で口を挟んだ十二歳の少年を、訝しげに見下ろす。
「……なんだ、この小僧は。殿下、従者にしつけをなさっては?」
「彼は私の『軍事顧問』よ、ヴァロワ。子供の意見だと侮るなら、貴方の器が知れるというものよ」
セラフィナが涼しい顔で庇う。ヴァロワは鼻を鳴らし、俺を見下ろした。
「ふん。担保に決まっているだろう。王都の税収と、北部の鉱山権だ。オルヴァーネも馬鹿ではない、確実な回収先を要求している」
「では、お尋ねします。オルヴァーネ商業連合は、なぜ『今』、ヴェラム王国にそれほど多額の金を貸そうとしているのでしょうか?」
「は? 金利を取るためだ。商人の当然の——」
「いいえ。彼らが欲しいのは金利ではありません。『土地』です」
俺は一歩前に出て、ヴァロワの目を真っ直ぐに見据えた。
「オルヴァーネの商人たちは、すでに裏でラズラン帝国の皇太子と密約を結んでいます。
『帝国がヴェラムに侵攻し、王都が陥落する。その際、オルヴァーネへの借金を帳消しにする代わりに、ヴェラムの全鉱山と港の永久租借権を帝国に認めさせる』というね」
ヴァロワの顔から、笑みが消えた。
「……ば、馬鹿な。証拠もなくデタラメを——」
「証拠なら、オルヴァーネの『鉄と塩』の価格変動を見れば分かります。
先月以降、連合は大陸中の『粗塩』と『製鉄用の石炭』を、市場価格の二割増しで買い占めています。これは、近いうちに『ヴェラム王国という国家が消え、新たな領主(帝国)が生まれる』ことを前提とした、戦時物資の先物買いです。
公爵閣下。貴方がオルヴァーネから借りた金は、貴方の首を絞める綱ではなく、貴方の領地を敵に売り渡す『手付金』なのです」
ホールに、重い沈黙が降りた。
貴族たちは顔を見合わせ、動揺を隠せずにいる。彼らの中には、ヴァロワを介してオルヴァーネから個人的な借金をしている者も少なくないからだ。
「き、貴様……! たかが辺境の庶子が、大陸の経済を語るな! 衛兵だ、この不敬な小僧を——」
「ヴァロワ!」
セラフィナが、鋭い声で公爵を制した。
彼女の瞳は氷のように冷たく、そして俺の分析に対する「確信」に満ちていた。
「この子が言っていることは、私の情報網とも一致するわ。貴方がオルヴァーネと交わした契約書、明日の朝までに王室査察局に提出なさい。さもなければ、『国家反逆罪』で貴方を弾劾するわよ」
ヴァロワは顔を真っ赤にし、そして青ざめ、何も言えずにその場を去っていった。
残された貴族たちは、俺という「正体不明の怪物」を畏怖の目で見て、距離を取り始めた。
***
晩餐会が終わり、王城のバルコニーで夜風に当たっていた。
「……痛快だったわ、アルデン。あのヴァロワの顔、一生忘れないわね」
セラフィナはワイングラスを傾け、上機嫌で笑っていた。
「だが、これで終わりじゃない。ヴァロワを潰しても、オルヴァーネの経済支配は止まらない。それに——」
俺はバルコニーの手すりに寄りかかり、王都の夜景を見下ろした。
「今夜の晩餐会で、本当に恐ろしいものを発見してしまった」
「……何のこと?」
「ワインだ」
俺はセラフィナが持っているグラスを指差した。
「今夜振る舞われたワインの産地は、ラズラン帝国の南部地方だった。
帝国は、自国のワインをヴェラムの貴族たちに『格安』で売り込んでいる。貴族たちは味も分からず、安いからという理由で帝国の酒を飲み、自国の醸造所を潰している」
セラフィナの表情が、凍りついた。
「まさか……」
「ええ。ラズラン帝国は、すでに『侵攻』を始めているんです。
街道を測量し、貴族の借金を作り、そして安価な物資で国内の産業を破壊する。
剣を抜く前の『見えざる包囲網』が、すでに王都の喉元まで迫っている」
俺は冷たい夜風を受けながら、頭の中の盤面をさらに広げた。
「殿下。明日から、我々は『二つの戦争』を同時に戦わねばなりません。
一つは、三年後にやってくる帝国の軍隊との『兵站戦』。
もう一つは、今夜から始まる、王都の物価と為替を操作する『経済防衛戦』です」
セラフィナはグラスを置き、俺の目を真剣に見つめ返した。
「……教えて、アルデン。私に何をすればいいの?」
「簡単です。明日の朝、国王陛下に『ある法律』を制定させるよう進言してください。
名付けて『国家緊急物資備蓄法』。……我々は、この国を『要塞』ではなく『巨大な罠』に変えます」
辺境で始まった小さな戦争は、今、国家の中枢を巻き込む「大戦」へと姿を変えようとしていた。




