兄の刃を、鞘(さや)に納める方法
作戦は、あまりにも単純だった。
「……だから、今夜の丑三つ時(午前二時)、俺は『泣き岩』の裏にある廃鉱山跡へ一人で行く。ハーゲン商会のディートリヒから、ペルト商会が隠し持っていた『中央貴族との汚職リスト』を受け取るんだ。これは絶対の極秘だ。誰にも話すなよ」
俺は屋敷の廊下で、わざとらしく声を落とした。
聞き手は、壁の陰に隠れている気配——カイルの従者である見習い騎士の一人だ。彼は息を殺しているが、鎧の鎖帷子が微かに擦れる音が、俺の耳にははっきりと聞こえている。
「分かったか、モリッツ。これは領地の命運に関わる。俺一人で行く」
「……は、はっ。お気をつけて、アルデン様」
モリッツも、俺の脚本に合わせて深刻そうに頷いた。
見習い騎士の気配が、足早にカイルの居室の方へ去っていく。
俺はニヤリと笑った。
情報の非対称性を作るには、「偽の情報を、敵が『真実だ』と信じ込める形で流す」のが最も効果的だ。カイルは俺の「知略」を恐れている。だからこそ、「致命的な汚職リスト」という餌には、必ず食いつく。
***
その夜、丑三つ時。
森は漆黒の闇に包まれ、木々のざわめきが不気味に響いている。
廃鉱山跡の入り口で、俺は一人、松明を持って立っていた。
いや、正確には「立っているように見せかけている」だけだ。
俺の本体は、そこから五十メートル離れた巨木の陰に隠れている。
「……来たな」
モリッツが耳元で囁いた。
暗闇の中から、三つの影が忍び寄ってくる。足取りは軽く、しかし確実に「人を殺すための歩法」をしている。カイル直属の騎士見習いたちだ。
彼らは松明を持つ「俺の身代わり(藁人形)」に近づき、剣を抜き放った。
「——今だ!」
俺が合図を送ると、森の闇が爆発した。
「ゴォォォォッ!!」
突如、地面から白煙が噴出し、騎士たちの視界を奪う。
これはリラが用意した「罠」だ。森に自生する『煙茸』を乾燥させ、地下に埋設した焚き火の熱で一気に燃焼させたのだ。無害だが、目と喉を強烈に刺激する。
「げほっ! な、なんだこれは!?」「目が見えん!」「敵襲だ、陣形を——」
騎士たちが混乱する中、さらに足元から「蔦」が飛び出した。
リラが仕掛けた、獣狩り用の罠だ。蔦は彼らの足を絡め取り、無様に転倒させる。
剣の達人も、足元を掬われ、視界を奪われればただの人間だ。
「……お見事、リラ」
俺が木陰から現れると、頭上の枝からリラがひらりと舞い降りた。
彼女は弓を構え、地面でのたうち回る騎士たちの throat(喉元)に、正確に矢を突きつけていた。
「動かないでね。私の矢は、鎧の隙間を正確に貫くから」
騎士たちは、白煙と蔦と矢に囲まれ、完全に戦意を喪失していた。
***
「……それで、これはどういう『演習』なんだ、アルデン」
厳つい声と共に、森の奥から大柄な男が現れた。
ヴェラム伯爵家親衛隊長、ボルガンだ。父ガレスの右腕であり、領内で最も武勇に優れた男である。
俺は事前にボルガンへ「カイル様が、私をテストするために夜間演習を仕掛ける可能性がある。危険が伴うので、隊長に立会人(証人)をお願いしたい」と根回ししていた。
「ボルガン隊長。ご覧の通りです。兄上は、私の『警戒心と回避能力』を試すため、配下の騎士たちに夜間襲撃を命じました。
しかし、私は森の猟師と協力して、見事に彼らを『撃退』しました。……兄上の教育指導、お見事です」
俺はわざと「演習」という言葉を使い、騎士たちを庇うフリをした。
だが、ボルガンの目は笑っていない。彼は状況のすべて——これが「演習」などではなく、カイルによる「私的な暗殺未遂」であることを——一瞬で理解した。
「……アルデン様。彼らは『演習』の装備ではなく、実戦用の毒を塗った短剣を携行しています。これは——」
「隊長。これは『演習』です。兄上が、私のために用意してくれた、特別な」
俺はボルガンの目を真っ直ぐに見据え、小さく首を横に振った。
ボルガンは俺の意図を悟り、深く頷いた。
「……承知いたしました。では、この『演習参加者』たちは、私が『指導』のために連行いたします」
騎士たちは、ボルガンに引き立てられながら、俺を怨めしそうに睨んでいた。
だが、彼らがカイルの名を出すことはない。騎士の誇りと、主君への忠誠心があるからだ。
それでいい。俺が欲しいのは「カイルの命令」の証拠ではなく、「カイルの弱み」という「カード」なのだ。
***
翌朝。カイルの居室。
俺は単独で、兄の部屋を訪ねた。
カイルは窓辺に立ち、庭を見下ろしていた。昨夜の失敗と、親衛隊による「演習参加者」の連行は、すでに彼の耳に届いているはずだ。
「……よく来たな、アルデン。俺を父上に告発しに来たのか?」
カイルは振り返らず、低い声で言った。
その背中には、敗北者の屈辱と、それでも尚消えない剣士の誇りが滲んでいる。
「告発? なぜそんなことを。昨夜は素晴らしい『演習』でしたよ、兄上。おかげで、森の罠の実戦テストができました」
俺は机の上に、一枚の羊皮紙を置いた。
それは、昨夜捕らえた騎士の一人が、ボルガンの「指導(尋問)」に耐えきれず書いた「始末書」だ。カイルの命令であることが明記されている。
カイルが羊皮紙を手に取り、顔を強張らせた。
「……これを父上に見せれば、俺は廃嫡される。お前の勝ちだ」
「見せませんよ」
俺は椅子に座り、足を組んだ。
「なぜだ?」
「カイル。お前は『剣』だ。この領地を守るための、最も鋭く、最も頼もしい剣だ。
そんな貴重な武器を、鞘に納めたまま錆びさせるほど、俺は愚かではない」
カイルが、ハッとしたように俺を見た。
「お前……俺を、使うつもりか」
「違います。『共闘』しようと言っているんです」
俺は立ち上がり、壁にかけられた地図を指差した。
「三年後、ラズラン帝国が攻めてくる。その時、父上は最前線で指揮を執る。だが、父上は武人だ。後方の兵站や、中央貴族の妨害、そして国内の裏切り者まで、すべてを見ることはできない。
俺は『脳』として、全体を指揮する。だが、俺には『剣』がない。
お前の剣が、俺の脳を守り、俺の脳が、お前の剣を最も効率的に振るう場所を指し示す。
……お前の目的は『母の名誉挽回』と『領地の守護』だろう? なら、俺と手を組むのが最も近道だ」
カイルは沈黙した。
彼の瞳の中で、憎悪と、理屈と、騎士としての矜持が激しくぶつかり合っている。
やがて、彼は深く息を吐き、俺の前に片膝をついた。
「……アルデン。お前のやり方は気に入らん。陰湿で、狡猾で、騎士の誇りに反する」
「ええ、分かっています」
「だが……お前の言う『三年後の戦争』が本当なら、俺の剣は、お前のために振るうべきだろう。
いいだろう、庶子。俺の剣を貸す。だが、約束しろ。お前が領地を裏切り、民を犠牲にした瞬間、俺はその剣でお前の首を斬る」
「承知しました、兄上」
俺はカイルに手を差し伸べた。
彼は、俺の貧弱な手を、武骨な掌で強く握り返した。
***
屋敷に戻ると、リラが待っていた。
「……あんた、本当にカイルを手なずけたの? あの頑固者の」
「手なずけたんじゃない。『共通の敵』と『共通の利益』を示しただけだ」
俺はリラに、小さな革袋を渡した。
「これは?」
「お前の『初任給』だ。銀貨十枚。そして、これからは伯爵家の『正式な顧問』として雇う。名目は……そうだな、『森の薬草栽培指導者』でいい」
リラは銀貨を眺め、そして俺を見て、ニヤリと笑った。
「……あんた、本当に化け物ね。私、諜報員になるの?」
「違う。お前は『森の目』だ。この辺境のあらゆる動き——獣の道、商人の流れ、そして帝国の斥候の足跡——を、俺に報告してくれ」
リラは銀貨を懐にしまい、俺に片目をつぶった。
「了解、ボス。でも、危険な仕事には、追加手当をもらうわよ」
「構わない。お前の命は、金貨百枚以上の価値がある」
リラの頬が、わずかに紅潮した。
俺はそれを無視し、机の上の地図を広げた。
内憂は片付いた。カイルという「剣」と、リラという「目」を手に入れた。
次は、外患——オルヴァーネ商業連合からの「借金」という、領地を蝕む第二の毒を抜く番だ。
「モリッツ、馬車を用意してくれ。明日、中央の王都へ行く」
「王都へ? 何の用事で?」
「国王に、『ある提案』をしに行く。三大帝国の狭間で、小国が生き残るための——『外交カード』を、手に入れるためにね」
辺境の貧乏貴族による戦争は、ついに「国家レベル」の盤面へと駒を進めようとしていた。




