森の少女と、兄の罠
北の森は、地元民から「霧の森」と呼ばれていた。
エルムフォードの街から北へ徒歩二時間。街道を外れ、獣道を辿った先にある、鬱蒼とした原生林だ。
樹齢数百年の巨木が天を覆い、昼なお薄暗く、地面には苔と腐葉土が厚く積もっている。
「アルデン様、これ以上は危険でございます。この森はエルフの領域に近く、迷えば二度と戻れぬと……」
モリッツが心配そうに声をかける。
彼の不安ももっともだ。この世界において、エルフは「森の守護者」であり、領土を侵犯する人間を容赦なく射殺することで知られている。
「大丈夫だ、モリッツ。エルフの警戒線は、この先さらに五キロ北の『古の境界石』からだ。アルデンの記憶にある、父上の旧い地図によればな」
俺は手元の羊皮紙の地図を確認しながら、周囲の地形を分析していた。
(……完璧だ。ここは天然の要塞だ)
森の地形は、軍事戦略において「最良の防衛線」となる。
視界が効かず、大軍が展開できず、補給馬車が通れず、そして——何より重要なのが、「地元の人間しか知らない隠し道」が無数に存在することだ。
帝国軍が街道を使えなくなった時、彼らが次に狙うのは間違いなくこの森の狩猟道だ。
だが、森での戦闘は「知識の非対称性」がすべてを決める。地元に詳しいゲリラ部隊が、装備と数に勝る正規軍を食い潰す。地球の歴史——ベトナム戦争、アフガニスタン紛争、フィンランドの冬戦争——が何度も証明してきたことだ。
「トム。この森で、地元の猟師たちが使う隠し道はいくつある?」
「えっと……大きいのは三つですね。でも、古い hunters(猟師)しか知らない裏道が、あと二つあります。あと、川沿いの獣道も……」
「すべて地図に落とす。一つ残らずだ」
トムは不思議そうに首を傾げながらも、素直に頷いた。
彼は字が読めないが、地形の記憶力は驚異的だ。彼が口で説明する道を、俺が地図に書き込んでいく。
***
森の奥へ進むこと一時間。
俺たちは、小さな渓流の傍らにある開けた場所に出た。
「ここは……」
モリッツが驚いたように目を丸くした。
そこには、小さな「薬草畑」があったのだ。
野生のものではなく、明らかに人の手で手入れされた、整然とした畝が並んでいる。蒼麻草や止血草、解毒に効く苦根草などが、丁寧に栽培されていた。
「誰がこんなことを……?」
俺が呟いたその時、茂みからガサリと音がした。
「——っ!」
モリッツがとっさに俺を庇う。トムが悲鳴を上げた。
茂みから現れたのは、弓を構えた少女だった。
十四、五歳だろうか。茶色の髪を短く切り、粗末な革の衣服をまとっている。
その瞳は鋭く、獲物を狙う鷹のようだった。
「……人間? しかも、貴族?」
少女の声は低く、警戒に満ちていた。
弓矢の先は、正確に俺の胸を捉えている。素人が適当に構えているのではない。殺る気になれば、一瞬で心臓を貫ける構えだ。
「待て。我々は危害を加えに来たのではない」
モリッツが手を上げて言った。
「私はヴェラム伯爵家の筆頭執事モリッツ。こちらは当家の三男アルデン様だ。お前は何者だ?」
少女は弓を下ろさず、俺をじっと見つめていた。
そして、何かを見極めるように、眉をひそめた。
「……嘘つき」
「なんだと?」
「あんた、『三男』って言ったわね。でも、その子の服、仕立ては良いけど生地は古い。それに、靴底の減り方が均等じゃない——最近急に歩き方が変わったの。つまり、あんたは『最近までこの服を着ていなかった』か、『最近まで貴族として振る舞っていなかった』かのどっちか」
俺は内心で舌を巻いた。
この少女、ただ者ではない。
服装の生地の経年劣化、靴底の摩耗パターン、そして振る舞いの変化。
これらは、情報分析官が「対象人物の背景」を推測する時に使う基本テクニックだ。
この世界の、辺境の森に住む少女が、それを直感で行っている。
「……名前を聞こうか」
俺は平静を装って尋ねた。
「リラ。……あんたたちこそ、何の用でここに来たの。ここは私の畑よ」
「畑? 領主に無断で、伯爵領の森を私有地扱いしているのか?」
モリッツが厳しく言うと、リラは嘲るように笑った。
「領主? あの武骨者の伯爵が、こんな森の奥まで管理してると思っているの? ここは三十年前から、誰も来ない場所よ。私が開墾したんだ。文句ある?」
俺は手を上げて、モリッツを制した。
「リラ。お前は薬草の栽培をしているな。それも、素人の仕事ではない。誰に習った?」
リラの表情が、一瞬だけ揺らいだ。
「……父さんが、薬草商だったの。でも、三年前にペルト商会に潰されて、借金抱えて死んだ。母さんも後を追うように病死した。私は一人で、ここで細々と薬草を育てて、街に売って生きてる」
ペルト商会。
また、あの名前だ。
マルセラと癒着し、この辺境の中小商人を次々と食い潰してきた商会。俺が潰したあの商会だ。
「……リラ。お前の薬草、買わないか」
俺が言うと、リラは怪訝そうに眉を上げた。
「あんたが? 貴族の坊ちゃんが、こんな森の薬草を?」
「貴族の坊ちゃんじゃない。貧乏伯爵家の、冷遇されている庶子だ。そして今、この辺境で『新しい薬草の流通ルート』を作ろうとしている」
俺は一歩前に出て、リラの目を真っ直ぐに見据えた。
「ハーゲン商会と契約し、領内での薬草栽培を奨励する。お前のような零細農家を保護し、ペルト商会のような独占商人を二度と復活させない仕組みを作る。
そのために、お前の知識が欲しい。この森のどの場所に、どの薬草が自生し、どう栽培すれば収量が増えるか。お前が知っていることを、すべて教えてくれ」
リラはしばらく、俺を見つめていた。
その瞳には、疑念と、わずかな期待と、そして——俺に対する「値踏み」の色があった。
「……あんた、面白い子ね」
「子扱いするな。俺は十二歳だが、お前より多くの戦争を見てきた」
「戦争? あんたが?」
リラは失笑したが、俺の目が笑っていないのを見て、すぐに表情を改めた。
「……本気なのね」
「本気だ」
「……分かった。でも、条件があるわ」
「言ってみろ」
「あんたが『本当に』ペルト商会を潰したのか、証拠を見せて。噂では、ハーゲン商会が密告したってことになってるけど……私はあんたがやったんじゃないかって、思ってる」
俺はニヤリと笑った。
この少女、只者ではない。
情報の断片から「真犯人」を推測する能力がある。
「証拠か。では、今夜、ハーゲン商会の裏口に来い。ディートリヒに『アルデンの紹介』と言えば、ペルト商会の没収資産の目録を見せるよう手配しておく」
リラは弓を完全に下ろし、腕組みをして考え込んだ。
「……分かった。今夜行くわ。でも、もしあんたが嘘をついてたら、次は矢を喉に撃ち込むから」
「歓迎する。だが、お前は俺を撃てないはずだ」
「……なぜ?」
「お前は『観察』が得意だ。そして、俺の『靴底の減り方』から変化を読み取った。なら、もっと重要なことにも気づいているはずだ」
俺は自分の左手を見せた。
「俺の手のひらには、剣の『マメ』がない。つまり、俺は武術の訓練を一切受けていない。
だが、指先には『ペンのマメ』がある。つまり、俺は常に何かを書き、分析し、計画を立てている。
お前のような人間には、俺が『何者か』は分からなくても、『何者でないか』は分かるはずだ」
リラは、俺の手をじっと見つめ、そして小さく息を吐いた。
「……あんた、本当に化け物ね。十二歳で」
「よく言われる」
***
森からの帰路、俺はリラとの会話を反芻していた。
彼女の観察能力は、情報分析官の素質そのものだ。
訓練すれば、この辺境における「諜報ネットワーク」の中核になれる。
だが、それ以上に気になったことがある。
「……モリッツ。気づいたか?」
「はい。森の入り口付近で、不自然な『枝の折れ方』がありました。人間が数人で通った痕跡です。しかも、かなり最近の」
「ああ。そして、その足跡の深さと歩幅から推測すると——」
俺は声を落とした。
「騎士の訓練を受けた人間だ。少なくとも三人。装備は軽く、移動速度は速い」
モリッツの顔が強張った。
「……まさか、カイル様の?」
「間違いない。兄上は、俺が森で何をしようとしているか探っている。いや、それだけではない——」
俺は振り返り、森の方向を見つめた。
「あの『枝の折れ方』は、わざとらしい。カイルは、俺に『尾行されている』ことを気づかせようとしている」
「……なぜ、そんなことを?」
「脅しだ。『お前の行動はすべて見ているぞ』というメッセージを、俺に送り続けている。
だが、それは同時に、カイルの『焦り』の表れでもある。彼は、俺が何を企んでいるか分からないことに、恐怖を感じている」
俺は冷たい風を受けながら、頭の中の盤面を動かしていた。
カイルは「剣」で戦う。俺は「情報」で戦う。
だが、情報の戦いには、一つの弱点がある。
「……モリッツ。屋敷に戻ったら、すぐに『ある準備』をしてくれ」
「どのような?」
「カイルが、俺に『罠』を仕掛けてくる。それは間違いない。
だが、罠とは、『仕掛けた人間が、その結果を観察しに来る』ものだ。
つまり——罠を逆用すれば、カイルの『手下』を炙り出すことができる」
モリッツは、俺の言葉の意味を理解したようで、背筋を伸ばした。
「……分かりました。どのような準備を?」
「簡単なことだ。俺が『今夜、森の薬草畑に一人で来る』という噂を、カイルの耳に入れればいい。
あとは、リラと協力して、あの畑に『罠』を仕掛ける。
カイルの手下が俺を襲いに来た時——彼らが『誰の命令で動いているか』を、白日の下に晒す」
辺境の森で、二つの戦いが始まろうとしていた。
一つは、帝国軍に対する「兵站戦争」の準備。
もう一つは、異母兄に対する「情報戦」の幕開け。
そして、その両方に、一人の少女——リラ——が関わることになる。
彼女は、俺の「武器」になるのか。それとも——




