参謀の初陣は、泥と麦と
翌朝、俺は馬番のトムを引き連れ、北へ延びる「銀の街道」の視察に向かった。
「見習い幕僚」という肩書きこそ得たが、十二歳の庶子に与えられた権限など、たかが知れている。
父ガレスは「好きにやってみろ」とは言ったが、家臣たちの目は冷ややかだ。まずは「結果」ではなく「実績」——つまり、誰の目にも明らかな「変化」を作らねばならない。
「アルデン様、こんな泥濘の中、本当に視察なんて……」
トムは不安そうに、長靴にへばりつく泥を眺めている。
十歳の少年だ。親に捨てられ、屋敷の馬小屋で寝起きしている。字も読めないが、馬の扱いと、この辺りの地形には詳しい。俺にとって彼は、生きた「地形図」だ。
「トム。この街道で、荷馬車が一日に進める距離はどのくらいだ?」
「えっと……雨の後は無理ですね。車輪が軸まで埋まっちゃうから。頑張っても半日かけて、隣村までがやっとです」
「では、乾季は?」
「乾季なら、朝出て夕方には国境の砦まで行けますよ。でも、今は秋の長雨の季節ですから……」
俺は手帳にメモを書き込んだ。
【銀の街道・物流データ】
・乾季:一日走行距離 約30km(標準的)
・雨季:一日走行距離 約5km(致命的)
・路面状態:粘土質の土壌。排水溝なし。
(……やはりな。これは街道ではない。「泥の川」だ)
ラズラン帝国が侵攻してくる際、必ずこの街道を使う。
帝国の主力は「重装歩兵」と「補給馬車」だ。重装歩兵は強靭だが、食料と矢の消費が激しく、後方からの絶え間ない補給が生命線となる。
つまり、補給馬車の速度が落ちれば、帝国軍は「飢えた野獣」になる。
今の街道は、雨季になれば帝国軍の足を確実に奪う。
だが、それだけでは不十分だ。俺がやりたいのは、「泥」を武器にすることだ。
「トム。この先、街道が谷底に差し掛かる場所があるだろ。あの辺りの地盤は?」
「あー、あそこは『泣き岩』の近くですね。地盤は緩いです。昔、馬車が転落したって聞きました」
「よし。あそこを改修する。だが、通常の補強ではない」
俺は泥だらけの地面に、杖で図を描いた。
「排水溝を掘る。だが、水を街道の外へ逃がすのではない。街道の『内側』、つまり谷側の斜面に水を誘導し、意図的に『地滑り帯』を作るんだ」
トムはポカンとしている。
だが、モリッツだけは俺の意図を悟ったようで、ハッとして顔を上げた。
「アルデン様……まさか、これは……」
「そうだ。これは土木工事ではない。『対帝国軍用・兵站分断トラップ』の設置工事だ」
平時はただの「水はけの良い街道」として機能する。
だが、俺が用意した「栓」を抜けば、一夜にして街道は崩落し、帝国の補給路は寸断される。
敵が「通れる道」だと思っている場所にこそ、最大の罠を仕掛ける。これが兵站破壊の定石だ。
***
屋敷に戻ると、すぐに「家臣会議」が待っていた。
というより、俺に対する「尋問」に近い。
円卓を囲むのは、古参の騎士たちと、財務を担当する家臣だ。
中でもうるさいのが、財務官のヘルマンだ。痩せこけた男で、眼鏡の奥から常に他人のミスを探っている。
「アルデン様。あなたの提案書は拝見しました。しかし、正気の沙汰とは思えませんね」
ヘルマンは羊皮紙を机に叩きつけた。
「街道の改修? しかも排水溝だと? 今、領地の金庫は空っぽですよ。ペルト商会との取引が停止し、来月の税収すら危ういのに、土木工事など論外です。
それよりも、残った資金で『傭兵』を雇うべきです。帝国の斥候が増えている今、必要なのは剣と盾でしょう!」
典型的な「短絡的思考」だ。
目の前の脅威に対して、目の前の武力で対抗しようとする。
だが、戦争は「点」ではなく「面」であり、「瞬間」ではなく「期間」だ。
「ヘルマン。傭兵を何人雇うつもりだ?」
俺は冷静に問い返した。
「は? そ、それは……最低でも五十人。いや、百人は……」
「傭兵の日当は銀貨一枚。百人雇えば、一日で銀貨百枚。十日で金貨十枚。
現在の領地の余力は、良くて一月分だ。一月過ぎて金が尽きれば、傭兵は略奪者に変わる。お前は領民を傭兵の餌にする気か?」
「むっ……! で、ではどうしろと! 街道を直せば帝国軍が防げるというのか!」
「防げない」
俺はきっぱりと言った。
「今のヴェラム軍三千では、帝国軍二万には勝てない。正面からぶつかれば全滅だ」
家臣たちがざわめく。
ガレスが腕組みをして、黙って俺を見ている。
「だが、勝つ必要はない。『負け続ける』必要がある」
「……はあ?」
ヘルマンが呆れたように口を開けた。
「戦争の本質は、敵の『戦意』を折ることだ。
帝国軍が欲しいのは、この領地の『資源』と『中央への通り道』だ。
我々は、街道を『使いにくい道』にし、村々の食料を『隠し』、井戸に『泥』を混ぜる。
帝国軍が一日進むごとに、彼らの兵糧は減り、士気は下がり、疫病のリスクが高まる。
二万の軍隊を養うコストが、得られる利益を上回った時、帝国は撤退する。
これが、小国が大国に勝つ唯一の方法——『消耗戦』だ」
俺は地図を指差した。
「だから、街道改修が必要なんだ。
排水溝は、平時は物流を促進して税収を上げる。戦時は『栓』を抜いて泥沼に変える。
一石二鳥のインフラ投資だ。これをやらない理由は、どこにある?」
ヘルマンは口をパクパクさせたが、反論できなかった。
数字と論理で組み上げられた「勝ち筋」に対して、感情論は無力だ。
「……分かりました。ですが、資金は?」
「ハーゲン商会が全額負担する」
「は?」
「ペルト商会の資産を没収し、それを原資にハーゲン商会が街道整備権を得る。代わりに、今後十年間の街道通行税の徴収権をハーゲンに譲渡する。
領地は持ち出しゼロでインフラを手に入れ、ハーゲンは長期的な収益を得る。Win-Winだ」
ガレスが、ドッと笑い出した。
「ハハハ! まったく、お前は商人か参謀か、どっちなんだ! ヘルマン、アルデンの案で進めろ。文句あるか?」
「……いえ。異議はございません」
ヘルマンは悔しげに、しかしどこか感心したように頭を下げた。
***
会議が終わり、廊下を歩いていると、背後から声がかけられた。
「……おい。庶子」
振り返ると、次男のカイルが立っていた。
十七歳。剣の腕は確かで、騎士としての誇り高い青年だ。だが今は、その瞳に陰りが差している。
母マルセラが謹慎処分となり、彼の後ろ盾は消えた。嫡男ロイドとの家督争いにおいて、彼は圧倒的に不利になったのだ。
「兄上。何か?」
「お前がやったことは聞いた。マルセラを追い出し、商会を手なずけ、父上まで丸め込んだ。大した役者ぶりだ」
カイルは壁にもたれかかり、腕組みをした。
その態度には、憎悪よりも「焦燥」が滲んでいる。
「俺はただ、領地を守りたいだけだ」
「ふざけるな。お前がやっているのは『守護』じゃない。『簒奪』だ。
知恵と謀略で、力ある者の立場を奪っていく。お前は、この家の『癌』になるぞ」
カイルは一歩近づき、俺の耳元で囁いた。
「いいか、アルデン。ロイド兄様は、お前のことを『不気味な弟』だと思っている。俺は……お前を『危険な敵』だと認識した。
マルセラの件、覚えておけ。お前が知恵で戦うなら、俺は『剣』で答えるだけだ」
カイルは肩をぶつけて、去っていった。
俺は彼の背中を見送り、小さくため息をついた。
(……厄介だな)
カイルは単純な悪役ではない。彼は「騎士道」と「家名」を信じている。
だからこそ、謀略で家を操る俺を「卑怯者」と見なすのだ。
そして、彼のような「正義感のある敵」こそ、最も始末に負えない。
だが、今は彼にかまっている暇はない。
「モリッツ」
「はい、アルデン様」
「トムを連れて、北の森へ行く。次は『食料備蓄』の場所を決めないと」
「森ですか? 街道から外れますが」
「ああ。帝国軍が街道を使えなくなった時、彼らが次に狙うのは『森の狩猟道』だ。
そこに、俺たちの『第二の罠』を用意する必要がある」
俺は窓の外、鉛色の空を見上げた。
戦争までの猶予は、あと三年。
泥と麦と、そして兄の敵意。
俺の戦場は、剣が交わる場所ではなく、こうした日常の細部にこそ広がっているのだ。




