数字は嘘をつかない、だが人間はつく
伯爵の書斎は、暖炉の薪が爆ぜる音だけが響く、重苦しい空間だった。
壁には歴代ヴェラム伯爵の肖像画と、錆びついた大剣が飾られている。
部屋の中央にある重厚なオークの机の向こうには、この領地の主であるガレス・ヴェラム伯爵が座っていた。
五十歳を過ぎた今も、熊のような体躯を誇る男だ。
顔には古傷が何本も走っており、無骨な鉄の仮面を思わせる。武人としては一流だが、領主としては……正直、帳簿とにらめっこするのは苦手なタイプだ。
その右隣には、絹のドレスを着込んだマルセラが、ハンカチで目頭を押さえながら座っている。
完璧な「悲劇の被害者」のポーズだ。
そして俺は、部屋の中央に一人、立たされていた。
「……アルデン。説明してもらおうか」
ガレスの低い声が、書斎に響いた。
怒気は抑えられているが、その瞳には厳しい光が宿っている。
「ペルト商会から告発状が届いた。『伯爵家の三男が、ハーゲン商会と結託して我々の倉庫を強盗し、濡れ衣を着せた』とな。しかも、その倉庫の中には、領主に納めるべき年貢の品々があったというではないか」
マルセラが、待ちかねたように声を上げた。
「ガレス様! やっぱりこの仔ですよ! この庶子が、不良仲間を引き連れてペルト商会の倉庫を襲い、それをハーゲン商会に売りさばいたのです! あまつさえ、私やバルドまで『不正を働いている』などと嘘をついて、商会を脅したと聞きます! 伯爵家の名に泥を塗るにもほどがあります!」
演技派だ。
涙声、震える肩、夫への訴えかけ。すべてが計算ずくだ。
だが、俺は慌てない。感情は軍事において最大のノイズだからな。
「父上。その告発状は、ペルト商会の『独り言』です」
俺は冷静に、しかし書斎の隅々まで届く明瞭な声で言った。
「ペルト商会は、領主である父上に納めるべき『上質な冬毛皮』と『蒼麻草』を、三年にわたり横流ししていました。それをハーゲン商会が突き止め、領主府に正当な手続きを経て告発した。これが事実です」
「嘘つき! 証拠はどこにあるの!」
マルセラが甲高い声で叫ぶ。
「証拠なら、ここに」
俺は懐から、一冊の革装丁の帳簿を取り出し、ガレスの机の上に置いた。
これは昨夜、ディートリヒから受け取った「ペルト商会の隠し倉庫の裏帳簿」のコピーだ。
「これは、ペルト商会の隠し倉庫から押収された帳簿です。ご覧ください、父上。
ここには、領内で徴収された毛皮の『実際の数量』と、領主に納品された『偽の数量』が記録されています。その差は、毎年銀貨三百枚分。これは辺境の警備隊の装備を一新できる額です」
ガレスが眉をひそめ、帳簿を手にとってページをめくる。
彼は内政は苦手だが、武人だ。装備や兵站の数字には敏感だ。すぐに「おかしい」と気づいたはずだ。
「……この数字は、確かに私の知っている納品数と違うな。だがアルデン、これがペルト商会の勝手な横領だとしても、お前が商会を脅したという事実は変わらないぞ」
「脅してなどいません。私はハーゲン商会に『情報の対価』として、正当な取引を持ちかけただけです。むしろ問題なのは、その先です」
俺は一歩踏み出し、マルセラを真っ直ぐに見据えた。
「ペルト商会が、なぜ三年もこんな大胆な横領を続けられたのか。
領主の検問を抜け、隠し倉庫を運用し、中央へ密輸する。これには、領主府の『内部の人間』による許可証と、検問所への口利きが不可欠です」
マルセラの顔が、引きつった。
「……な、何を言っているの……」
「帳簿の最後に、面白い記述があります。『M夫人への手数料、四半期ごと』。
M夫人。マルセラ、あなたの頭文字ですね」
「で、デタラメよ! そんなもの、ハーゲン商会が捏造したに決まってるわ!」
「では、これはどう説明します?」
俺はさらに、一枚の羊皮紙を取り出した。
これは今朝、モリッツに頼んで屋敷の「公式な支出記録」から抜き出させたものだ。
「屋敷の公式帳簿には、ここ三年間、『中央への外交交際費』として、毎年金貨五枚が計上されています。しかし、父上が中央に提出した報告書には、そのような交際の事実はない。
では、この金貨五枚はどこへ消えた?
答えは簡単です。ペルト商会経由で、オルヴァーネ商業連合の銀行にある『あなたの個人口座』へ送金されていたのです」
ガレスが、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、マルセラではなく、俺が置いた二つの書類に向けられていた。
そして、武人特有の鋭い直感で、すべてを理解したようだ。
「……マルセラ」
ガレスの声は、静かだったが、氷点下のように冷たかった。
「お前は、私が前線で血を流している間に、領民から搾取した金で、中央に逃げ道を作っていたのか」
「ち、違います! ガレス様、これはこの仔の罠です! 私がアルデンを冷遇したことを恨んで、こんな嘘を……!」
「黙れ」
ガレスが机を叩いた。ドーンという轟音に、マルセラが悲鳴を上げて縮こまる。
「数字は嘘をつかん。だが、人間はつく。
アルデンが持ってきたこの帳簿の筆跡と、ペルト商会の印鑑は本物だ。そして、お前の個人口座の存在は、私も薄々感づいていた。ただ、証拠がなかっただけだ」
ガレスは立ち上がり、マルセラを見下ろした。
「マルセラ。お前は今日から、中央の塔(離れ)で謹慎だ。バルドも同罪として投獄する。ペルト商会との癒着の全容は、追って審問する」
「……そんな、ガレス様……! ロイドもカイルも、私がいなければ……!」
「息子たちは私が育てる。下がれ」
マルセラは絶望の表情で俺を睨みつけたが、衛兵に腕を引かれ、書斎から引きずり出されていった。
***
重い扉が閉まり、書斎にはガレスと俺の二人だけが残った。
沈黙が流れる。
暖炉の火が、パチパチと音を立てている。
ガレスは机に深く座り直し、疲れたようにため息をついた。そして、俺を——十二歳の庶子を、値踏みするような、しかしどこか畏怖を込めた目で見てきた。
「……アルデン。お前、いつからそんな『目』を持っていた?」
「本を読んでいたからです、父上。書庫にあった、古代帝国の戦史や、商業都市の興亡録を」
「ふざけるな。本を読んだくらいで、商会の裏帳簿の在り処や、資金洗浄のルートが見えるか。お前はまるで、十年は場数を踏んだ老兵か、狡猾な参謀のようだ」
俺は答えなかった。
本当のことを言えば、前世で防衛省の地下に籠もって分析していたからだ、とは言えない。
「……まあいい。結果として、お前は領地を蝕む毒を抜き、私に真実を突きつけてくれた。これは賞賛に値する」
ガレスは机の引き出しから、小さな革袋を取り出し、俺に放った。
中身は金貨だ。
「これは褒美だ。好きに使え。……だが、アルデン。これで終わりだと思うなよ」
「……というと?」
「マルセラを切れば、中央の貴族とのパイプが断たれる。ペルト商会を潰せば、オルヴァーネ商業連合からの借金の取り立てが厳しくなる。
お前は毒を抜いてくれたが、その副作用で、この領地は『出血』を始めたんだ」
ガレスの言葉には、領主としての重責と、わずかな弱音が混じっていた。
彼は武人だ。剣で敵を斬ることはできても、経済の流血を止める術を知らない。
俺は、この瞬間を待っていた。
「父上。止血なら、私にできます」
ガレスが目を丸くした。
「……お前に?」
「はい。ペルト商会の代わりに、ハーゲン商会と新しい契約を結びます。条件は、領内での薬草栽培の『独占権』と引き換えに、オルヴァーネへの借金を肩代わりさせること。
そして、浮いた資金で、北の街道の修繕と、警備隊の『装備』ではなく『食料』の備蓄を始めます」
「食料? なぜ装備ではない?」
「なぜなら、来年の冬、ラズラン帝国は侵攻してこないからです」
ガレスが、ハッとした表情で立ち上がった。
「……何を言う。帝国の斥候が、最近国境付近で増えているという報告を受けたばかりだ。侵攻の準備ではないのか?」
「違います。それは侵攻の前兆ではなく、『測量』です」
俺は壁にかけられた地図を指差した。
「帝国の皇太子は、来年の春、南のソレイス教国と小競り合いを起こす予定です。彼らにとって、今のヴェラム王国は『攻撃対象』ではなく、『後方を確保するための測量対象』に過ぎない。
彼らが本当に攻めてくるのは、教国との戦争が膠着し、兵糧が枯渇する三年後。その時、彼らはこの辺境の街道を使い、一気に中央へ抜けるつもりです」
ガレスは、言葉が出ないようだった。
「……お前、それは、国家レベルの戦略分析だ。一介の辺境貴族の、十二歳の息子が知っていていい情報ではないぞ」
「ですから、言ったでしょう。本を読んでいたのです」
俺はニヤリと笑った。
「父上。私を、あなたの『参謀』にしてください。
剣は振るえませんが、この領地と、あなたと、母さんを、次の戦争から守る自信はあります」
ガレスはしばらく、俺の目をじっと見つめていた。
やがて、大きく、そして深く、ため息をついた。
「……化け物め。いや、もしかしたら、ヴェラムの祖先が舞い戻ってきたのかもしれんな」
彼は机の上の地図を指でなぞり、そして俺に向かって、武人としてのある種の覚悟を決めた顔で言った。
「いいだろう、アルデン。明日から、お前は私の『見習い幕僚』だ。
だが、忘れるな。知識は剣よりも鋭いが、それを振るう腕がなければ、己の首を斬るだけだぞ」
「承知しています」
こうして、辺境の貧乏貴族による、国を救うための「戦争」が、本格的に始動した。
だが、俺が書斎を出た瞬間、廊下の隅で、一つの影がこちらを窺っているのに気づいた。
金の髪、鋭い瞳。
マルセラの息子であり、俺の異母兄である次男、カイルだ。
彼は、マルセラが連行される一部始終を見ていたのだろうか。
俺と目が合うと、憎悪と嫉妬、そして奇妙な「計算」の入り混じった目で俺を睨みつけ、闇の中へ消えていった。
(……内憂は一つ片付いたが、外患と、新たな火種が芽吹き始めたか)
俺は冷たい廊下の空気を吸い込み、次の一手を考え始めた。




