嫡母の牙と、見えざる盾
屋敷の重厚な扉をくぐった時、モリッツは安堵のため息をついていた。
「……どうやら、完全に撒けたようです。市場の雑踏に紛れさせ、裏路地を三つ回りました。マルセラ様の手の者も、さすがにここまでは追ってこれますまい」
「ご苦労様、モリッツ。だが、油断はするな。奴らは『俺が何をしたか』は分からなくても、『俺がハーゲン商会に行った』という事実だけは握っている」
俺は薄暗い廊下を歩きながら、頭の中の盤面を動かしていた。
マルセラはなぜ、俺ごときの動向を気にするのか。
答えは簡単だ。彼女にとって、この辺境の貧乏伯爵家は「自分の息子たち(嫡男ロイドと次男カイル)の財産」であり、同時に彼女自身の「隠し金庫」だからだ。
アルデンの記憶を漁れば、マルセラは中央の貴族と頻繁に手紙をやり取りしている。そして、屋敷の会計には不自然な「交際費」や「修繕費」の計上が散見される。
つまり、彼女は屋敷の資産を少しずつ切り売りし、中央に自分の逃げ道を作っているのだ。
そして、その資産の換金ルートとして使われているのが——
「ペルト商会、か」
俺は小さく呟いた。
ペルト商会がオルヴァーネ商業連合と太いパイプを持っているのも、領内の薬草や毛皮を不当に安く買い叩いているのも、すべてはマルセラと裏で繋がっているからだ。
彼女が領主である夫の目を盗んでペルト商会に便宜を図り、その見返りにリベート(キックバック)を受け取っている。これがこの屋敷の「闇」だ。
俺がハーゲン商会に接触したことは、マルセラにとって「自分の不正が暴かれるかもしれない」という恐怖そのものなのだ。
「モリッツ。離れに戻る前に、一つ頼みがある」
「なんでしょうか」
「さっきハーゲンから受け取った『手付金の金貨一枚』を、父上の書斎の机の引き出しに入れておいてくれ。俺が『父上の誕生日祝いの品を買うための資金を、ハーゲン商会に前払いした』というメモも添えてな」
モリッツはきょとんとしていたが、すぐに俺の意図を悟ったようだ。
「……なるほど。『抜き打ち検査』への保険、というわけですか」
「そういうことだ。急いでくれ。奴らは思ったより早い」
***
案の定、俺が離れの自室に戻って一息つく間もなく、乱暴な足音が廊下から近づいてきた。
扉が軋む音と共に開け放たれ、三人の男たちが踏み込んできた。
先頭に立っているのは、マルセラの腹心である執事補佐のバルドだ。眼光が鋭く、常に他人を見下したような薄ら笑いを浮かべている男だ。
「アルデン様。突然の無礼、お許しください」
バルドはそう言いながら、全く敬意のない目で俺を見下ろしていた。
「実は先日、領内の商人から『伯爵家の名を騙って、不当な取引を強要した不届きな少年がいる』という通報がございまして。マルセラ様のご命令により、離れを捜索させていただきます」
典型的な「濡れ衣」だ。
俺が商会から金を脅し取ったという嘘の嫌疑をかけ、離れを引っ掻き回し、もし金貨が見つかれば「ほら見ろ、盗んだな」と言い掛かりをつける。見つからなければ「迷惑をかけた」と適当に誤魔化して、俺たちを威圧する。
中世の宮廷闘争ですら使い古された、稚拙な手口だ。
「勝手にすればいい。だが、母さんは病で寝ている。部屋の外で騒ぐな」
俺は椅子に座ったまま、冷たく言い放った。
バルドは鼻で笑い、手下たちに目配せをした。
男たちは手際よく部屋の中を漁り始めた。床板を叩き、本棚の裏を調べ、果ては母の寝室にまで入ろうとする。
「おい、母さんの部屋には入るなと言っただろ」
俺が立ち上がると、バルドがニヤニヤしながら道を塞いだ。
「おやおや、アルデン様。やましいことがないのなら、見せていただいても構わないでしょう? もしかしたら、盗んだ金貨で高価な薬でも買い込んでいらっしゃるのでは?」
「……バルド。あんたはペルト商会のディートリヒと、毎月何の日会っている?」
俺の声は、小さく、しかし氷のように冷たかった。
バルドの表情が、一瞬凍った。
「……何を、言っているんだね」
「毎月、第三の金曜日の夜。街の外れにある『踊る豚亭』という酒場の二階で、ペルト商会の使いと会っている。そして、マルセラ夫人の『隠し口座』の明細を受け取っている。違うか?」
それは、アルデンの記憶にあった「バルドの行動パターン」と、黒木の知識にある「不正資金の洗浄ルート」を掛け合わせて導き出した推測に過ぎない。
だが、バルドの瞳孔が開き、額に脂汗が浮かんだのを見て、俺は確信した。
「ハーゲン商会のディートリヒはな、最近ペルト商会の『隠し倉庫』の場所を突き止めたらしいんだ。廃鉱山跡の、あの場所をな」
俺はバルドの耳元に近づき、囁くように言った。
「もし、ペルト商会が領主である父上に『隠し倉庫』と『脱税』の嫌疑で告発されたらどうなる? ペルト商会は潰れる。そして、ペルト商会と『深い付き合い』をしていたマルセラ夫人の立場は……どうなると思う?」
バルドの顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「……お、お前は……」
「捜索は終わりか? 金貨など、ここにはない。俺はただ、父上の書斎に『献上品の準備』を頼んでおいただけだ。不信なら、父上の書斎を調べればいい」
バルドは口をパクパクさせながら、俺を睨みつけた。
だが、その目にあったのは怒りではなく、明確な「恐怖」だった。
彼は手下たちに乱暴に合図をし、何も言わずに離れを去っていった。
***
その日の夜。
モリッツが、ハーゲン商会からの「届け物」を持ってきた。
小さな木箱と、革袋に入った金貨二枚。そして、一通の手紙。
『アルデン様。あなたの情報は完璧でした。ペルト商会の隠し倉庫を押さえ、領主府に密告いたしました。ペルト商会は明日にも営業停止処分を受けるでしょう。約束の金貨と、特級の「蒼麻草」の精製薬をお届けします。——ディートリヒ』
俺は木箱を開け、淡い青色に輝く液体が入った小瓶を手に取った。
これで、母は助かる。
俺はすぐに母の部屋へ向かった。
エリザは相変わらず苦しそうな呼吸をしていたが、俺が薬を飲ませ、一時間ほどすると、嘘のように咳が収まり、穏やかな寝息を立て始めた。
「……よかった」
俺は母の額に手を当て、小さく息を吐いた。
前世の俺は、誰の熱も測れなかった。だが今は、こうして母の体温を感じることができる。
その時、モリッツが慌ただしく廊下を走ってくる音がした。
「アルデン様! 大変です!」
「どうした、モリッツ。ペルト商会の件で何か?」
「いえ、そうではなく……! 辺境警備に出ていらっしゃったガレス様(父上)が、予定より一ヶ月早く、今しがた屋敷にお戻りになったのです!」
俺はハッとした。
父、ガレス・ヴェラムの帰還。
「そして、ガレス様は屋敷に入るなり『マルセラと、アルデンを呼べ』と……! なんでも、ペルト商会から『伯爵家の人間に賄賂を渡していた』という告発状が届いたそうで……!」
俺はニヤリと笑った。
ディートリヒめ、仕事が早いな。告発状の中に、マルセラの名前も混ぜておいたのか。
「モリッツ、父上の元へ案内してくれ」
「は、はい! ですがアルデン様、マルセラ様はきっと、すべてをあなたのせいになさいますよ! 庶子が商人をたぶらかして、伯爵家に泥を塗ったと!」
「構わない。むしろ、それでいい」
俺は立ち上がり、鏡で自分の顔を確認した。
十二歳の、貧弱な少年。だが、その瞳には、千年の戦争を生き抜いた老将のような静かな炎が宿っている。
「宮廷闘争の基本はな、モリッツ。『敵が先に手を出してきた時、その手を逆用して、より大きな敵を倒す』ことだ。マルセラは自分で自分の首を絞めてくれた」
辺境の貧乏貴族による、最初の「内戦」は、こうして幕を開けた。




