第二部 第8話 聖なる嘘と、紙の断頭台
「悪魔の機械を壊せ! 神の御名において、煙を払え!」
ヴェラム王国の東部、穀倉地帯にある水車工房が、松明の炎に包まれていた。
火を着けたのは、帝国の残党でもオルヴァーネのスパイでもない。
この土地で代々農業を営んできた、敬虔な農民たちだった。
「……アルデン様。またです。今週で三件目の工場が焼かれました」
モリッツが、煤の匂いが染みついた報告書を机に置く。
彼の顔には、憤りよりも深い悲しみが浮かんでいる。
「彼らは言っています。『蒸気の煙は天への冒涜であり、機械は人の魂を喰らう』と。
ソレイス教国の巡礼僧たちが村々を回り、そう説法しているのです。
……我々が配った耐寒性麦の種も、蒸気式の水揚げポンプも、『呪われた道具』として川へ捨てられました」
カイルが、剣の柄を強く握りしめて立ち上がった。
「ソレイス教国……! あの狂信者どもが、オルヴァーネの金で我々の内政を撹乱しているな。
軍隊を出して、国境付近の教会を封鎖すべきだ。このままでは、地方の民心が王都から離反する」
「いけません、兄上。剣で思想は切れません」
俺は窓の外、王都の空を覆う煤煙を見つめたまま、静かに答えた。
「彼らが信じているのは『神』ではありません。『変わらない日常』への執着と、未知への『恐怖』です。
そこに軍隊を送り込めば、彼らは自らを『殉教者』だと信じ込み、反乱はさらに拡大します。
……我々が必要なのは、剣ではなく『紙』です」
俺は机の引き出しから、一枚の金属板を取り出した。
それは、鉛とアンチモンの合金で作られた、小さな「文字の型」だ。
「活版印刷……ですか?」
モリッツが訝しげに尋ねる。
「ええ。手書きの聖典は、一冊作るのに羊が十頭必要で、貴族と聖職者しか読めなかった。
だから、彼らは聖典の言葉を自分たちの都合よく『改ざん』し、民衆を支配できた。
ですが、この機械を使えば、一日で千冊の『真実』を刷ることができる。
……ソレイス教国が『神の言葉』で攻めてくるなら、我々は『神の言葉』そのものを『再定義』してやればいいんです」
***
ソレイス教国・異端審問官アルベルトは、王都ルンデルの中央広場で、数千人の民衆を前に説教を行っていた。
彼は美男子であり、その声は鈴を転がすように美しく、そして聴衆の恐怖を煽るのに長けていた。
「——見よ、王都の空を覆う黒い煙を!
あれは、ヴェラムの女王が傲慢にも神の領域へ手を伸ばした結果、天から降ってきた『罰の煤』なのだ!
機械は人を怠惰にし、蒸気は大地の精霊を殺す。
悔い改めよ! あの『鉄の鯨』と『悪魔の馬車』を焼き払い、清らかな風と帆の時代へ戻らねば、神は再び『嘆きの平野』のような業火をこの地に降されるだろう!」
民衆たちがざわめき、不安げに空を見上げる。
アルベルトは心の中でほくそ笑んだ。
(……オルヴァーネのヴェロニック殿からの報酬は、すでに教会の金庫にある。後はこの国の民衆を暴徒化させ、内戦を起こさせるだけだ)
その時だった。
広場の外れで、一台の馬車が止まり、若者が山のような「紙束」を配り始めた。
「——配れ! これは『神の真意』だ! 一冊につき銅貨一枚、いや、今日だけは無料だ!」
「なんだ、あの紙は?」「聖典……? いや、違う、もっと読みやすい字だ」
民衆たちが、我先にと紙束を奪い合う。
それは、アルデンが印刷させた『新約・労働福音書』だった。
「……なんだこれは!? 不敬な!」
アルベルトが駆け寄り、紙を取り上げて読み上げた。そこにはこう書かれていた。
『神は六日で世界を創り、七日目に休まれた。
されど、神は人に『手』と『知恵』を与え、八日目からの世界を『共に創る』ことを許された。
鍬も、水車も、そして蒸気も、すべては神が大地に隠した『恵みの種』。
それを掘り起こし、人々の苦しみを減らすことこそ、神への最大の祈りなり。
——怠惰こそが罪。労働を助ける機械は、神の御業の顕れなり。』
「ば、馬鹿な……! こんな解釈は異端だ! どの聖典にそんなことが書いてある!」
アルベルトが叫ぶと、群衆の中から一人の老人が手を挙げた。
「審問官様。あそこに書かれている引用は、古い教典の『創世記外典』からのものですぞ。
……わしらは何十年も教会へ通ったが、神父は一度もその箇所を読み聞かせてくれなんだ。
あんたら、わしらに『知らない』ことを利用して、嘘をついていたのか?」
老人の言葉に、広場の空気が一変した。
アルデンは、教国が意図的に隠蔽していた「労働を肯定する古文献」を掘り起こし、活版印刷で「常識」としてばら撒いたのだ。
「……だ、黙れ! 貴様らは悪魔に唆されている!」
アルベルトが激昂したその時、広場の演壇へ、俺——アルデン・ヴェラムが、衛兵を連れずに一人で登壇した。
「悪魔? 面白い言葉ですね、審問官。
ではお聞きしましょう。悪魔とは、人の腹を膨らませる者のことですか? それとも、人の病を治す者のことですか?」
俺は懐から、一つの小さな瓶を取り出した。
「これは、我々の工場で作られた『消毒用アルコール』です。
去年、東の村で天然痘が流行った際、教国の神父は『神の罰』だと言って祈祷だけで済ませ、多くの子供が死にました。
ですが、我々はこの水で傷口を洗い、隔離を行い、多くの命を救った。
……審問官。命を救う『化学』が悪魔なら、子供を死なせた『祈祷』は神なのでしょうか?」
アルベルトの顔から血の気が引いていく。
民衆たちの視線が、刺すような「疑念」へと変わっていくのを、彼は肌で感じていた。
「……言葉遊びは終わりだ! 異端審問局の名において、貴様を拘束する!」
アルベルトが隠し持っていた短剣を抜こうとした瞬間、広場の隅から「カシャッ」という乾いた音が響いた。
リラ率いる情報部員が、アルベルトの懐から落ちた「ある帳簿」を、群衆の目の前で広げたのだ。
「……皆さん、見てください。これが、審問官様が説教の裏でやり取りしていた『神の声』です」
リラが朗々と読み上げる。
『オルヴァーネ商会より、ヴェラム攪乱工作資金として、金貨五千枚受領。
使用用途:暴動の扇動、聖職者への賄賂、偽の奇跡の演出……』
広場が、凍りついたような静寂に包まれた。
そして、その静寂を破ったのは、誰かの怒号だった。
「……金、だと?」
「俺たちの信仰を……金で売ったのか!」
「神の名を騙る泥棒め!」
怒りの渦が、アルベルトへと殺到した。
石が飛び、唾が吐かれ、かつて「神の代弁者」として畏れられていた彼は、今やただの「詐欺師」として群衆に引きずり下ろされた。
***
その夜。
王宮のバルコニーで、セラフィナ女王は、広場での騒動の報告を聞きながら、赤ワインを揺らしていた。
「……凄まじい手口ね、アルデン。
あなたは『神』を殺したわけじゃない。神を『我々の側』に引き寄せただけ。
これで、教国はヴェラム国内での影響力を完全に失った。オルヴァーネの工作も、これで打ち止めかしら?」
「いいえ、陛下。これで終わりではありません」
俺は、夜空の星ではなく、東の地平線を見つめていた。
「教国の権威が失墜すれば、彼らは『聖戦』という名の軍事侵攻を正当化します。
『異端の国を浄化する』という大義名分があれば、周辺国も兵を貸しやすい。
……ですが、心配はいりません」
俺はニヤリと笑った。
「彼らが軍隊を集結させる頃には、我々の『鉄の道』は彼らの国境まで伸びています。
そして、教国の下部組織である『救貧院』には、すでに我々の規格の『安価な毛布』と『石炭』が行き渡っている。
……彼らが我々を攻めようとすれば、まず自国の民衆が『暖房と仕事』を奪われることを恐れて、反乱を起こすでしょう」
セラフィナは、俺の冷酷なまでの計算に、背筋を震わせた。
「……あなたは、信仰すらも『コスト』と『リソース』にしてしまったのね」
「ええ。神は天に在りては全能でしょう。
ですが、地上では『物流』と『規格』を握る者が、神の代行者なのです」
俺たちは、剣ではなく「紙」と「石炭」で、また一つ大陸の旧秩序を葬り去った。
だが、地平線の向こうでは、古い神々が断末魔の叫びを上げながら、最後の牙を研いでいる。




