第二部 第7話 鉄の軌跡と、敗北者の同盟
大地を切り裂く、二本の平行な「傷跡」。
サン・テルモの港から、王都ルンデル、そして北の辺境エルムフォードへと続く、全長四百キロメートルの「鉄の道」が、ついに全線開通した。
「——汽笛を鳴らせ! 『黒鉄の馬』の出発だ!」
バルタザールの渾身の号令と共に、巨大な蒸気機関車が甲高い咆哮を上げた。
シュウウウウウウウ!!
黒煙を吐き上げ、巨大な動輪が鉄のレールを噛み、火花を散らしながら数百トンの貨物列車を引き連れて加速していく。
馬なら十日かかる距離を、この怪物はわずか一日で駆け抜ける。
沿線の村々では、農民たちが手を止め、畏敬と恐怖の入り混じった目で「時を縮める怪物」を見送っていた。
「……これで、大陸の『距離』という概念は死んだな」
王都の中央駅ホームで、セラフィナ女王は複雑そうに呟いた。
彼女の隣には、王都の官僚や各国の大使たちが、呆然と列車の残煙を見つめている。
「ええ、陛下。これからは『距離』ではなく『規格』が国力を決めます」
俺は懐中時計を閉じ、冷徹に告げた。
「レールの幅(軌間)、ボルトの螺子山、連結器の形状。これらすべてはヴェラム標準で統一されています。
他国がどれだけ豊かな鉱山を持っていようと、我々の規格に合わない鉄道は走らない。
……我々は今日、大陸の『血管』を握ったのです」
***
その夜、王宮の地下にある極秘の迎賓室。
俺とセラフィナは、一国の使者と向き合っていた。
来訪者は、深紅のマントで顔を隠しているが、その瞳は氷のように鋭く、そして深く疲弊していた。
「……お久しぶりです、アルデン・ヴェラム辺境伯。いや、今は『産業の父』と呼ぶべきかしら」
フードを脱いだのは、美しい銀髪と、左頬に浅い火傷の跡を持つ女性だった。
ラズラン帝国、第三皇女カタリナ。
四年前の「嘆きの平野」で、五万の将兵とバルバロス将軍を失い、皇太子が失脚した後、帝国の摂政として混乱する国家の再建を任された女帝候補だ。
「ようこそ王都へ、カタリナ殿下。ですが、帝国の摂政が極秘で我が国へ来るとは。オルヴァーネのスパイに嗅ぎつけられませんでしたか?」
セラフィナが鋭い視線を投げかける。
かつて死闘を交えた敵国の皇女。だが、カタリナの表情に傲慢さはなく、ただ冷徹な「計算」だけが宿っていた。
「ええ、嗅ぎつけられましたわ。だからこそ、私は『偽物』の影武者を東の街道へ走らせ、本体は貴国の『石炭列車』の貨物に紛れてここへ来たの」
カタリナは苦々しげに笑い、そして机の上に一枚の帳簿を叩きつけた。
「……ラズラン帝国は、もう終わりよ。
四年前の戦争で、我々はオルヴァーネ商業連合から巨額の『戦争債券』を発行して軍資金を調達した。
だが、五万の兵は灰になり、賠償金も取れず、帝国はオルヴァーネに対して『返済不能』のデフォルト寸前。
オルヴァーネは借金のカタとして、帝国北部の『黒鉄鉱山』と『港』の永久租借を要求している。
このままでは、帝国はオルヴァーネの『資源を掘るだけの奴隷国家』に転落する」
カタリナは俺を真っ直ぐに見据えた。
「アルデン。貴方はオルヴァーネの信用を爆散させ、彼らの造船ギルドを壊滅させた。
私は貴方に『取引』を持ちかけに来たの。
帝国北部の黒鉄鉱山の採掘権と、広大な平原の『小麦』を、貴方のヴェラム王国に独占的に提供する。
その代わり、貴方の『鉄道技術』と『新式ライフル銃の生産ライン』を帝国へ譲渡してほしい。
オルヴァーネの経済支配から逃れるには、貴方の『煙』の力が必要なの」
かつての敵が、頭を下げて技術を乞うている。
カイルなら「騎士道に悖る」と剣を抜くかもしれない。だが、俺はただ机の上の地図を引き寄せた。
「鉱山の採掘権と小麦、魅力的なオファーです。ですが、条件が一つあります」
「……何?」
「帝国に鉄道を敷くのは構いません。ですが、そのレールの幅、車両の連結器、そして銃の弾薬の規格は、すべて『ヴェラム標準』を採用してください。
さらに、鉄道の運営と保守点検は、ヴェラム王立鉄道公社が『合弁』という形で管理する」
カタリナの瞳が、ハッとして見開かれた。
彼女は聡明だ。この条件が何を意味するか、すぐに理解したはずだ。
「……貴方は、帝国を『ヴェラムの経済的属国』にする気ね。
規格を握られ、保守を握られれば、帝国の軍隊と物流は、貴方のさじ加減一つで止まってしまう。
それは、オルヴァーネの借金と何ら変わらない『新しい鎖』じゃない」
「ええ。ですが、オルヴァーネの鎖は『金』でできており、帝国を搾取するだけです。
我々の鎖は『鉄と蒸気』でできており、帝国に『産業と雇用』をもたらします。
……どちらの鎖が、帝国の民を飢えから救うか。賢明な摂政殿下なら、お分かりのはずです」
俺はインクに浸したペンを、カタリナへと差し出した。
「戦争の時代は終わりました、殿下。
これからは、どちらの『規格』が世界を動かすかという、静かなる覇権争いです。
帝国が生き残る道は、我々の『歯車』になることですよ」
カタリナは震える手でペンを受け取り、そして深く息を吐いて、条約書に署名した。
四年前、泥と血で殺し合った二つの国が、今や「資本と規格」という名の不可視の同盟を結んだのだ。
***
「……お前、本当に悪魔だな。敵の皇女を、涙ながらに『奴隷契約』に署名させるとは」
会談後、廊下で待機していたカイルが、呆れと感心が入り混じった声で呟いた。
「奴隷ではありません、兄上。彼女は『帝国の未来』を買ったのです。その対価が『規格の譲渡』だっただけですよ」
俺は窓の外、王都の夜空を覆う工場の煤煙を見上げた。
「ですが、これでオルヴァーネは完全に追い詰められました。
彼らは『海(船)』を我々に奪われ、今度は『陸(鉄道と資源)』の利権まで失った。
金と信用を失った商人が最後に何をするか……」
「……まさか」
「ええ。彼らは『ルールそのもの』を壊しに来ます」
***
同じ頃、オルヴァーネ商業連合の最深部。
爆発事故で片腕と「信用」を失ったヴェロニックは、義手のフックで机の上の書類を掻きむしっていた。
「……ヴェラムの鉄道が、ラズラン帝国へ伸びただと? ふざけるな、ふざけるなァァァ!!」
彼の周囲には、大陸中の市場を失い、破産寸前に追い込まれたギルドの長や、中小商会の代表たちが集まっている。
彼らの目には、理性の光はなく、ただ「自分たちを破滅させた者への憎悪」だけが燃え盛っていた。
「ヴェロニック様。我々の商品は、ヴェラムの『安価な規格品』に駆逐され、倉庫で腐っています。
このままでは、オルヴァーネはただの『過去の栄光』にしがみく亡霊になってしまう……」
「黙れ。我々は『商人』だ。市場が壊れたなら、市場を『作り直せば』いい」
ヴェロニックは血走った目で、壁に掛けられた大陸地図を睨みつけた。
そして、彼の視線が止まったのは、大陸の西の果て、狂信的な神権国家「ソレイス教国」だった。
「ヴェラムの『蒸気と鉄』は、神の摂理に反する『悪魔の冒涜』だ。……そうだろう?」
ヴェロニックは歪んだ笑みを浮かべ、部下に命じた。
「教国の『異端審問局』へ、匿名で多額の『寄進』を送れ。
そして、ヴェラムの工場が『神を冒涜する煙』を吐き、子供たちを機械の歯車に巻き込んでいるという『証拠(偽造書類)』をばら撒け。
……金で買えないなら、『宗教』と『恐怖』で、あの小僧の規格を『異端』として焼き尽くしてやる!」
経済戦争の次は、思想と信仰の戦争。
大陸を巻き込む巨大な歯車は、きしむ音を立てながら、さらに狂気のスピードで回り始めていた。




