第二部 第9話 神の沈黙と、装甲列車の福音
「神は我等と共に在り! 異端の煙を、聖なる炎で濯げ!」
ソレイス教国の聖都から、三万の「聖戦軍」が北の国境へと進軍を始めた。
異端審問局の失敗と権威失墜を受け、教国の強硬派である枢機卿イグナティウスが「聖戦」を宣言したのだ。
彼らの装備は、教国が数百年かけて貯め込んだ古式な槍や剣、そしてオルヴァーネから高値で掴まされた旧型のマスケット銃。
だが、彼らの瞳には理性の光はなく、ただ「神の敵を討つ」という狂信の炎だけが燃え盛っていた。
「……見ろ、イグナティウス様。地平線の先に、異端どもの『鉄の蛇』が見えます」
副官が指差す先には、ヴェラム王国の領土へと伸びる鉄道の線路が、冬の曇天の下で鈍く光っている。
イグナティウスは白馬の上から杖を掲げ、叫んだ。
「あの冒涜の鉄を引き剥がし、工場を焼き払い、神の風をこの大地に取り戻すのだ! 突撃せよ、神の戦士たちよ!」
三万の狂信者たちが、鬨の声を上げながら線路へと殺到した。
だが、彼らが線路の周囲数百メートルまで近づいた時、大地の底から不気味な振動が伝わってきた。
「……ん? 地震か?」
イグナティウスが馬の手綱を引いたその時、霧の向こうから「それ」は現れた。
馬ではない。城でもない。
黒鉄の装甲板で全身を覆われ、側面には無数の銃眼と、屋根には回転式の連装砲を備えた巨大な「鋼鉄の城塞」——装甲列車『鉄の使徒』 が、蒸気を噴き上げながら線路の上を滑走してきたのだ。
***
装甲列車の司令車両内。
石炭ストーブの熱で暖められた車厢で、俺は温かい紅茶を啜りながら、窓の外の狂信者たちを見下ろしていた。
「……アルデン。敵の数は三万。対する我々は、この列車に乗った二百名の銃兵と、四門の野戦砲だけだ」
カイルが、窓の外を埋め尽くす敵の群れを見て、珍しく緊張した面持ちで呟いた。
「数など意味がありません、兄上。彼らは『神』を信じていますが、我々は『物理』を信じていますから」
俺は懐中時計を取り出し、秒針が12を指すのを待った。
「全砲門、開放。散弾装填。……そして、鉄条網の通電を開始してください」
***
「神の御名において、砕け! 異端の鉄よ!」
先鋒の狂信者たちが、線路の脇に張り巡らされた奇妙な「針金の網(鉄条網)」に飛びかかった瞬間だった。
バチバチバチバチッ!!
「ぎゃあああああ!」「なんだこれは!? 雷だ! 網から雷が!」
これは、発電機を搭載した貨物列車から送電される「電気鉄条網」だ。
まだ実用的な電力網ではないが、湿地帯の泥濘に立つ敵へ、致死性のショックを与えるには十分すぎる。
感電した兵士たちが次々と痙攣して倒れ、後続の兵士たちは恐怖で足を止めた。
「怯むな! これは悪魔の幻だ! 神の加護があれば雷など——」
イグナティウスが怒鳴ろうとした時、装甲列車の屋根が開き、四門の野戦砲と、二基のガトリング砲が唸りを上げた。
ドドドドドドドドドド!!
ガラガラガラガラガラガラ!!
神の言葉など、音速の前ではただの空振りに過ぎない。
散弾の嵐が狂信者の列を薙ぎ倒し、鉛の雨が大地をえぐっていく。
それは「戦闘」ですらなかった。工業製品が、肉体という名の旧式な素材を「処理」する現場だ。
「……な、なぜだ……神は、なぜ沈黙されているのだ……」
泥と血にまみれた兵士たちが、空を見上げて嗚咽を漏らしている。
彼らが祈りを捧げても、天からは何の奇跡も降ってこない。
ただ、機械的なリズムで弾丸を吐き出す「鉄の使徒」の黒煙だけが、空を覆っていた。
***
その頃、戦場から数百キロ離れたオルヴァーネ商業連合の本部。
ヴェロニックは、教国の「聖戦」の進捗を待つため、上機嫌で葉巻を吹かしていた。
「……ヴェラムの鉄の馬など、三万の狂信者の肉弾戦の前では止まる。
教国がヴェラムを焼き払えば、我々は再び大陸の『救世主』として進出し、市場を独占できる」
だが、彼の机の上に置かれた通信機(有線電信のプロトタイプ)が、甲高い音で悲鳴を上げた。
「……ヴェロニック様! 大変です! 教国の聖都から緊急連絡が!」
「どうした? イグナティウスがアルデンの首でも送ってきたのか?」
「い、いえ……! 教国の民衆が、聖都の『大聖堂』を包囲し、暴徒化しているとのことです!」
「なんだと!?」
部下が震える手で差し出した電報には、絶望的な文字が並んでいた。
『教皇庁の金庫が空であることが民衆に発覚。
イグナティウス枢機卿が、オルヴァーネからの多額の借金を、民衆の「什一税」を担保にしていた書類が、ヴェラムの商会によって公開される。
民衆は「我々の信仰は、オルヴァーネの金で買われた」と激昂。聖都は崩壊寸前。
さらに、ヴェラムの列車が戦場で降伏した教国兵に対し、「石炭と新しい聖典、そして職」を配って解放しているとの噂が扩散。前線からの逃亡者が続出』
ヴェロニックの葉巻が、ポロリと床に落ちた。
「……ば、馬鹿な……。アルデンの小僧め、戦争をしながら、裏で教国の『債権』を買い占めていたというのか!?」
***
戦場。
砲煙が晴れ始め、三万の聖戦軍はすでに崩壊していた。
生き残った数千の兵士たちは、武器を捨て、泥の上に跪いて震えている。
装甲列車の扉が開き、俺は衛兵を連れて外へと降り立った。
イグナティウス枢機卿は、折れた杖を抱え、血走った目で俺を睨みつけている。
「……悪魔め。殺すなら早くしろ。だが、神は必ず貴様らを罰する……」
「神は罰しませんよ、枢機卿。なぜなら、神はすでに『会計帳簿』の上で、あなたを見放していますから」
俺は懐から、一枚の羊皮紙を取り出し、彼の眼前に突きつけた。
「これは、オルヴァーネ商業連合が教国へ貸し付けた『戦争債券』の証書です。
ですが、昨日の夜中に、我々の王立銀行がその債権をオルヴァーネから『買い取り』ました。
つまり、今この瞬間から、ソレイス教国の最大の債権者は、ヴェラム王国です」
イグナティウスの顔が、土気色に変わった。
「な……なんだと……我々の神殿も、聖遺物も、すべてはオルヴァーネの担保では……」
「ええ。そして、その担保の所有者は私です。
枢機卿。あなたたちは今日、神のために戦ったのではありません。
『私の所有物』である教国の資産を、勝手に持ち出して壊そうとした『泥棒』なのです」
俺は冷徹に宣告した。
「これより、ソレイス教国の全聖堂と修道院は、債務の返済としてヴェラム王国に差し押さえられます。
修道院の広大な土地は『綿花畑』に、聖堂の地下室は『石炭の備蓄庫』として再利用させていただきます。
……安心してください。あなたたち聖職者には、新しい『印刷工場』での校正の仕事を斡旋して差し上げましょう。神の言葉を広めるという点では、同じ仕事ですからね」
イグナティウスは、天を仰いで崩れ落ちた。
彼が信じていた「神の権威」は、ただの「不良債権」として、産業国家の帳簿の上に吸収されたのだ。
***
帰路の列車内。
カイルは、窓の外を流れる冬の荒野を見つめながら、深く息を吐いた。
「……アルデン。お前はついに、神すらも『抵当』に入れたのか」
「違います、兄上。神はもともと、誰のものでもありませんでした。
ただ、古い人間たちが、自分たちの都合よく『神』という名のラベルを貼って、民衆を縛っていただけです。
私はそのラベルを剥がし、代わりに『労働と規格』という、誰にでも平等なルールを貼り直した。ただそれだけですよ」
俺は紅茶のカップを置き、机の上の大陸地図を見つめた。
教国は崩壊し、帝国は属国化し、オルヴァーネは信用と海を失った。
「……残るは、オルヴァーネの『本部』だけですね」
俺はペンを執り、セラフィナ女王宛ての報告書をしたためた。
『大陸の「旧秩序」の清算、完了。
次は、オルヴァーネの金庫の扉を、我々の「紙幣」でこじ開ける番です。
——辺境伯アルデン』
車輪がレールを叩くリズムが、新しい時代の鼓動となって、大陸中に響き渡っていた。




