第二部 第4話 偽りの設計図と、鉄の鯨の産声
サン・テルモの造船所は、潮風と石炭の匂い、そして耳をつんざくリベット打ちの音に支配されていた。
「——違う! そこじゃない! 鋼板の継ぎ目に隙間があれば、ボイラーの圧力で船底が吹き飛ぶぞ! もっと熱を入れ、鎚で叩いて馴染ませろ!」
バルタザールが、裸同然の上半身に煤を浴びながら怒鳴り散らしている。
巨大な船殻の周囲では、数百人の鍛冶屋と船大工たちが、赤熱した鉄板をリベットで接合する作業に明け暮れていた。
「アルデン様! 第三区画の溶接が完了しました! ですが、スクリュープロペラの軸受けに使う青銅の合金が足りません!」
モリッツが汗だくで駆け寄ってくる。
俺は手元の帳簿に計算式を書き込みながら、即座に指示を出した。
「王都の教会から、使わなくなった鐘を借りてこい。あの鐘は不純物の少ない良質な青銅だ。セラフィナ陛下の許可は私が取る」
「は、はっ! 鐘を溶かすんですか!? 神父様が気絶しますぞ!」
「神は我々の航海を祝福してくれるさ。早く行け」
俺がそう言い放つと、バルタザールがニヤニヤしながら近づいてきた。
「……相変わらず無茶を言う小僧だ。だが、あの『スクリュー』という螺旋の羽根の理論は素晴らしい。水を後ろに掻き出すことで推進力を得るだと? オルヴァーネのギルドの老人たちに見せたら、気絶するだろうな」
「彼らが気絶するのは、まだ序の口ですよ、バルタザール。
問題は『重心』です。鉄の船は木より重い。ボイラーと石炭の積載量を間違えれば、進水した瞬間に海底へ真っ逆さまです」
俺は設計図の吃水線(きっすいせん・水面に接する線)を指差した。
地球の知識がある俺でも、19世紀初頭の蒸気船を正確に再現するのは至難の業だ。試行錯誤の連続だが、この世界の「魔法」に頼らない物理法則だけが、俺たちの武器だった。
***
その夜。
造船所の事務所は、月明かりとランプの薄暗い光に包まれていた。
俺は机に向かい、わざと「ある書類」を机の上に置きっぱなしにしていた。
『極秘:蒸気船“黒鯨” 最終設計図およびボイラー圧力弁の構造』
窓の外で、微かな物音がした。
潮風に紛れた、革靴の軋む音。
オルヴァーネのスパイ組織「海蛇」が、ついに動いたのだ。
「……ボス。ネズミが入ってきたわよ」
天井の梁の上から、リラが小声で囁いた。
彼女は四年前の森の猟師のままではない。今は港の裏社会と、密輸業者のネットワークを掌握する「影の女王」だ。
「姿は見えるか?」
「ええ。船大工の変装をしているけど、手のマメと歩き方で分かる。オルヴァーネの『工作兵』よ。机の図面をスケッチしている」
俺は目を閉じたまま、ペンを走らせるフリを続けた。
スパイは手際よく設計図を複製し、懐にしまうと、霧の中へと消えていった。
「……追いかけなくていいの?」
リラが梁からひらりと降りてきた。
「いいんだ。あれは『餌』だからね」
俺は机の上の「偽の設計図」を暖炉にくべた。
「あの図面に書かれているボイラーの安全弁は、わざと計算を間違えてある。
オルヴァーネの技術者があの図面を真似て蒸気船を作れば、初回の航行でボイラーが爆発し、船は木っ端微塵だ。
彼らが我々の技術を盗むなら、その『欠陥』ごと盗んでもらう。これが、特許を持たない我々の『防衛策』だよ」
リラは呆れ、そして妖しく笑った。
「……あんた、本当に性格が悪いわね。気に入った」
***
三ヶ月後。
サン・テルモの港には、王都から見物客や貴族の残党、そして各国のスパイたちが押し寄せていた。
彼らの目的はただ一つ。「鉄の塊が海に沈む瞬間」を嘲笑うためだ。
「見ろ、あの黒い鉄の塊を。あんなものが浮くわけがない」
「辺境伯の道楽もここまでだ。オルヴァーネの封鎖艦隊が来る前に、自分で沈むとはな」
桟橋の上で、旧貴族たちの残党がクスクスと嘲笑を漏らしている。
カイルは剣の柄に手をかけ、苛立ちを隠せずにいた。
「……アルデン。本当に浮くんだろうな? もし沈めば、我々は大陸中の笑いものになり、オルヴァーネに攻め入る口実を与えるぞ」
「ご安心ください、兄上。物理法則は、貴族の噂話ほど気まぐれではありませんから」
俺は赤いリボンのついたロープを握りしめ、バルタザールに頷いた。
バルタザールは涙ぐみながら、巨大なバルブを回した。
「……行くぞ、俺の『鯨』よ! 海へ出ろ!」
シュウウウウウウウウウウウ!!
船の煙突から、黒い煤煙が天へと突き抜けた。
そして、船内で石炭が燃え上がり、ボイラーが唸りを上げる。
ドッ、ドッ、ドッ。
水面下で、巨大なスクリュープロペラが水を噛み、白く激しい泡を巻き起こした。
見物客たちが、息を呑んだ。
重さ数百トンの鉄の塊が、桟橋を軋ませながら、ゆっくりと、しかし確実に港の沖合いへと滑り出したのだ。
帆はない。風もない。
だが、「黒鯨」と名付けられた鉄の船は、波を切り裂き、オルヴァーネの哨戒艦隊が待つ水平線へと向かっていった。
「ば、馬鹿な……! 浮いた! しかも、風がないのに進んでいる!?」
「化け物だ! あの船は悪魔の力を使っている!」
桟橋はパニックと歓声に包まれた。
カイルは、沖合いで黒煙を上げる船を見て、言葉を失っていた。
「……これが、お前の言う『新しい時代』か。海すらも、お前の計算の内だったというのか」
「ええ。海は広く、そしてオルヴァーネの財布は浅い。
我々はこれから、あの船で大陸中の港へ『石炭と鉄』を運び、オルヴァーネの関税を無視して直接取引を行います。
彼らが帆船で風を待っている間に、我々は十日で大陸を一周するんです」
俺は桟橋の先端に立ち、水平線の向こうを見据えた。
「オルヴァーネの『海蛇』たちは、今頃、盗んだ偽の図面を喜んで本国へ持ち帰っている頃だろう。
彼らがその図面で船を作り、爆発するまでの時間は、我々の『市場独占』の時間だ」
***
同じ頃、オルヴァーネ商業連合の本部。
ヴェロニックは、スパイが持ち帰った「黒鯨の設計図」を前に、満足げにワインを傾けていた。
「ふむ。さすがは辺境の天才か。だが、所詮は田舎者の細工だ。この図面さえあれば、我々のギルドでもっと巨大で豪華な蒸気船を量産できる。
ヴェラムの市場など、我々が『本物』の蒸気船で踏み潰してやろう」
彼は部下に命じた。
「直ちに造船所を動かせ! この図面通り、十隻の蒸気船を建造するのだ! 半年後には、ヴェラムなど地図から消してやる!」
ヴェロニックは知らない。
その図面に書かれたボイラーの安全弁が、致命的な計算ミスを含んでいることを。
そして、彼らが巨費を投じて建造する船が、半年後の進水式で「巨大な爆弾」と化すことを。
海風が、サン・テルモの港に新しい時代の匂いを運んでいる。
泥と血の戦争は終わり、今は石炭と鉄、そして「嘘と特許」の戦争だ。
俺たちの「鉄の鯨」は、まだ産声を上げたばかりだ。




