第二部 第3話 王都の黒煙と、鉄の鯨
王都ルンデルは、四年前の「粛清」の傷跡をすでに克服し、新たな活気に満ちていた。
貴族たちの邸宅は解体され、その跡地には官僚機構の庁舎や、俺が設計した「上水道」のポンプ場が建ち並んでいる。
だが、王宮の最深部にある女王の執務室だけは、相変わらず紙の山とインクの匂いに支配されていた。
「……また、煤の匂いを連れてきたのね、私の共犯者」
机の向こうから、セラフィナ——いや、セラフィナ女王が苦笑いを浮かべた。
二十歳になった彼女は、かつての鋭いだけの少女ではなく、大陸の政治と経済の重圧を一身に背負う「王」としての威厳を纏っている。
だが、俺の前では、未だにその仮面を少しだけ外してくれるようだった。
「辺境の工場は、王都の香水よりも正直ですからね、陛下」
俺は礼儀正しく一礼し、そして机の上に二つの報告書を置いた。
一つは「黄金の獅子」の買収契約書。もう一つは、デュプレシ伯爵に託したオルヴァーネ宛ての「警告状」の写しだ。
セラフィナはそれらに目を通し、深く息を吐いた。
「……傭兵を株主にするだと? アルデン、貴方のその発想、本当に人間のすることじゃないわ。
でも、おかげで王都の防衛予算が三割浮いた。感謝する」
「どういたしまして。ですが、浮いた予算はすべて『南の港』へ回してください」
俺は地図を広げ、大陸南部の港湾都市「サン・テルモ」を指差した。
「次は海に出ます。オルヴァーネの海上封鎖を破り、我々の『蒸気と鉄』を大陸全土へ売りつけるための船が必要です」
セラフィナはペンを置き、鋭い瞳で俺を見つめた。
「鉄の船? 王立学会の老人たちは『鉄が浮くわけがない、あの辺境伯はついに狂った』と大騒いよ。
それに、オルヴァーネのガリオン船隊は数百隻。風と帆の技術において、彼らには百年の蓄積がある。できたばかりの蒸気船ごときで、彼らの物流網を奪えるの?」
「風がない日、彼らの船はただの『木製の棺桶』です。
ですが、我々の船は、風がなくても石炭を喰らって進みます。
百年の蓄積など、新しい『物理法則』の前ではただの過去の遺物ですよ」
セラフィナは小さく笑い、そして王の印章を押した許可証を俺に手渡した。
「……分かったわ。サン・テルモの造船所を貴方に差し上げる。
ただし、条件が一つ。半年以内に、オルヴァーネの封鎖線を突破する『試作船』を完成させること。
できなければ、王立学会の老人たちと、貴族の残党に貴方を切り刻ませるわよ」
「承知しました。それでは、さっそく『船大工』を探してきます」
***
その頃、大陸の経済を牛耳るオルヴァーネ商業連合の本部。
デュプレシ伯爵が、震える手で「あの小僧」からの手紙を差し出していた。
手紙を受け取ったのは、連合の十二人の大商人の一人であり、「情報と特許」を管理する冷徹な男、ヴェロニックだ。
彼はシルクの手袋をした指で羊皮紙を弄び、そして鼻で笑った。
「……『黄金の獅子』が二時間で全滅? 蒸気で動く鉄の箱だと?
ふざけるな、デュプレシ。お前は辺境の田舎者に脅され、嘘の報告で我々から金を騙し取る気か」
「い、いえ! 本当です! 私の目で見た! あの鉄の怪物は、我々の大砲を弾き返し、雷のような銃で兵士たちを薙ぎ倒したのです!」
ヴェロニックはデュプレシを無視し、部下の「情報屋」に視線を向けた。
「……事実か?」
「はい、ヴェロニック様。現地のスパイからの報告とも一致します。ヴェラム辺境は、我々の知る『農業国家』ではありません。彼らは『石炭』を動力に変える、未知の技術を手に入れました」
ヴェロニックの表情から、笑みが消えた。
オルヴァーネの繁栄は、「帆船による物流の独占」と「他国の技術発展を阻害する特許法」の上に成り立っている。
もし、ヴェラムが風を必要としない「鉄の船」を作り上げれば、オルヴァーネの海上覇権は根底から覆るのだ。
「……軍事での介入は、帝国の二の舞になる。我々は『商人』だ。戦争などという非効率な手段は使わない」
ヴェロニックは手紙を暖炉にくべ、燃え上がる炎を見つめた。
「『海蛇』を送れ。
ヴェラムの造船所に潜入し、あの小僧の設計図を盗み、そして完成前に船を『事故』で沈めろ。
……新しい芽は、土の中で摘み取るのが、我々のやり方だ」
***
南の港、サン・テルモ。
かつて旧貴族たちが香辛料の密輸で私腹を肥やしていたこの港は、今やセラフィナの直轄地として、再開発の最中にあった。
潮風と魚の腥い匂いの中に、俺は一人の男を探し出していた。
バルタザール。
かつてオルヴァーネの首席造船技師だった男だ。
彼は「鉄の骨格を持つ船」という先鋭的な理論を唱えたが、オルヴァーネの保守的なギルドから「異端」として追放され、今は港の片隅で安酒を煽っている。
「……帰れ、小僧。俺はもう、船など作らん」
薄汚れた酒場で、バルタザールは酒瓶を抱えながら唸った。
「オルヴァーネの馬鹿どもは、俺の図面を『悪魔の所業』だと言った。木と帆こそが神の恵みだと。あんな連中のために、俺の技術を貸す気はない」
「なら、私のために貸してください」
俺は机の上に、一枚の設計図を広げた。
それは、圧延鋼板をリベットで接合し、船内に石炭焚きのボイラーとスクリュープロペラを内蔵した「蒸気船」の概念図だ。
バルタザールは、酔った目でその図面を覗き込み、そして徐々にその瞳から酔気が消えていった。
「……ば、馬鹿な。鉄を水に浮かべるだと? しかも、このボイラーの圧力計算……お前、アルキメデスの原理と熱力学を理解しているのか!?」
「ええ。ですが、この図面には『欠陥』があります。ボイラーの爆発を防ぐための『安全弁』と、船体の重心を安定させるための『バラスト(重り)』の計算が、私には足りない」
俺はバルタザールの目を真っ直ぐに見据えた。
「オルヴァーネは、あなたを『異端』と呼んだ。
ですが、私はあなたを『先駆者』と呼びます。
ここにありますのは、無限の石炭と、帝国の鎧を溶かした最高級の鋼鉄。そして、あなたの『狂気』を現実のものにするための予算です。
……世界を驚かす『鉄の鯨』を、私と一緒に作りませんか?」
バルタザールは、震える手で設計図に触れ、そして俺の顔を見た。
彼の瞳には、長年くすぶっていた「技術者としての渇望」が、再び炎を上げているのが分かった。
「……金などいらん。だが、約束しろ。この船が完成した暁には、オルヴァーネの奴らの鼻先に、黒煙を吐きかけてやるんだぞ!」
「ええ。約束します。大陸中の海を、我々の煤で汚してやりましょう」
***
造船所の外、夕暮れの海を見つめながら、カイルが呟いた。
「……アルデン。オルヴァーネは、お前の動きを黙って見ているとは思えん。必ず『裏』から手を回してくるぞ」
「ええ。だから、我々も『裏』を用意します」
俺は懐から、リラ宛ての暗号通信を取り出した。
「リラの『森の目』を、海へ向けさせます。
オルヴァーネのスパイが造船所へ近づけば、彼らを『海へ沈める』のではなく、逆に彼らを利用して、オルヴァーネへ『偽の設計図』を送りつけるんです。
……海は泥沼より深い。ですが、兄上。我々は泥沼を『蒸発』させる技術をすでに持っています」
波の音が、港に打ち寄せる。
それは、古い時代が崩れ去り、新しい時代が押し寄せる「潮騒」だった。
鉄の鯨が、海へ出る日が近づいている。




