第二部 第1話 古き獅子の咆哮と、鉄の心臓
南の平野は、眩しいほどの春の陽光に包まれていた。
だが、その美しき草原を踏み荒らしているのは、三万の軍勢と、五十門の大砲が軋む不快な金属音だ。
「見ろ、ガルバルド殿。あの地平線の先に、我らが奪還すべき王都ルンデルがある」
白馬にまたがり、絹のマントを翻させているのは、四年前の「王都粛清」の際に国外へ逃亡した旧貴族の一人、デュプレシ伯爵だ。
彼の指差す先には、薄っすらと黒い煙が空に昇っているのが見える。
「ふん。『辺境の煙突』か。聞くところによれば、あの小僧が泥遊びの延長で、石炭などを燃やして鉄を溶かしているらしいが」
デュプレシの隣で、鼻蔑笑ったのは、大陸最強と謳われる傭兵団「黄金の獅子」の団長、ガルバルドだ。
彼の部下たちは、オルヴァーネ商業連合が潤沢な資金で用意した最新鋭の鋼鉄の鎧と、火縄式のマスケット銃で武装している。
「伯爵閣下。ご安心ください。我々『黄金の獅子』は、オルヴァーネの金で雇われたプロフェッショナルだ。
辺境の農民がどれほど数を集めようとも、我々の五十門の大砲と、重騎兵の突撃の前では、ただの肉塊に過ぎません。
……あの黒い煙など、我々の砲弾が一発着弾すれば、煤と灰に変わりますよ」
デュプレシは高らかに笑い、鞭を振るった。
「全軍、進撃! セラフィナという小娘と、辺境の猿どもに、本当の『戦争』と『貴族の格』を教えてやれ!」
***
その頃、彼らの進路の先、なだらかな丘の稜線。
そこに築かれた仮設の司令部テントの中で、俺は懐中時計の蓋をパチンと閉じた。
「……予定時刻より十五分早い。旧貴族どもは、焦っているのか、それとも我々を舐めきっているのか」
十六歳になった俺は、煤で汚れた軍服の袖をまくり、机の上に広げられた南の平原の地図に赤い鉛筆で線を引いた。
四年前の「泣き岩」のような泥沼はない。ここは、騎兵が全速力で突撃でき、大砲の射程が最大限に活かせる「殺戮の平原」だ。
「アルデン。敵の先鋒は重騎兵二千。その後続に大砲部隊と歩兵だ」
テントの入り口から、カイルが入ってきた。
彼はもはや、ただの長剣を振るう騎士ではない。腰には短銃(ショートバレルの拳銃)を下げ、手には俺が設計した「双眼鏡」を持っている。
「兄上。部隊の配置は?」
「ああ。お前の指示通り、全軍を丘の裏手に隠している。だが……本当にこれでいいのか?
敵は五十門の大砲を持っている。丘の上に姿を晒せば、蜂の巣だぞ。それなのに、我々は『盾』も『塹壕』も掘っていない」
カイルの懸念はもっともだ。
従来の戦争であれば、高地を確保し、土嚢を積んで砲撃に耐えるのが常識だろう。
だが、俺は首を横に振った。
「兄上。これからの戦争は『止まって耐える』側が負けます。
我々は『動き』ながら『撃つ』。
……モリッツ、信号を」
「はっ!」
モリッツが、赤と黒の旗を交差させて振る。
それは、丘の裏手に待機している「ある部隊」への、出撃許可のサインだった。
***
「——敵の姿が見えん! 丘の上に砦もないだと? 臆して逃げたか!」
平原を進軍するガルバルドが、訝しげに双眼鏡を覗き込んだ。
だが、その時だった。
大地が、微かに震えた。
ドッドッドッドッ……それは、騎馬の蹄の音ではない。もっと重く、もっと規則的で、そして地獄の底から這い上がってくるような「鼓動」だった。
「な、なんだ……この地鳴りは!?」
デュプレシ伯爵が馬の上でバランスを崩し、蒼白な顔で叫んだ。
丘の稜線から、モクモクと「黒い煙」が立ち昇る。
そして、煙の中から、鉄の怪物が姿を現した。
「……ば、馬鹿な……!?」
ガルバルドの瞳が、恐怖で見開かれた。
それは、馬ではなかった。
黒鉄の装甲板で覆われた巨大な「箱」が、六つの巨大な鉄の車輪で地面を噛み、煙突から火の粉と黒煙を吐き出しながら、丘の斜面を「登って」きたのだ。
蒸気駆動装甲牽引車——俺が四年の歳月と、帝国の残骸、そして辺境の石炭をすべて注ぎ込んで完成させた「陸の戦艦」だった。
「大砲隊、照準を合わせろ! あの鉄の塊を撃ち砕け!」
ガルバルドが絶叫し、五十門の大砲が一斉に火を噴いた。
ドドドドォォォン!!
砲弾が装甲車の周囲に着弾し、土煙と破片が舞い上がる。
だが、黒煙が晴れた後も、鉄の怪物は傷一つ負わず、無慈悲に前進を続けていた。
中世の鋳造技術で作られた大砲の丸い鉄球など、近代の圧延技術で鍛えられた傾斜装甲には、ただ弾かれるだけなのだ。
「……命中しない? いや、当たっているが、弾かれているだと!?」
傭兵たちがパニックに陥る。
そして、装甲車の側面と後部から、カイル率いる「新式歩兵部隊」が展開した。
彼らが構えているのは、火縄銃ではない。
銃身の内側に螺旋の溝を刻んだ「施条銃」と、鉛の弾丸を紙で包んだ「紙薬莢」だ。
「——全軍、射撃準備!」
カイルが馬上(ではなく、装甲車の屋根の上)から号令をかける。
「狙え……放て!」
パァァァァン!!
乾いた、しかし鋭い破裂音が平原に響き渡った。
マスケット銃の射程はせいぜい百メートル。だが、ライフル銃の有効射程は三百メートルを超える。
傭兵団の先鋒部隊が、まだ弓やマスケットの射程外にいる地点から、一方的に「死」が降り注いだのだ。
「ぐあっ!」「な、なんだこの銃は!? 音が違う!」
傭兵たちが次々と倒れていく。
彼らの鋼鉄の鎧は、ミニエー弾(円錐形の鉛弾)の前では紙同然だった。
装甲車はさらに前進し、その上部に設置された「回転式連装砲(ガトリング砲のプロトタイプ)」が、蒸気の動力で唸りを上げ始めた。
ガラガラガラガラガラガラ!!
「ひ、ひいいいいい! 悪魔だ! 悪魔の機械だ!」
大陸最強の傭兵団「黄金の獅子」は、未知の火力と、理解不能な「鉄の怪物」の前に、そのプライドと陣形をズタズタに引き裂かれていった。
それは戦闘ではなかった。
旧時代が、新時代によって「処理」される現場だった。
***
司令部の丘の上で、俺は望遠鏡を下げ、冷徹に戦況を記録していた。
「……敵の先鋒、崩壊。大砲部隊、撤退を開始。デュプレシ伯爵は、馬車を乗り捨てて南へ逃亡中」
モリッツが震える声で報告する。
「追撃は?」
「カイル司令官の機動部隊が、装甲車二台を追跡に向かいました。……ですが、アルデン様。我々の被害は?」
「ゼロだ」
俺はペンを置き、ため息をついた。
「四年前、俺たちは泥にまみれ、血を流して勝利を掴んだ。
だが、これからは違う。我々は『技術』という名の資本で、敵の命を安く買い叩く。
……これが、オルヴァーネへの『挨拶』だ」
俺は机の上のインク瓶を開け、羊皮紙に走り書きを始めた。
王都のセラフィナ女王へ送る、最初の戦勝報告書だ。
『南の平原にて、旧貴族連合軍および傭兵団「黄金の獅子」を撃滅。
我々の「鉄の馬」は、彼らの「黄金」を踏み潰しました。
次は、オルヴァーネの「海」を干上がらせる番です。——辺境伯アルデン』
平原には、まだ黒い煙と火薬の匂いが漂っている。
だが、その煙はもはや「辺境の貧しさ」の象徴ではない。
大陸の勢力図を塗り替える「産業の狼煙」だった。
俺たちは、守るための戦争を終え、今は「未来を奪いに行く」戦争の只中にいる。




