雪解けの練兵場と、北からの視線
長い冬が終わり、辺境に雪解けの水が流れ始めた頃。
エルムフォードの街外れにある荒野は、泥濘と汗の匂いに包まれていた。
「——足を揃えろ! 右、左、右、左! リズムを崩すな!」
カイルの怒声が、早春の空気に響き渡る。
彼の目の前には、革鎧すら満足に着ていない農民や町人たちが、木製の槍を構えて行進していた。
数は三百。ヴェラム伯爵領から徴集された、初の「常備民兵隊」だ。
「……アルデン。本当にこれでいいのか?」
少し離れた丘の上で、俺は訓練を視察するカイルの隣に立っていた。
彼は腕組みをしたまま、不満げに眉をひそめている。
「農民に槍を持たせ、ただ歩かせるだけだぞ。騎士の突撃を前にすれば、恐怖で逃げ出すのがオチだろう。
それなら、俺が精鋭の騎馬隊を率いて——」
「兄上。騎士の突撃は『点』の攻撃です。だが、戦争は『面』で制するものです」
俺は手元のメモ帳を閉じ、訓練場を指差した。
「あの農民たちは、個々の武勇では帝国兵の足元にも及びません。
ですが、彼らが『壁』になり、『森』になり、『泥沼』になれば、話は別です。
見てください。彼らはただ歩いているのではありません。
『隣の仲間と同じ足を踏み、同じ呼吸をしている』。
これが『規律』であり、恐怖を共有し、指揮官の命令を絶対視するための『儀式』なんです」
地球の歴史において、ローマ軍団やナポレオンの大陸軍が強かった理由は、個の武力ではない。
「統率」と「兵站」、そして「国家への帰属意識」だ。
俺は、中世の農民を、近代の「国民軍」へと作り変えようとしている。
「それに、兄上。あの槍はただの木ではありません」
「……ん?」
「穂先は鉄ではなく、硬く焼き締めた樫の木に、獣の脂を染み込ませたものです。
鉄は高価で、鍛冶屋の产能が追いつきません。ですが、これなら村の鍛冶屋でも量産できる。
そして、帝国の重装歩兵の鎧の『隙間』——関節や首元——を突くには、しなやかにしなる木槍の方が、硬い鉄よりも有利な場合があります」
カイルは、訓練場で泥まみれになりながら叫び声を上げる農民たちを、改めて見つめ直した。
やがて、彼は小さく息を吐き、ニヤリと笑った。
「……お前は、本当に戦争というものを『作業』だと思っているんだな。
騎士の誇りも、英雄の武勇譚も、お前にかかればただの『数字』と『工程』か」
「ええ。だから、私は勝ちます。
英雄は死にますが、システムは生き残りますから」
***
訓練が終わり、領主館へと戻る途中、俺たちは一人の老人とすれ違った。
村の長老だ。彼は俺を見るなり、深々と頭を下げた。
「アルデン様……ありがとうござます。おかげさまで、若者たちが『誇り』を取り戻しましたようで」
「誇り、ですか?」
「はい。今までは、戦争になればただ徴収され、盾代わりにされ、犬死にするだけだと皆思っておりました。
ですが、あの訓練で、若者たちは『自分たちが領地を守る盾になる』と教えられた。
食べ物は配給され、家族は領主様が守ると約束された。……彼らは今、初めて『戦う理由』を得たのです」
俺は言葉を選び、静かに頷いた。
「彼らを守ることは、私の務めです。ですが、最終的に彼らを守るのは、彼ら自身の『手』です。
長老、若者たちが疲れ果てていても、毎晩の『読み書き』の時間だけは確保してください。
字が読めなければ、命令書も地図も読めない。それは『目隠しをして戦え』と言うのと同じです」
「は、はっ! 肝に銘じます!」
長老が去った後、カイルが呆れたように呟いた。
「……兵士に学問を教えるだと? どの国にもそんな前例はないぞ」
「前例がないから、我々が勝てるんです、兄上」
***
その夜、書斎で書類を整理していると、窓の外から小石が投げ込まれた。
「コン、コン、コン」。二長一短。リラからの緊急連絡の合図だ。
俺は窓を開け、闇の中から現れた彼女を迎え入れた。
リラは雪解けの泥でブーツを汚し、しかしその表情はかつてないほど硬かった。
「……ボス。悪い知らせよ」
「言え」
「北の国境、『鷲の砦』からの報告。
昨日、ラズラン帝国の『外交使節団』が国境を越えてきたわ。
表向きは『春の挨拶と通商条約の更新』。だけど……」
リラは懐から、一枚のスケッチを取り出した。
そこには、使節団の一人——灰色のマントを纏い、鷹のような目をした男の似顔絵が描かれている。
「この男、使節団の『書記官』ということになっているけど、私の『目』が言ったわ。
この男の手には、剣のマメではなく、『暗号解読』をする者の特有のインクの染みがあったって。
それに、この男が砦の守備兵たちに配っていたタバコ……あれは帝国軍の『情報部』が、現地協力者に配っている特製品よ」
俺はスケッチをじっと見つめ、脳内のデータベースを検索した。
「……『灰色の狐』か」
「え?」
「ラズラン帝国軍情報部、通称『影宮』の工作員だ。
名前はおそらく偽名だろうが、手口はあの男のものだ。
彼は、軍の侵攻ルートを探る斥候ではない。
『国内の反乱分子』や『買収できる貴族』を探す、政治工作のスペシャリストだ」
俺は椅子から立ち上がり、地図の「王都」と「辺境」を結ぶ線を指でなぞった。
「帝国は、正面からの侵攻だけではコストがかかると判断したんだ。
だから、内部から崩す工作員を送り込んできた。
……狙いはおそらく、オルヴァーネ派の粛清で揺れている王都の貴族たち、そして——」
俺は自分の胸を指差した。
「『辺境の知恵者』という噂が、すでに帝国の耳に届いているのかもしれん」
リラが、弓の弦を指で弾くような仕草をした。
「どうするの、ボス? あの男を、森で『事故』に見せかけて始末する?」
「いや、それは下策だ。外交使節を殺せば、帝国に『開戦の口実』を与えることになる。
むしろ、彼を『歓迎』しよう」
「……は?」
カイルが、扉の陰から声をかけてきた。いつから聞いていたのだろう。
「アルデン、正気か? 敵のスパイを屋敷に入れるだと?」
「ええ。そして、彼に『見せたいもの』を見せてやります。
我々の『弱み』と『愚かさ』をね。
……カイル兄上、明日から訓練の内容を変えてください。
農民たちには『規律』ではなく、『不満』と『疲弊』を演じさせる。
そして、私は『傲慢で無能な貴族の坊ちゃん』を演じましょう。
帝国の狐が、偽物の情報を持って本国へ帰るように——『罠』を仕掛けるのです」
春の風が、窓から吹き込んでくる。
それは花の香りではなく、鉄と血の匂いを運んでいた。
情報戦の幕が、上がった。




