灰色の狐への晩餐と、泥まみれの愚者たち
ラズラン帝国の外交使節団が、エルムフォードの領主館に到着したのは、春の雨が降る肌寒い午後だった。
「ようこそ、辺境の寒村へ。帝国の紳士諸君を、泥と馬糞の匂いでお迎えすることをお許しください」
俺は絹の服を着飾り、わざとらしい傲慢な笑みを浮かべて出迎えた。
十二歳の少年が、王都で仕込んだばかりの高級香水をぷんぷんさせ、鼻持ちならない貴族の坊ちゃんを演じている。
使節団の代表である騎士たちは、露骨に眉をひそめた。
だが、俺が本当に注目しているのは、彼らの背後で控えめに佇む一人の男だ。
灰色のマント、鷲のような鋭い目つき。
書記官ヴォルク。その実態は、帝国軍情報部『影宮』の工作員——『灰色の狐』だ。
「いえ、アルデン様。辺境の風光明媚な土地、感激いたしました」
ヴォルクは完璧な笑顔を浮かべ、流暢なヴェラム語で答えた。
だが、彼が俺の手を握った瞬間、その掌の硬直と、俺の脈拍を計るような指先の動きから、俺は確信した。
(……こいつ、俺の『演技』を値踏みしているな)
情報戦の基本は『ヒューミント(人間による情報収集)』だ。
相手の微表情、視線の動き、そして言葉の端々に滲む『感情』を読み取り、真実を炙り出す。
ヴォルクは、俺という『不気味な辺境の少年』の正体を見破るために、この領地のすべてを観察しに来たのだ。
「さあさあ、中へどうぞ。貧乏貴族の粗末な晩餐ですが、帝国の『慈悲』に免じてお付き合いください」
俺は声を高め、わざとらしく偉そうな態度で彼らを館へと案内した。
***
翌日、俺はヴォルクを連れて領内の視察に出た。
案内先は、カイルが訓練を行っている「泥まみれの練兵場」だ。
「……酷い有様ですな、アルデン様」
丘の上から訓練場を見下ろし、ヴォルクは同情を誘うような声色で言った。
眼下では、農民たちが木槍を引きずり、隊列はバラバラ。カイルは馬の上から怒鳴っているが、農民たちは疲れ果て、不満げに地面を睨んでいる。
「王都からの援助が打ち切られましてね。装備を買う金などありません。あの農民どもも、徴兵されたことに恨み言ばかりです。
正直、帝国の正規軍が来れば、彼らは真っ先に逃げ出すか、我々に反旗を翻すでしょうよ」
俺はため息をつき、わざと弱音を吐いて見せた。
ヴォルクは頷きながら、手帳に何かを書き込んでいる。
だが、彼の視線は時折、農民たちの『足元』や『目の奥』に向けられていた。
(……油断ならない。こいつ、農民の『足の裏』を見ている)
練兵の熟練者は、兵士の足腰の粘りや、地面を掴む指先の力で『本物の練度』を見抜く。
だが、俺たちが履いているのは、底にわざと泥が詰まりやすく、歩幅を狭く見せるように設計された『偽装用の長靴』だ。
そして、農民たちが地面を睨んでいるのは、不満からではない。俺が指示した『地形の起伏と、罠の位置を確認する動作』を、不満げな態度でカモフラージュしているだけなのだ。
「ところでアルデン様。王都のセラフィナ殿下とは、うまくいっているのですか? 噂では、王女様が辺境を見捨てたと……」
ヴォルクが、核心を突く質問を投げかけてきた。
俺は顔を強張らせ(たフリをし)、唇を噛んだ。
「……っ! あの王女め、俺を利用するだけ利用して、オルヴァーネとの揉め事をこちらに押し付けやがった。
王都からは『援軍は送れない。辺境は自力で守れ』という冷酷な書簡が届いたばかりだ。……くそっ、王都の貴族ども、いつか必ず……!」
俺は悔し涙を浮かべ(た演技をし)、懐から一通の羊皮紙を取り出して地面に叩きつけた。
ヴォルクの目が、鋭く光った。
風でめくれた羊皮紙には、確かに王家の紋章と、『辺境伯領への軍事物資供給の停止』という文字が躍っている。
(……食いついたな)
あの書簡は、セラフィナと俺が共謀して作成した『偽造文書』だ。
インクの滲みや、折り目についた『王都の馬車の泥』まで完璧に再現されている。
ヴォルクのようなプロの工作員は、容易に手に入る情報ほど疑う。だから、『偶然見せてしまった極秘の弱み』こそが、最も信憑性を持つのだ。
「……お気の毒に。帝国としては、ヴェラム王国の内部紛争には関わりたくありませんが……」
ヴォルクはそう言いながら、地面に落ちた書簡を拾い上げ、丁寧に俺に手渡した。
だが、彼の脳内にはすでに、『ヴェラム辺境は孤立しており、農民の不満は爆発寸前。侵攻の障害にはなり得ない』というレポートが完成しているはずだ。
***
その夜、領主館で行われた晩餐会。
俺はワインに酔ったフリをして、机に突っ伏して寝息を立てていた。
……もちろん、寝てなどいない。
薄目を開け、ヴォルクの動きを追っている。
ヴォルクは、俺が『酔っ払って置き忘れた』領地の防衛図(これまた偽物)を、手際よくスケッチしている。
彼の動きは滑らかで、音一つ立てない。まさに『狐』だ。
やがて、ヴォルクはスケッチを懐にしまい、俺に毛布をかけてから静かに部屋を出ていった。
扉が閉まり、足音が遠ざかったのを確認して、俺はむっくりと起き上がった。
「……お疲れ様、ボス。あいつ、完璧に引っかかったわよ」
窓の外から、リラがひらりと入室してきた。
彼女はヴォルクの部屋に仕掛けた『盗聴用の共鳴管(糸電話の要領で音を拾う装置)』の糸を巻いている。
「あいつ、仲間にこう言ったわ。『辺境の少年は、小賢しいが所詮は子供だ。王都に見捨てられ、怯えているだけだ。来春の侵攻では、この地は一日で陥落する』ってね」
俺は冷水で顔を洗い、鏡に映る自分の『傲慢な仮面』を洗い流した。
「欺瞞工作の目的は、敵に『安心』を与え、誤った場所に兵力を集中させることだ。
ヴォルクは本国へ帰り、帝国軍の先鋒部隊を、俺たちが用意した『泥沼の街道』へと誘導するよう進言するだろう」
扉が開き、カイルが入ってきた。
彼は農民たちの『不満げな演技』を指揮するのに疲れたのか、肩を揉んでいる。
「……アルデン。俺は騎士だ。誇りある剣士だ。
なのに今日は、泥まみれの農民たちに『俺は无能な指揮官だ』と罵倒させる役をやらされた。……あの帝国の狐が帰った後、俺は誰に詫びればいいんだ?」
「俺に詫びてください、兄上。そして、その悔しさは、三年後の戦場で帝国兵の首を斬る時にぶつけてください」
俺はニヤリと笑い、地図の『鷲の砦』と『嘆きの谷』を結ぶラインを指差した。
「帝国は、俺たちが『弱い』と信じて、軽く踏み込んでくる。
だが、彼らが踏み込む場所は、すでに俺たちが一年かけて掘り起こし、水脈を堰き止め、泥炭を敷き詰めた『巨大な墓場』なんだ」
カイルは呆れ、そして誇らしげに笑った。
「……本当に、お前は性が悪い。だが、悪くはない」
***
翌朝、帝国の使節団は満足げに国境へと帰っていった。
ヴォルクは馬車の中で、本国への暗号電信を打ち続けているだろう。
『ヴェラム辺境、防衛力なし。内部崩壊寸前。早期侵攻を推奨する』
その電文が帝国の皇太子の手に渡った時、彼らの運命はすでに決まっている。
俺は領主館のバルコニーから、北の空を見上げた。
雪解けの風は、もうすぐ春嵐へと変わる。
「モリッツ」
「はい、アルデン様」
「領内の全鍛冶屋に動員令を出せ。木槍の穂先ではない。次は『鉄の杭』と『鎖』を量産する」
「鎖、ですか? 馬を繋ぐにでも?」
「いいえ。街道の泥沼に沈め、帝国の重装歩兵の『足』を鎖で繋ぎ合わせるんです。
……狐は去った。次は、虎を狩る番だ」
辺境の貧乏貴族による戦争は、欺瞞の幕を閉じ、いよいよ『殺戮の準備』へと移っていく。




