雪原の罠と、折れぬ剣
初雪は、音もなく辺境を白く塗りつぶした。
エルムフォードの街も、北の森も、すべてが氷点下の静寂に包まれている。
だが、俺の書斎の中は、熱を帯びた緊張感が充満していた。
「——来たわよ、ボス」
窓からひらりと舞い込んだのは、雪で真っ白になったマントを纏うリラだった。
彼女の頬は寒さで赤らんでいるが、その瞳は鋭く光っている。
「森の『目』からの報告。西の国境を越えて、三十人ほどの集団が入ってきた。
装備は革鎧と彎刀。一見ただの盗賊団だけど、歩幅と陣形が揃いすぎている。オルヴァーネが裏で雇った『傭兵崩れ』の精鋭ね。
目指しているのは、例の『偽の岩塩鉱脈』がある嘆きの谷」
「ご苦労、リラ。三十人か。グスタフめ、本気を出してきたな」
俺は机の上の地図に、赤い駒を三つ置いた。
三十人の精鋭。辺境の警備隊だけで正面からぶつかれば、損害は免れない。
だが、戦場が「雪の森」なら、話は別だ。
「カイル兄上」
扉の陰で腕組みをしていたカイルが、ニヤリと笑って stepping forward(一歩前に出た)。
彼の腰には、磨き上げられた長剣が収まっている。
「俺の出番か。待ちくたびれたぞ、アルデン」
「ええ。ですが、ただ斬り合うのではありません。
彼らを『狩る』のです。一人も逃さず、かつ我々の被害はゼロで。
……兄上の剣と、私の『罠』の初共演です。手加減はなしでお願いします」
***
嘆きの谷へ続く森の道は、雪が積もり、足場が悪くなっている。
傭兵崩れの盗賊団は、雪を踏みしめながら、獲物(岩塩)を狙って深く侵入してきた。
「……クソ寒い土地だ。こんな辺境の石ころ一つに、俺たち『黒狼』の傭兵団が駆り出されるとはな」
頭目らしき大男が、吐く白い息と共に呟いた。
彼らはオルヴァーネの商人から「辺境の森に岩塩の鉱脈がある。領主の警備は手薄だ。採掘設備を壊し、証拠を持ち帰れば一人につき金貨十枚」と雇われている。
だが、彼らが気づいていないことが一つある。
この森は、すでに「狩場」ではなく「罠」になっているということだ。
「——ッ!?」
先頭を歩いていた傭兵が、突然足を滑らせて転倒した。
いや、滑ったのではない。雪の下に隠されていた「蔦」が、彼の足首を絡め取ったのだ。
「なんだこれは!? 罠か! 陣形を組め!」
頭目が叫ぶが、時すでに遅し。
周囲の木々から、不気味な「軋み」の音が響き始めた。
「ボス、準備完了だよ」
頭上の巨木の上から、リラが小さく合図を送る。
彼女が斧で「楔」を叩き抜いた瞬間、雪の重みと張力で彎曲していた巨木が、強烈な勢いで跳ね上がった。
「ゴゴゴゴォォッ!!」
「うわあああ!?」
雪と氷の塊が、傭兵たちの頭上へとなだれ落ちる。
これは「雪崩」ではない。俺が事前に設計し、領民たちに掘らせておいた「人工の雪庇崩し」だ。
殺傷力はないが、視界を奪い、足を埋め、陣形を寸断するには十分すぎる。
「くそっ、 visibility(視界)がゼロだ! 敵はどこにいる!」
傭兵たちがパニックに陥り、手探りで剣を振り回す。
その混沌の中に、静かに、しかし確実に「死」が歩み寄っていた。
***
「——散開した獲物を、一匹ずつ狩る。基本だぞ、お前ら」
雪煙の中から、カイルの冷徹な声が響いた。
彼は単独で、雪煙の中へ突入していた。
視界が効かない? 関係ない。カイルは「音」と「気配」だけで敵の位置を把握している。
そして、俺が事前に渡していた「森の安全なルート(リラがマークした目印)」だけを踏着して移動しているため、罠にかかることもない。
「シャキンッ!」
「ぐああ!?」
剣の閃光が、雪煙の中で一瞬だけ煌く。
カイルは致命傷を負わせず、正確に傭兵たちの「武器を持つ腕」や「膝」の腱だけを斬り飛ばしていく。
武人としての圧倒的な技量と、俺が設計した「地形の優位」が完璧に噛み合った瞬間だった。
「ば、化け物だ……! こんな辺境に、こんな剣士がいるのか!」
「撤退だ! 頭目、逃げろ!」
残った数人の傭兵が、来た道を逃げ出そうとする。
だが、彼らが踏んだ雪原が、突然「崩落」した。
「なっ……!? 地面が——」
それは、森の狩猟道に仕掛けた「落とし穴」の亜種だ。
底には尖った木槍などない。代わりに、粘性の高い「泥炭」と「冷水」が満たされているだけだ。
一度嵌れば、重い鎧と冷気により、自力では決して這い上がれない「氷の棺」となる。
わずか三十分。
三十人の精鋭傭兵団は、一人の死者を出すことなく、全員が捕縛され、雪の上に並べられていた。
***
「……見事だな、アルデン。俺が剣を振るったのは、せいぜい十人程度だ。残りはすべて、お前の『森』が呑み込んだ」
カイルは剣の血糊を雪で拭いながら、感嘆のため息をついた。
彼の瞳には、もはや俺に対する「嫉妬」や「軽蔑」はない。あるのは、純粋な「共犯者」としての信頼だけだ。
「兄上の剣が、彼らの『戦意』を折ってくれたからです。俺の罠だけでは、彼らは逃げ出していたでしょう」
俺はそう答え、捕らえられた頭目の前に歩み寄った。
頭目は泥炭にまみれ、震えながら俺を睨みつけている。
「……小僧、俺たちを殺す気か? だが、俺たちを雇ったのがオルヴァーネの商人だとバラせば、お前たちも無事では——」
「殺しません。むしろ、あなたたちには『生きて』、王都へ行ってもらう必要があります」
俺は頭目の懐から、オルヴァーネの紋章が刻まれた「手付金の袋」と「指示書」を抜き取った。
「これは、オルヴァーネ商業連合が『ヴェラム王国の王室財産(偽だが)を破壊し、国家の転覆を図った』という、動かぬ証拠です。
あなたたちは『傭兵』ではなく、『敵国のスパイ』として、王都の牢獄で余生を送ってもらう。
……ただし、法廷で『グスタフという男に雇われた』と証言してくれたら、牢獄での食事は、オルヴァーネの高級ワイン付きにしてあげましょう」
頭目は、俺の冷徹な瞳を見て、すべてを悟ったように力が抜けた。
「……悪魔だ、お前は。十二歳の子供の皮を被った悪魔だ」
「違います。私はただの『貧乏貴族』です。家族と領民を守るためには、悪魔とも契約しますよ」
***
その夜、俺は王都のセラフィナ宛に、二つの報告書をしたためた。
一つは、『オルヴァーネによる国家転覆計画の証拠』と、捕らえた傭兵たちの移送について。
これにより、セラフィナは王都でオルヴァーネ派の貴族たちを完全に「粛清」する口実を得る。ヴェラム王国の「経済の自立」への第一歩が、ここに確定した。
もう一つは——
「……アルデン。これは、何だ?」
カイルが、俺が書いた二通目の報告書の端を覗き込み、眉をひそめた。
「北の国境からの『別の報告』だよ、兄上」
俺は窓の外、吹雪く北の闇を見つめた。
「リラの『目』が、ラズラン帝国の斥候の動きに変化を捉えた。
彼らは今までの『測量』をやめ、国境の砦の『守備兵の交代時間』と『食料の搬入量』を記録し始めたらしい」
カイルの顔から、笑みが消えた。
「……それは、まさか」
「ええ。『測量』の次のステップだ。帝国は、侵攻のタイミングを『三年後』から『前倒し』するかもしれない。
オルヴァーネの経済支配が揺らいだことで、帝国は『ヴェラムが自立する前に叩く』という判断を下した可能性がある」
俺はペンを置き、王家の短剣を握りしめた。
内なる敵(腐った貴族と商人)は、片付けた。
だが、本当の「外なる敵」は、すでに国境のすぐそこまで来ている。
「兄上。冬が終わる前に、領地の全農民を徴兵し、『民兵』としての訓練を始めます。
そして、森の奥に『第二、第三の要塞』を築きます。
……俺たちの『戦争』は、まだ序章に過ぎなかったようです」
辺境の雪は、まだ降り止まない。
だが、俺たちの胸の内の火は、決して消えることはなかった。




