塩の道と、黄金の罠
辺境伯邸の書斎は、重苦しい沈黙に包まれていた。
机の上には、王家の紋章が刻まれた短剣と、国王オズワルド三世の直筆による「特命全権委任状」が置かれている。
父ガレスは、それらをじっと見つめ、そして俺を——十二歳の息子を、見知らぬ怪物でも見るような目で見ていた。
「……王家の短剣。これは、王族が『裏の仕事』を任せる者にのみ渡される『闇の勲章』だ。
アルデン。お前、王都で一体何をしてきた? いや、何を『売ってきた』?」
「国を売りました、父上。オルヴァーネという『悪徳商人』に、一度ね」
俺は平静に答えた。
「王都の貴族たちは、オルヴァーネの金で肥え太っています。その脂肪を削ぎ落とし、骨だけにするには、一度この国を『破産』させ、彼らの既得権益を焼き払うしかありません。
そのための火付け役を、私が買って出たのです」
ガレスは深く息を吐き、そして短剣を手に取った。
その重みを確かめるように握りしめ、やがて俺に返す。
「……分かった。武人である私には、お前の言う『経済の戦争』は見えん。だが、王が賭け、お前が受けたなら、ヴェラム伯爵家もその賭けに乗ろう。
領内の騎士、農民、そして私の首。すべてお前に預ける。好きにしろ」
「感謝します、父上。では、さっそくですが——」
俺は窓の外を指差した。
「客人が来たようです。歓迎の準備を」
***
屋敷の中庭に、豪華な装飾が施された馬車が乗り付けていた。
車体には「黄金の天秤」の紋章。オルヴァーネ商業連合の「一等監査官」の証だ。
馬車から降りてきたのは、銀縁の眼鏡をかけた痩身の男——グスタフだ。
彼は辺境の泥濘を嫌そうに避けながら、しかしその瞳では屋敷の資産価値を冷徹に計算している。
「やあ、ヴェラム伯爵。突然の訪問、失礼された」
応接間に通されたグスタフは、挨拶もそこそこに本題を切り出した。
「王都のヴァロワ公爵が『国家反逆罪』の疑いで拘束されたとか。困りましたな。
公爵が担保に入れていた借款——金貨五千枚分の契約が、不履行の危機に瀕しています。
つきましては、契約条項第7項に基づき、担保物件の『差し押さえ』を行いたい」
ガレスが眉をひそめる。
「差し押さえ? 担保は王都の邸宅と、南部の果樹園だろう?」
「いえ。契約書の『付帯事項』をご確認ください。
『担保価値が毀損した場合、債権者は債務者の任意の資産を同等価値で接収できる』。
王都の邸宅は、今回の騒動で暴落しました。果樹園も旱魃で不作です。
つきましては、不足分として——」
グスタフはニヤリと笑い、地図を広げた。
「『北の森』の伐採権と、『エルムフォード鉱山』の採掘権。これらをいただきます」
ガレスが立ち上がりそうになったのを、俺が手で制した。
「待ってください、グスタフ殿。その森と鉱山は、この領地の民が冬を越すための薪と、農具を作るための鉄を産出する場所です。それを取り上げれば、領民は凍え、飢えます」
「それは領主の仕事でしょう、坊や。我々は商人。契約と数字に従うだけです。
……それに、もし支払えないのであれば、『塩』での現物返済も受け付けますよ。
もっとも、この辺境で塩と言えば、我々オルヴァーネから輸入するしかありませんがね」
グスタフの言葉は、明確な「脅し」だった。
オルヴァーネ商業連合は、大陸の塩の流通を独占している。彼らが塩の輸出を止めれば、ヴェラム王国の保存食(塩漬け肉や魚)はすべて腐敗し、冬を越せない。
これは「兵站」への直接攻撃だ。
「塩を止めるぞ、という意味ですか?」
俺が尋ねると、グスタフは肩をすくめた。
「『輸出規制』です、坊や。国内の需要逼迫のため、とか適当な理由をつけます。
領民が死のうが、貴族が泣こうが、我々の知ったことではない。
さあ、どちらにします? 森と鉱山を差し出すか。それとも、領民に塩を食わせてやるか?」
ガレスの拳が、膝の上で震えている。
カイルが、剣の柄に手をかけようとしている。
俺は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「グスタフ殿。一つ、お見せしたいものがあります」
俺は懐から、小さな布袋を取り出し、机の上に置いた。
中身は、白い結晶の塊だ。
「……なんだ、これは?」
グスタフが訝しげに布袋を手に取る。そして、一粒を舐めて、顔を強張らせた。
「なっ……!? これは、岩塩だと!? しかも、纯度が高い!」
「ええ。北の森の奥、エルフの領域との境界線付近にある『嘆きの谷』で発見されました。
量は……そうですね。この領地が百年は食べていけるほどの埋蔵量があります」
グスタフの顔色が、青から赤、そして蒼白へと変わっていく。
「ば、馬鹿な……! そんな場所に鉱脈があるはずが……! いや、待て、これは国家の資産だ! 勝手に採掘すればオルヴァーネへの『密輸』となるぞ!」
「密輸ではありません。これは『王家の私有財産』です」
俺は、王家の短剣を机に置いた。
「昨日付で、この岩塩鉱脈は国王陛下に献上済みです。
つまり、あなたがたが手を出せば、それは『オルヴァーネによる王室財産の窃盗』となり、大陸全土の商人ギルドから『取引停止』の制裁を受けます。
……どうします、グスタフ殿?
あなたたちの『塩』など、もう我々には不要です。
むしろ、これから我々は『岩塩の輸出』を始めます。あなたたちの市場シェアを、二割ほどいただきましょうか?」
グスタフは、口をパクパクさせながら、俺と短剣と岩塩を交互に見つめていた。
彼の計算機の脳内では、今まさに「ヴェラム辺境への投資リスク」が「回収不能」へと書き換えられているはずだ。
「……覚えておれよ、小僧。商人を敵に回すとどうなるか、思い知らせてやる」
グスタフは契約書を机に叩きつけ、蜘蛛の子を散らすように退室していった。
***
馬車が去った後、ガレスは呆然と呟いた。
「……岩塩だと? アルデン、本当なのか? 嘆きの谷にそんなものが……」
「嘘ですよ、父上」
俺はニヤリと笑った。
「あれは、リラが森で見つけた『塩泉』を煮詰めて作った、ただの粗塩です。埋蔵量など、風呂桶一杯分もありません。
ですが、グスタフは『分析』を怠った。彼はただの塩ではなく、俺たちの『自信』というハッタリを買わされたのです」
カイルが、呆れたようにため息をついた。
「……お前、本当に性が悪いな。相手が『本物』だと信じ込んだ瞬間、それは『真実』になる。商売人の弱点を突いたわけか」
「ええ。戦争は、相手が『勝てる』と思っている場所では戦いません。相手が『負けた』と錯覚した瞬間に、勝っているのです」
だが、俺の表情はすぐには緩まなかった。
「モリッツ、リラ」
「はい」「なによ、ボス」
「グスタフは引き下がらない。経済で勝てないと分かれば、次は『暴力』を使う。
オルヴァーネは、裏で『盗賊団』や『傭兵崩れ』を雇い、俺たちの塩泉(嘘だが)や街道を襲わせるだろう。
表の顔(商人)が汚せないなら、裏の顔(犯罪者)を使ってくる。これが連中の常套手段だ」
俺は地図の「街道」を指差した。
「カイル兄上。出番です」
「……俺の剣を使えと?」
「ええ。ですが、ただ斬るのではありません。
やってくる盗賊たちを『捕まえ』、彼らがオルヴァーネから雇われた証拠を握らせ、逆に『オルヴァーネによる国家転覆計画』の証人として王都へ送りつけます。
……グスタフが送ってくる刺客は、兄上の『剣』と、私の『罠』への、最初の『供物』となります」
カイルは剣を引き抜き、その刃に映る自分の瞳を見つめた。
「……面白そうだ。俺の剣が、国のために振るえるなら、悪くはない」
辺境の冬は、近い。
だが、俺たちの「戦争」は、雪が降る前からすでに始まっていた。




