第21話 香りは、風に乗せて
――織江屋再興編・江戸の空気を塗り替える一撃
本多が失脚し、大黒屋が沈んだその翌月。
江戸の町は、奇妙な静けさに包まれていた。
「大黒屋がいなくなって、
香り物はどこで買えばいいんだ?」
「南蛮香水は高すぎるし……」
「織江屋? あそこはもう……」
そんな声が町のあちこちで聞こえる。
お縫は、
その声を聞きながら、
新しく掲げ直した「織江屋」の暖簾を見上げた。
(……ここからが本当の勝負。
江戸の空気そのものを、
“織江屋の香り”に染める)
お縫は、
大奥で作り上げた 和の香水 の瓶を手に取った。
◆
お縫は、
水野を呼び出した。
「江戸の町には、
“風の道”がございます」
水野は眉を上げた。
「風の道?」
「はい。
人の集まる場所、
噂の流れる場所、
香りが最も広がる場所――
それらはすべて“風の道”に沿っております」
お縫は、
香水の瓶を三つ取り出した。
「この香りを、
江戸の“風の道”に乗せます」
水野は、静かに笑った。
「また妙なことを言い出すな。
どうやって乗せる?」
お縫は、にこりと微笑んだ。
「人に、でございます」
◆
その夜。
お縫は、人気役者・市村座の若衆の楽屋を訪れた。
「これは……香り物かい?」
「はい。
袖口に、ほんの少しだけ」
若衆は袖を揺らし、
ふわりと香りが漂った。
「……なんだいこれ。
南蛮の香りより、ずっと粋だ」
お縫は、静かに頭を下げた。
「舞台の上で、
風が動くたびに香りが広がります。
観客は、気づかぬうちに“織江屋”を覚えます」
若衆は笑った。
「面白ぇ。
明日の舞台で使わせてもらうよ」
◆
翌日。
お縫は吉原へ向かった。
花魁・薄雲が、
香りをひと嗅ぎして目を細めた。
「……これは、男が落ちる香りだねぇ」
「いえ、
“女が自分を好きになる香り”でございます」
薄雲は扇子で口元を隠し、
くすりと笑った。
「気に入ったよ。
誰にも言わないでおく。
“秘密の香り”ってのは、
男を狂わせるからね」
お縫は深く頭を下げた。
(花魁が使えば、
噂は自然と広がる)
◆瓦版が騒ぎ出す
三日後。
江戸中の瓦版が、
一斉に騒ぎ始めた。
「市村座の若衆、袖から“謎の香り”」
「吉原の薄雲太夫、誰にも教えぬ“秘密の香り”」
「南蛮香水ではない、新しい香りが江戸を席巻!」
町人たちがざわつく。
「なんだいその香り……?」
「どこで手に入るんだ?」
「織江屋らしいぞ!」
「織江屋……?
あの織江屋か?」
お縫は、
店の前に立つ人だかりを見て、
静かに息を吸った。
(江戸の空気が、
“織江屋の香り”に染まり始めた)
◆
その夜。
水野が織江屋に姿を見せた。
「贅沢禁止令の網を、
どうにか潜らせたぞ」
お縫は目を見開いた。
「香り物は“身だしなみ”として扱う。
そう老中に通した。
これで大黒屋の残党は手を出せぬ」
お縫は深く頭を下げた。
「水野様……
これで、江戸の風は変わります」
水野は、
お縫の横顔を見つめながら呟いた。
「お前の香りは、
江戸そのものを動かすな」
◆
その夜。
江戸の町を吹き抜ける風は、
ほんのりと花の香りを含んでいた。
町人たちが振り返る。
「……いい香りだな」
「どこからだ?」
「織江屋だよ。
今、江戸で一番粋な店さ」
お縫は、
暖簾の影で静かに微笑んだ。
(ここから――
織江屋の再興が始まる)
(第22話へ続く)




