第9話 香りは強ければ良いという思い込み
――下女お縫、九つ目の「工夫」
大奥の御殿では、
朝の支度に欠かせぬ“香”が焚かれていた。
「今日の香は、なんだか鼻に刺さるねぇ」
「大黒屋の香木、最近は質が落ちたって噂だよ」
「でも、あれしか納めがないからねぇ……」
お縫は、漂う香りを静かに嗅いだ。
鼻の奥に、わずかな苦みが残る。
(……香りが“強すぎる”。
質の悪い香木を、強く焚いて誤魔化している)
大黒屋の香木は、
かつては上質だった。
だが今は、質の悪い木を混ぜ、
香りを強くすることで“高級品”に見せかけている。
(香りは、強ければ良いわけじゃない。
薄く、柔らかく、
ふとしたときに香るのが“粋”)
そのとき、滝川お局が鼻で笑った。
「新参、あんたには分からないだろうけどね。
香りは“強いほど上等”なんだよ。
弱い香りなんて、貧乏人の家の匂いさ」
お縫は、へこへこと頭を下げた。
「も、申し訳ございません……」
(はいはい、“無能な下女”の芝居ね。
でも――その思い込み、壊させてもらうよ)
お縫は、洗濯場の隅に置かれた古い香炉を手に取った。
そして、倉庫に眠っていた“安価な香木”を少し削り、
灰と混ぜて火を入れた。
(香木は、焚き方で香りが変わる。
強く焚けば刺々しく、
弱く焚けば柔らかくなる)
お縫は、香炉の蓋を半分だけ閉じ、
香りがゆっくりと立ち上るように調整した。
ふわり――
柔らかく、淡い香りが広がった。
「……あれ?」
「なんだか、落ち着く匂いだね」
「大黒屋の香より、ずっと良いよ……!」
女中たちがざわつく。
お縫は控えめに頭を下げた。
「安い香木でも、焚き方を工夫すれば、
柔らかい香りになります」
「すごいよ! これ、どこの香木だい?」
「倉庫の……余り物でございます」
滝川の顔が青ざめる。
「な、何だって……!?
余り物の香木が……大黒屋の香より……?」
そのとき――
廊下の向こうから、静かな足音がした。
勘定吟味役・水野。
「香りが変わったと聞いた。
……お前の仕業だな」
お縫は、へこへこと頭を下げた。
「い、いえ……皆様が香りにお困りでしたので……
少し工夫を……」
水野は香炉を手に取り、
香りを静かに吸い込んだ。
「……良い香りだ。
強すぎず、弱すぎず、
ふとしたときに香る。
町方で流行っている“忍び香”の焚き方だな」
お縫の胸がひやりとした。
(この人は、本当に“見抜く”)
水野は続けた。
「大黒屋は、質の悪い香木を混ぜ、
強く焚いて誤魔化している。
だが――
香りは“強さ”ではなく“調和”だ」
滝川は悔しさに震えた声で叫んだ。
「余り物の香木なんて……!
そんなものが流行ってたまるか!」
だが、女中たちの声がそれをかき消した。
「お縫の香、もっと焚いて!」
「この香り、落ち着くよ!」
「大黒屋の香より、ずっと良い!」
滝川は唇を噛みしめた。
「……覚えておきな、新参。
あんた、本当にただでは済まないよ」
お縫は深く頭を下げたまま、
前髪の奥で静かに笑った。
(香りの利権。
これで、大黒屋の“最後の砦”も揺らいだ)
――お縫の“工夫”は、
大奥の空気そのものを変え始めていた。
(第10話へ続く)




