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○沈黙は無言の刃○

ゲヘナの炎は容赦なく、由々しき魂を焼いて逝く。焼け(ただ)れなくともその顔は、悲痛に満ち充ち醜く歪んでいる。恐怖と畏れ、ある人は飲泣(いんきゆう)しある者は啾々(しゅうしゅう)と、ある人は甚泣(いたな)き、天を仰ぎ助けを求め懇願する。


だが天から救済の糸が垂らされることは無い。死の衣を纏った狩り人が、彼等の喉元に大鎌を突きつけ、躊躇も遠慮もなく、唯々無慈悲に引き抜いて逝く。


罪深き十字架を背負いし彼等は久遠の旅人となるのだ。

それは終着点のない過酷な旅。

魂が牢獄の器から解き放たれる寸前彼等は悟るのだ。


ああ、我らは永久の罪人であり、永久の贖罪を約束された人らである。いつかまた、この牢獄なる不完全な器に投獄されるのを待つ、人らである。そして朽ち逝く不完全な依り代たる器に囚われている間中、更に罪を重ねてきたのだと。


少女はウサギの瞳を見つめ悲しそうに目を伏せる。


「可哀想に… また、とても悲しく辛い思いをしたのね。こんなに眼を赤くして――どんなに震えたでしょう。どれほどに苦しみ、畏れたでしょう――…… ああ、貴方の瞳は黄金色、とても美しい黄金色のなのよ」


そしてウサギの瞳に軽く手を置き覆い隠し、数秒してからゆっくりと手をあげた。するとウサギの瞳は、前と変わらない美しい黄金色に戻っていた。


少女は黄金色の瞳に再び優しく手を添えて、その目蓋をおろし、安らかなる永遠の眠りを与えた。


「貴方は決して罪人ではなくてよ。貴方の野心も野望も、私達と同じ想いなのだわ。貴方は私達家族の為に願ったのよね? 私にはすっかり分かっているわ。


ああ、私は貴方に、私達の罪の十字架をも背負わせたのだわ。それを…私には止めることが出来なかった…


幼い頃の貴方は、とても沢山の本を読み、知識を蓄える事に熱心だった。音楽を愛し、教養に溢れ、未来を信じ、素晴らしい野望を持ち、叶えるべき野心を抱いていた。


そう、貴方は優しく浄妙(じようみよう)で、秀美(しゆうび)な心根を保った、一片の汚れも許さない、清まる魂を宿した、全く純粋無垢な子だったのよ。ああ、私には違いなく見えるわ。目を閉じば何時でも瞼の裏に貴方がいるのよ。幼き日の姿が、まるで目の前にいるかのように――……」


ウサギをそのか細い腕に抱きしめ、涙を浮かべながら嗚咽を漏らし、愛しそうに頬を撫で付ける少女に、年配の女が近づいてきた。


「ええええ。私にも見えます。私は去年、大切な一人息子を亡くしました。まだ十にも満たなかったのですよ。ああ、私、愛おしい我が子を思い出しました」

 

止めどのなく涙を流す女に、少女は同じ母の慈愛をみた。


「大切な掛け替えのない子を失った悲しみが、貴方を清らかにしたのかしら? 貴方はこの様な修羅場を見ても、全く動じていない。でも貴方の心はまるで振り子のようだわ。いつも安定ぜず、左右に揺り動いている。とても危うく、一寸(ちよっと)した苦言甘言で、悪にも善にも、どちらに傾いても不思議ではないのよ。


真に正しいと思ったら、貫くべきだわ。守ると思ったら最後まで守るべきだわ。(もろ)い心では、いつしか信頼は煙のように消えてしまうものよ。遠慮や沈黙は決して美徳ではなくてよ。


”沈黙は無言の刃”、知らず知らずに誰かの魂を傷つけてしまう。


悪い行いには眼を瞑らず声を上げなさい。貴方の持てる財産を、一つ残らず対価に変えてでも、声を出しなさい。


私は貴方が只の傍観者とならず、偽りに目を背けず、また無知な暴力に負けず、困っている方等を迷わず助けるような、そんな人になることを、心から願うわ」


その時、見ることが許された風が力強く吹き付け、宙に風の楽譜を描き出した。風の音符が真力強く刻まれる。自由と正義、愛と自由、風の詩と共に旋律が刻まれる。


ベートーヴェン・オペラ『フィデリオ』

 

その時、まるで風の詩と旋律から生まれたように、突然、美しく堅牢(けんろう)な眼差しをした、若い女が現れ、ウサギを愛おしそうに見つめた。


その眼差しは、まるで身内を鍾愛(しようあい)するようであった。若い女は、少女を見つめると、少し驚いたように目を開き、静かに、唄うように声をだした。


「ああ、可哀想に。何故かしら? 私この子を見ていると、涙が溢れて止まらないのよ。とても不思議な感覚よ。そう、まるで身内でも見ているようだわ。


ああ、私、この子がこのような事になる前に、何とかしてあげたかったわ。私この子が助かるのなら、本当に、それはもう、どんなことでもしてあげたのに。


そう、私のこの魂さえ、今、(まさ)に燃えさかる蒼い炎に捧げ、全く燃え散らして、綺麗さっぱりなくなってもよいと想う程よ」

 

偽りのない後悔を目に浮かべ、遠慮なしにウサギに近づき、狂ったように口づけを繰り返す若い女を見て、少女は驚いたように目を開くと、確信したように、困惑しつつ若い女を見つめた。


囁くような風の旋律が流れる。見透かされた、その心の内を、風の旋律に合わせ暖かに奏でる。


ああ、何故? どうして? 貴方は貴方だけは、何も捨てずに、唯一無二、罪と罰の鎖で雁字搦めにされていない、穢れなき、真、真っ白な魂を持つ子のはずでしょうに―――…… 


だが、少女は知っている。人として産声を挙げてより、全てが罪人(つみびと)であると。唯一無二の存在が、ただ独りであると。


風の旋律が囁き、心の内文句紡ぎ出す。ああ、そう、そうなのね。やはり、この子は、貴方は、それでも、特別……


少女は風の旋律を聞き、うっすらと優しい笑みを浮かべた。少女は若い女にウサギを預け、其の良心の糾明を宿した、偽りなき眼を見た。若い女は限りない愛着を持って、ウサギをその腕に抱きしめた。


「ああ、貴方はその記憶と、真なる正義を久遠の時に囚われても、奥底では決して忘れない。魂を鎖に繋がれ、牢獄の器に投獄されようと、貴方の魂は全く清まる魂」


少女の深い慈愛に触れた若い女は、少女と此の胸に抱かれるウサギに、燦然たる輝きと、巍然(きぜん)たる者の証を見た。


慈善心と哀憐、深い憐れみが、若い女を包み込み、自然と涙が溢れだし止まらない。


若い女は想う。この身に起きた、総ての罪を許すことができる。今この時ならば、どの様な罰でも受ける覚悟を持てる。


もし許されなくとも懺悔しよう、それは少女やウサギ、この場に見える総ての子らの罪をも被ろう。如何なる残酷な裁きを請けようとも、何も畏れることはない、そう嘘偽りなく思えた。


少女は知っている。私達家族は魂が散らばり、互いが認識できなくとも、その清まる魂は見えない糸で繋がり、互いに求め合い、たぐり寄せているのだと。その結びつきが如何に尊く、敬うべき事象であるかを。


少女は若い女の瞳の奥に、嘘偽りない覚悟が宿るのを悟り、愛しさと逞しさと、真の純白なる魂に敬服した。


「貴方にはとても強い正義が見える。揺らぐことのない誠の決意。悪に決して屈しない強い心。厳正を好み、厳格に判断する強い心。差別を嫌い、あらゆる暴力を憎む強い人。平等を知り、公平を愛する美しい人。


ああ、でもきっと貴方は、私のどのような賛辞も受け入れないのね。何故なら、貴方にはそれが当たり前で、それが真実なのだから。


貴方の顔はその魂と同じく、なんて美しいのかしら。まるで月のように光輝いている。ああ、貴方のような人が星の数ほどいたら、人はどれだけ幸せになれるでしょうに」

 

少女は迷いなき、真の清まる魂に触れ、嬉々として微笑み、嬉しそうに雀躍(こおど)りした。

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