○聖女のような少女○
見ることが許された風が静かに流れ、風の楽譜を宙に描いた。悲しみの音符が刻まれる。
フォーレ:「葬送の歌」
深い哀悼と静寂を伝える風の旋律が、物悲しく流れている。ウサギの永くも短い夢は終わりを告げたのだ。それは時間で換算するならば、数分、いや、数秒と経っていないであろうか。ユシカノマチの片隅に、息絶えた一匹の小さな黒いウサギの亡骸が転がっている。
ウサギは初めから其処にいた。
化物を目の当たりにした直後に見た夢…――
それは果てしなく、長いようであり、また一時でもあった。
夢の中で黒い感情が芽生え、邪な魂と同じく、自らの魂に鎖が架けられたと知ったウサギは、朽ち逝く牢獄という名の器に囚われ、罪と罰に塗れた鎖に繋がれた、邪な穢れた魂を保つユシカと同じなのだと気付き得たのだ。
穢れた魂を持つユシカが、軽蔑し、意識が途絶える寸前に呪ったユシカらの姿が、鏡に映した自らの姿だと知った時、儚い夢から覚めると同じくして魂は砕けていたのだ。
真なる負の感情は、其の鼓動を刻むことを許さず、饒舌なるウサギに、永遠の沈黙を与えたのだ――
今夜は星降り祭りの夜。ユシカノマチで無ければ、唯々漆黒の闇が広がり、真っ黒なウサギの姿は夜闇に溶け込み、きれいさっぱり消えていたであろう。しかし此処は罪深きユシカノマチである。
神に近づく為に躊躇いなく高大な塔を築き、力ある者の命令ならば、疑いなく従順に従い、知恵を絞り、夜闇を月に負けじと照らし出す光さえも造りだす、
未来永劫、魂を罪と罰に塗れた鎖で縛られ続ける、ユシカノマチ、
"アダムとエヴァ"の罪深き"人"の子らの街である。
数多の人の群れが、ウサギに気づきながらも誰一人として目もくれず、馬鹿者の集団は、唯々陽気に騒ぎながら通り過ぎて行く。目にしたいものだけを目に映し、目にしたくないものは抹殺すればよい。盲目で愚か者の集団が通り過ぎて行く。
そんなとき、一人の少女がウサギの前で立ち止まった。美しい上等な絹のような金色の髪に、海のような真っ青な瞳、雪のように真っ白な肌と、黄金色の服を着た聖女のような少女。
少女は漸く大切な宝物でも見つけたように微笑むと、地べたに座り込み、愛おしそうに優しくウサギを抱き上げ、夢見るように眼を瞑り、その柔らかな白い頬に押しつけた。
するとそれを見ていたブタのように醜く、ぶくぶくと太ったちりちり髪の女が、憎々しげな顔をして笑い飛ばした。
「まあ、汚い。この子死んだウサギを抱きしめているわ。ああ、気持ち悪い。ねえ、貴方もそう思うわよね?」
するとブタのような女に、金魚のフンのようにくっついていた、痩せこけた顔色の悪い、長い黒髪の女が、申し訳なさそうに口を開いた。
「う、うん、そうね、そうだわ。全く汚いわ…」
さらにガイコツのように痩せこけた、意地悪そうな老女が少女を指し、嬉しそうに哄笑した。
「この子きっと頭がおかしいんだわ。すぐに病院に行って頭を見てもらいなさいな。ねえ、そうでしょう? 貴方だってそう思わない?」
するとガイコツのような女に寄りそっていた、子ブタのようにまるまると太った、ずんぐりとしたおかっぱ頭の女が躍り上がって同調した。
「まったくだわ! こいつはきっと頭がおかしいにきまってるわ! それより貴方。これ貴方が食べたいって言ってた高級菓子なのよ。どうぞ召し上がって」
「まあ、貴方はなんて気がきくのかしら。貴方はこんなバカな子と違って本当に頭がよいのね」
差し出された御菓子を、畜生のようにむしゃむしゃと頬張りながら、女たちは少女を嘲笑った。するとそれを見ていた白髪交じりの初老の男が、意気揚々と口を開いた。
「君たち。そんな事を言うものではないよ。彼女が可哀想ではないか」
「うるさいわね! 誰よあんた! いい子ぶってんじゃないわよ!」
憐れかな、ブタのように太った女に一喝された初老の男は黙り込み、二度とその口を開くまいと、真一文字に堅く結んだ。すると少女は愛しそうにウサギの頭をなぜながら、夢から覚めたように、ゆっくりと目を開き、愛らしい瞳を輝かせた。
「可哀想に……貴方達にはこの子の真の姿が見えていないのね」
そして少女はウサギを抱きしめたまま立ち上がると、ブタのように太った女に、穏やかに微笑んで見せた。
「貴方はそのブタのようにため込んだ贅肉に、夥しい量の怒りや妬みをため込んでは吐き出すのね。相手の気持ちも考えず、思ったままを口にする。誰がどう傷つこうが苦しもうが構いはしない。唯々怒りをぶつける無知な人」
「な、何ですってー! 」
ブタのような女は髪を掻き毟り、怒りを顕わにして、周りには目もくれず、汚い言葉で叫び、少女を詰り始めた。それでも少女に動じる様子はなく、優しい笑みを浮かべたまま淡々としている。
「ああ、貴方のその品のない荒れ狂う嵐のような気質はどこにあるのかしら。そう、そうなのね。貴方、身内の御世話をしているのではなくて? きっと自分は献身的で心の優しい人だと思ってはいなくて?
でも貴方は身内の御世話で溜まった疲れや苛立ちを、見ず知らずの弱い人を見つけて吐き出すのだわ。そうして溜まった鬱憤を解消するのね。そうよ、罪のない人を苦しめ、その姿を見て貴方は喜び満足しているの。
でも貴方。貴方の身内はそんな貴方を見てどう思うのかしら? もし御世話をされているのが母様だとしたなら? 貴方の心無い言葉や振る舞いで、罪のない善人を苦しめている貴方を見て、「世話を惜しまない私の娘は優しくて自慢の娘」だと思えるのかしら?
そして貴方は嘘偽りない真心で、私は思いやりに溢れた良い人だと母様に云えて? 優しさや思いやりを身内に見せるのは、至極当然で、簡単な振る舞いだわ。難しく、困難で、大変なのは、他人に同じように出来るかどうかだわ。
私貴方をとても哀れで、悲しい人だと思うのよ。だって貴方を嘘偽りなく、心の底から好きになる人は、身内以外誰もいないのだから」
それを聞いた豚のような女は、人目も気にせずわんわんと狂ったように泣き始めた。
「そしてその後ろで申し訳なそうに私を見ている貴方。私、貴方のような浅ましく卑劣な人が、とても嫌いだわ。周りに媚びを売り、上手に立振舞って生きているのね。陰でその人の悪口を言い、また片方では違う人の悪口を言う。自ら悪い行いに荷担はしない。
でもね。あなたは荷担しているの。全く悪質なやり方でね。全く近くで真実を知りながら沈黙する。憎むべき沈黙者。軽べつすべき臆病者だわ。
でも私、貴方が可哀想。だって貴方はそうやって、一生周りのご機嫌を窺って生きていくのですもの」
ブタのような女の後ろで、痩せた女はただ黙って少女を睨み付けた。
「そしてずんぐりとしたおかっぱ頭の貴方。私、貴方のように下劣で性悪な人が真に許せないわ。ああ、貴方には何を言っても無駄な気がしてならないの。だって貴方は全く愚か者の子なんですもの。
邪悪に唆され言われるがまま従うのだわ。蛇の嘘だと判っても気にしない。悪と分かっていても構わない。いえ、むしろ悪につくことを楽しんでいるのよ。権力者に謙り、物品を配っては機嫌を取り、全てを物で解決しようとする。
世間知らずで、あらゆる知識に疎い、愚かで無知な悪の僕。貴方、金を使いとても綺麗に着飾っているけれど、どんなに高価で美しいドレスで着飾っても、貴方のその貧しく、卑しい魂は隠せないものなのよ。
私、貴方がとても哀れだわ。だって貴方はそうして、一生無駄な金を使い続けなければいけないのですもの」
するとずんぐりとしたおかっぱ頭の女は、激しい剣幕で思い切り地面を蹴り始めた。
「そして貴方。私を庇って下さり有り難う。貴方はとても教養があるようだわ。きっと言葉にも長けているのでしょうね。貴方はそうして言葉を巧みに操り、物事を解決しようとするのね。
でも結局真実は見えていない。
いえ、見ようとしないのね。それが偽りであっても、解決できなければ最も安易な方法で解決してしまう。ああ、貴方には真の何も見えていない。何を言っても仕方がないの。だって貴方には、裏切り者の忌まわしい血が流れているのだわ。そう、ユダの血がね。
貴方にとって裏切りは魂に深く刻まれもう消せるものではないの。愚かなる盲目の賢者。そう、私分かりますの。だって貴方のような卑屈な偽善者を、嫌というほど見てきましたから」
初老の男性は何か難しい言葉を並べ立て、弁護すべく自らの正当性を訴え始めた。
「そして貴方。ガイコツのようなその顔… そう、まるで鬼のようだわ。貴方にはあらゆる悪が見えてならないの。ああ、もう貴方にはどのような言葉も届かない。だって貴方は年を取り過ぎているもの。貴方の魂は、ダイヤのように固く、とても頑なだわ。
誰の助言も戒めも、貴方にとってはただの雑音でしかないの。貴方気付いてないようだけど、とても醜い顔をしているのよ。魂の醜さが、そのまま顔に表れているのだわ。貴方に刻まれた、その深い醜い皺は、残虐と云う名のナイフで切り裂いたように、とても深く、そして醜いのよ」
少女は諦めたように、目を閉じ、首を左右にゆっくりと振った。
「そう貴方は知るべきだわ。心から大切な人を亡くす真の苦しみを知るべきだわ。真の犠牲を知るべきだわ。だって貴方に残された時はとても短いのだもの。
その胸に手をあててご覧なさい? 静かな尊い音が、優しく、同じ律動を刻んでいるでしょう? それは貴方の時を、緩やかに刻みながら奪い去っているのよ? そしてその時は、とても儚いのよ。特に貴方のような方にはね。
ああ、貴方はこの先どう生きるかを見るべきではなく、どう召されるのかを見るべきなのよ。残された短い時間で、誰かれ構わず愛されるのか、それとも憎まれるのか。どちらが良いのか考えてご覧なさい」
少女は怒りで歯を食いしばり、顔を真っ赤にして、血走った眼を吊り上げるガイコツのような老女と、ずんぐりしたおかっぱ頭の女の顔を、交互に見渡した。
「貴方らは、年と共にあふれる優しさや、労りを身内以外に使うことはしないのね。でも自分に貢いだり、崇拝する人にはとても良くしてあげる。そして気に入らない人には、徹底して、容赦ない仕打ちをする。どんなに惨い事をしても平然と笑っていられる。
ああ、なんて恐ろしのでしょう。自分は裕福なのに他人の幸せが許せない、強欲で、傲慢な人。
私、貴方のように愚劣で、血も涙も無い人が真に許せないの。でも私、貴方がとても不憫だわ。何故って、貴方がとても不幸に見舞われた時、その不幸を喜ぶ人が星の数ほどいるのだもの」
するとガイコツのような老女は、ブタのような女や、おかっぱ頭の女を嗾け、これ以上ない汚い言葉で、一斉に少女を詰り始めた。
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