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○この上なく清いユシカノ幼子○

灰に()した森には何も無く、立ち昇る火柱と、深紅(しんく)の霧が立ち()めている。


滅ぼす炎は大地を焼いたが、ウサギを焼くことはない。熱傷も裂傷もなく、また痛みも熱さも感じることはない。だが確実に魂は焼かれていた。確証は痛みと畏れに困惑し、震えるウサギの姿がそう語っている。


もはや死と呼ばれる狩り人の大鎌は、ウサギの喉元に突きつけられ、何時何時引かれても不思議では無い。何が起きたのか理解できず、唯々不安と畏れにおののき、目を真っ赤に染め上げ立ち尽くすウサギの耳に、


ちりーん、ちりーん、と鈴を鳴らす音が聞こえてきた。


そしてぽつぽつと小さな白い光りの塊が現れ、周辺をてんてんと淡い光で照らし出した。やがて白い光の塊は、申し合わせたように一つに(まと)まると、とりわけ大きな白く淡い光りになり、深紅の霧の中で霞みながら、ほんわりと暖かい灯で照らしだした。


そして辺り一面は、真っ白な霧が立ち籠める、純白なる白一色の空間に包まれた。

 

総てを滅ぼす業火(ごうか)の炎は消え去り、真っ赤な炎の絨毯もゲヘナの谷も消え失せ、この領域は冷たく凍えそうな、南十字星の白熱に似た、揺らめく純白で覆われたのだ。


だが不思議と辺りは春のように暖かく、ほんわりと気持ちのよい空間だった。ウサギは地獄に堕とされんとした畏れ忘れ、その心地よい感覚に身も心も(ゆだ)ねた。

 

すると霧の奥から、またちりーん、ちりーと鈴を鳴らす音が聞こえてきた。それは先程よりもはっきりと聞こえ、あちらこちらに反響し、四方八方あらゆる所から聞こえた。


「ああ、心地よい。身も心も全く癒されるようだわ…―――」


鈴の音はウサギの魂の奥深く、芯の芯まで染み渡り、何とも清らかで、傷心を癒やすような、例えるなら南十字星で聞いた白光が奏でる、賛否の音色のような心地の良い音色であった。


鈴の音が少しずつウサギに近づくと、不意に霧の中からすーと小さな顔が浮かびあがった。それは金色の髪に、青い瞳をしたユシカの幼子で、頬が痩せこけたその顔から見るに、数えるなら十くらいの年頃だろうか。


透き通るような真っ白な肌をしたユシカの幼子は、白装束に身を包み、手には金色の小さな鈴を持ち、何か(いつく)しむように、ひとつ歩く度にちりーん、また歩く度にちりーんと鈴を鳴らし、ゆっくりとだが、確実にウサギに近づいてきた。

 

ユシカの幼子は始め何事もないように滑るように歩いていたが、ウサギの横に来るとぴたりと足を止め、ちらりとこちらを見た。


「まぁ、珍しいですわね。月のウサギさんとは……――」

 

何もかも承知しているようなユシカの幼子の声は、透き通るような何とも清らかで、鈴の音と同じく、優しく染み入るようにウサギの耳に響いた。


「この鈴の音色は何とも清く美しいですね。私、今どん底の、そう二度と出られそうもない、深い深い井戸に落ち込んでいたのよ。地獄の門扉が盛大に開け放たれ、狩り人に首元を任せ、もう決して()()がれないと、真底、苦しんでいたんだわ。ああ、でも今救われたのよ。その鈴の音色は、私に救いを与えて下さったのね」

 

ウサギが思わず話しかけると、鈴をほめられたのが嬉しいのか、ユシカの幼子は何とも可愛らしい、屈託(くつたく)のない笑顔を見せた。


「これは『お清めの鈴』ですの。とてもよい音色でしょう。わたくしは、この鈴を持つことを任せられましたの。全く清い魂がこの音色を頼りに集まりますから、とてもとても大切なお役目ですの」

 

ウサギはユシカの幼子が、とても崇高(すうこう)な役目を(たまわ)り、迷うことなく仰せ付けた方を崇拝(すうはい)し、大切な行いを(まっと)うしようとしているのだと悟り、尊敬(そんけい)の念を抱き、心から敬服(けいふく)した。


「一体何方(どなた)様が貴方にそのような大切なお役目をお云いつけに?」


「ええ。ええ。わたくしもそれははっきりと存じませんの。けれどもわたくし本が好きでしたし、沢山の本を読みましたの。それにとても幼い頃からバイブルを頂いて、天なるお父様の教えもすっかりお勉強をしておりましたから。ですからわたくしが思いますにそれは神様ですの。ああ、なんて素晴らしいのでしょうか」

 

ユシカの幼子は指を優しくからめ胸にあてると、礼儀正しく、(つつ)ましく、地に着くほどに深く頭をたれて、二言三言祈りを捧げた。


『そうなのね。このユシカの幼子は遥か昔、南十字星にいらした方と同じような偉大な方から、とても大切なお役目をいただいたに違いないわ。


ああ、なんてよいことでしょう。私もその方にお役目をいただけるのなら、それはもう、どのようなことでもいたしますのに。あの業火の炎で、烈火のごとく燃えさかる南十字星の白熱の中を、何往復もして、この黒い器が灰になるまで焼かれてもかまわないわ』

 

ウサギの思いを知ってか知らずか、幼いユシカは少しばかり悲しそうな顔をした。


此処(ここ)へ来たのは(つら)い事ですけど、(さいわ)いで、とてもよいことですの。わたくしのお国では肌の色が違うとか、眼の色が違うとか、住んでる土地が違うとか、信じる神様が違うとか、財が有るとか無いとか、そのようなことで争いますの。全くの不平等でお互いを傷つけますから。それで弱く清く美しい魂はここへ来ますから。それでわたくしも……――」


ユシカの幼子は一息つき(しばら)緘黙(かんもく)した。深く傷ついた魂を癒やし、悲しく辛い自らの境遇(きようぐう)を語るのに、なくてはならない時間であり、必要な緘黙であった。


やがてユシカノ幼子は俯き、深く頭を垂れ遠ると、遠くの、まるで故里でも思い出すような瞳で(そら)を見つめて続けた。


「生まれ落ちるところは皆まちまちですの。そのところによっては争いごとがおきますの。もちろん皆が争うわけではありませんで、わたくしたちの家族は誰も憎みませんでしたし、誰の魂も盗んだり亡くしてしまうようことは決してしませんでしたし… 


わたくしは唯々(ただただ)おと様と、おか様と、あね様たちと一緒にいるだけでよいの。けれども争う方達もおりますから、そのような方々がわたくしたち家族の魂を…… そう、彼等は静かに、残酷に、わたくしたち家族の魂を奪い去って逝きますから……」


遠い過去を振り返り、慈しむように、何かを見つめるその瞳には、例えよう無い嘆きや苦しみを湛えつつも、何者にも囚われない、達観した勝者の雰囲気を漂わせていた。


『このように悲惨で悲しい身の上にあっても、ユシカの幼子は誰を恨むこともない。ああ、せめてこのような幼いユシカの清らかな魂が、南十字星へと導かれ、素晴らしい幸いを頂けますように……―――』


ウサギは心からそう願いつつも、全く穢れを知らない、純粋無垢なユシカの幼子が、何とも哀れで可哀想に思えてならなかった。魂を奪う狩り人。無論それは死を纏し狩り人ではない。魂を狩るのはユシカだ。この幼子と同じ、ユシカに他ならないのだ。


この子等は同族で互いの魂を狩り、死と呼ばれる狩り人に魂を捧げるのだ。


ウサギは魂を(つか)まれたように息苦しくなった。汗が滲み出し、自然と涙が溢れこぼれ落ちる。今にも卒倒しそうに成るほどの、此の、激しい胸の痛みはなんであろう。


すると再びふわりと、見ることが許された風が吹き、風の楽譜を描き、音符を刻み、囁き、新たな感情をウサギの魂に刻み込んだ。


それは嘘偽りない、真の”憐れみ””慈悲”であった。


その刹那、まるで電撃が走ったように魂が痺れた。今(まさ)にこの瞬間、この時、この私の魂に、(おも)い重い鎖がかけられたのではないか、とウサギは思ったのだ。


それは罪人たる者の証であり苦しみ。ユシカと同じく魂に架けられた罪と罰が練り込まれた鎖の重み。

そしてウサギは聖なる者による気づきを得た。


『そうか、そうなのね! 私は真の正と負の感情を知る度に、少しずつこの魂に鎖がかけらていたのだわ! ああ、息苦しい… まるで誰かに口を押さえられているみたいに、息を上手く吸い出せない… 清まる感慨、そして(けが)れる感情は、此程の苦痛と苦しみ、息苦しさを与えるのね――…』


意識せずとも体が震え、止めようと腕を互いに絡ましても震えは止まらず、まるで魂が白熱の業火の炎に(あぶ)られているように熱くなり、呼吸と同じリズムで、ズキリズキリと激しく胸が痛む。


何かに苦しみ、畏れ、痛みに堪えるウサギの瞳を、ユシカノ幼子は真っ直ぐ見つめると、不意に、すっと視線を足下に落とした。


「わたくし今でもおか様の声が頭から離れませんの。おか様は絶命寸前に、わたくしに言いましたの。か細く小さく悲しい声でして、それは一言「ごめんね」と言いましたの。


でもわたくしが思いますに、わたくしがこうして惨い目にあいましたのは、勿論おか様のせいではありませんし、ましてはおと様のせいでもございませんし。それではわたくしたちを追いやり、魂を汚し奪った方らなのでしょうか? それともそれを命令しました将軍様なのでしょうか? それよりもっと雲の上の、高位の御方でしょうか?」


惨い話を静かに、何とも清い顔で、また全てを悟ったように話すユシカの幼子が、ウサギにはとても神々しく見えた。それは嘘偽りなく、震え、畏れ、悶え苦しむウサギは、ユシカの幼子の頭上に燦燦(さんさん)と光輝く光輪を見たのだ。


「でもわたくしはそうは思いませんの。もしわたくしが、その方らを憎み、その方らの罪だと心から思ったなら、わたくしこのような、清いお仕事を(たまわ)る事はなかったと思いますの。ですから、つまり、わたくしが本当に罪を背負っていると思いますのは―――……」

 

言いかけて突然、ユシカの幼子は何か感じたようで、ぶるぶると体を震わせた。


「あぁあぁ………―――」


ユシカの幼子は唇を奮わせ、両手を高々と上げると、鈴を思い切りよく振りながら、感極まったように、真珠のような美しい涙をぼたぼたと零しながら、歓喜に満ち溢れ、惜しげもなく、恥も外聞も捨てるかのように、全く全ての感情を(あら)わにして、美しく透き通るような声で叫び始めた。


――ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ――

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