○ユシカノ正体○
喧騒の中を大勢のユシカが行き交う。ウサギはユシカの足下をかいくぐりながら走った。
無数の足が棍棒を振りまわすように、容赦なくウサギに向けられる。もし当たりでもしたら、大怪我を負うかも知れない。ウサギは小さな身体で必死に避けながら走った。
「このユシカらは何処から沸いてくるのかしら? まるで地面から泡のように、絶えず現れる。ああ、何て騒がしいの? ユシカらは一時の静寂さえ許さないのかしら? 私疲れてしまったわ。もう足を休めないといけないわ」
跫音が耳に纏わり付き、一向に途絶える事の無い棍棒を、避け続けるのに疲れたウサギは、堪らず道の片隅に逃げ込むと、一端走るのをやめ一息つくことにした。
ウサギから見れば誰もが巨人だ。大勢のユシカを見上げていると、急に気分が悪くなり、宙が様々な色でかき混ぜた絵の具の様に混ざり合い、頭の中で混ざり合った色が、渦のようにぐるぐると回りだした。
ウサギは思わず目をつむり、ユシカから目を背けると地面に目を落とした。すると楽しそうなユシカらの声が、頭の中でざわざわと羽音のように響き渡り煩わしく思えてきた。
不快な思いに焦れていると、耳障りな大音声に混じり、思わず愛慕の情を感じてしまうような、可愛らしい声が聞こえてきた。
「おはなどうでつかー きていなおはなはどうでつかー」
まだ片言しか話せないユシカの女児が花を握りしめ、可愛らしい瑠璃色の瞳をくりくりとさせている。女児の身なりは傍目にもとてもよいとはいえず、髪もぼさぼさで、その小さな足には靴も履いていない。
ウサギは祭り衣装に身を包み、派手に飾り立てたユシカと、残酷な境遇を漂わせる女児との明らかな違いに戸惑い、女児に憐れみを感じ憂いた、次の瞬間。
氷でも押しつけられたように、急にさっと胸が冷たくなり、自らの考思に例えよう無い違和感を覚え、まるで罪人のように、許されぬ大罪に苛まれているような、そんな感覚に囚われた。
愚かかな。ウサギはその痛みの本質に気付いていないであろう。
見ることが許された風がさっと吹き、風の楽譜を描き、音符がテンポ良く刻まれる。音は流れるように、リズミカルに声を発している。
愚かなウサギは唯々憐れむだけで♩~声を上げることも♬~手を差し伸べることも出来ず♫~何も力を持たない♪~唯の愚かな傍観者になり果てている♫♪~――
見ることが許された風がそう、告げている。
力ない者は何処までも無力である。だが、しかし。無力であっても真の眼で見定め、鑑みるならば、きっと出来ることは必ず現存しうるのだ。お前はそれに気づけていない。
故に苦しむのだ――……
女児の母は病気であり、もう何年も寝たきりだった。星祭りの夜だというのに、その貧しく哀れな女児は僅かでも母の助けになればと、小さな体と、その小さな手で花を摘み、道歩くユシカに縋り、手当たり次第に声をかけ、花を押し売りしていたのだ。
止めどなく川のように流れていく数多のユシカら。すると一際豪華で、華やかな祭り衣装に身をつつんだ恰幅の良いユシカが、女児の前で立ち止まり、花を一本受け取った。そして女児にコインを渡すと目を細め優しく言った。
「さあ、今日は星祭りだよ。これで何か買って食べなさい」
もしウサギの目が、罪人のように自責の念にかられ、その眼が曇っていなければ、この場でユシカの魂の本質を透いて見ていただろう。だが不幸かな、ウサギにはまだ、本質が見えていないようである。
女児は満面に笑みを浮かべ、白い歯を見せた。その姿を見るとユシカは満足そうに微笑み歩き出した。
それを見たウサギは安堵し、憐れみと云う名の鎖を外し、牢獄から解き放たれた気がして、とても暖かい気持ちがこみ上げた。しかし満足げに片頬笑む恰幅のよいユシカが、ウサギの前を通り過ぎたその時――
『あんな汚い小娘の花を買ってやったぞ。なんて優しくて愛情にあふれた者だと、みな私を見て思ったに違いない。ああ、いい気分だ!』
ウサギの眼は決して曇ってはいなかった。そしてその耳もまた健在である。それは無限の銀河であっても、ウサギにしか聞くことの出来ない、ユシカの嘘偽りない真の魂の声だ。
そしてウサギの目に飛び込んできたのは、見る見るうちに恐ろしい怪物へと変貌していく、ユシカの姿であり、ユシカが元来隠している、本質的な嘘偽りない真の姿であった。
耳が頭を越えて鋭く尖り、目は三日月型に先端を上を向け、口は耳まで裂けている。顔色は火のように赤く、髪は逆立ち、蛇のようにうねり、風も無いのにぐねぐねと動き回り踊り狂っている。威勢を示し、卑しく、無遠慮で、独善的で、冷酷無比な魂が、見事なままに具現化されていた。
ウサギは恐ろしさで全身を震わせつつも、その瞳には深い憤りと、形容しがたい哀愁を湛えていた。
ユシカは心を内に隠し、平然と嘘をつく――見ることが許された風が囁く――ユシカは卑屈で狡猾で狡賢く――慈悲の一欠片もない――……
見ることが許された風は、銀河の世界で決してウサギが知るはずのない感情を、痛烈な痛みとともに、その魂に刻み込んだ。
それは純粋たる、真の”悪意””恐怖”であった。
「ああ、なんてことでしょう―― ユシカは口にしたことと、全く違う事を心の中で考えているのだわ。器は牢獄で、その魂は決して千切れることの無い、罪と罰の鎖で、雁字搦めにされてるのよ! だから息を吐くように嘘をつくのだわ!
ああ、何てこと、鎖につながれた魂と同じく、実際の姿はなんて醜くく、みっともなく歪んでいるのかしら。ああ、恐ろしい。私本当に恐ろしい――…」
ウサギが罪と罰の鎖に拘束され、嘘に塗れたユシカの隠された姿に気づいたと同時に、大衆のユシカの魂の声が、津波のように押し寄せてきた。
『汚い子供。親はいないのかしら? 星祭りが台無しだよ』
『あんな安っぽくて汚らしい花、誰か買うかよ』
『あいつ、偽善の塊だな、分かりやすいんだよ』
数多の汚い声が途絶えることはない。誰彼もがそ知らぬ顔で哀れな女児の前を通り過ぎ、心の中で詰り、罵倒していた。
中には可哀想、惨い、という声もあったが、それはあまりに関心の薄い、ぺらぺらな紙のような思いであった。すでにウサギの前を歩いているのは、魂を罪と罰の鎖で拘束された、唯の醜い怪物の群れである。
ウサギは怪物から逃れようと無我夢中で飛び跳ねた。
どこをどう通ったのかさえ覚えていない。唯々ユシカから、いや、怪物から逃れたくて、一心不乱に必死で飛び跳ねた。汚い声が聞こえなくなり、辺りがしんと静まりかえった頃、気付くとウサギは細く薄暗い路地にいた。
思わず立ち止まり目を凝らして道の先を見た。
煉瓦の壁に挟まれた果てなく続く一本の路は、確定した絶望が蔓延る、一欠片の希望も見えない漆黒の闇が、永久に続いているかのようだった。
もしこのまま進むのなら、二度と還る事は許されない契を交わされ、この魂は、後悔と云う名の永久不滅の鎖に繋がれるのではないか、とウサギは思い、刻まれた真の恐怖で体を震わせた。




