○ユシカノマチ○
七色に輝く光の道は、キレイな弧を描き、地上へと伸びている。その先端は端に近づくほど薄くなっていた。光の道を滑るウサギの頬に風がぶつかる。銀河の世界では感じることのない、正真正銘、偽りない風だ。
「ああ、これが、風、なのね。奇妙だわ。何もないのに、何かに当たっているのだわ。でも。ああ、なんでしょう? とても快いものなのね――」
忘れてしまうかもしれないが、何事も初めての経験とは、良くも悪くも、心地のよいものかもしれない。すると、目にすることを許した風が、偽りない風に負けじと現れて、風の楽譜をウサギの前に描き、楽しげな音符を刻み始めた。
ショパン『子犬のワルツ』である。
生まれて間もない仔犬は、自分の尻尾を追いかけてクルクル回ることがある。その様子を表現したショパンの仔犬のワルツは、アップテンポな曲の中でも軽やかで愛らしい。初めて感じる偽りない風に心躍らせるウサギの心を実践したかの曲のようだ。
子犬のワルツに気分も高揚し、ウサギは軽快に滑り落ちて行く。やがて滑り落ちる速度は光速となり、光の矢となって夜空を駆け抜けた。そうして光の道が途絶えた時、全身目映い光に包まれたウサギは、真流星となり夜空を舞ったのだ。
そして流星は地上に墜ちた。
ウサギが堕ちたのは、大きな川が流れる広い河原だった。遠くに煌びやかな光で包まれた町が見える。それはまるで街全体が宝石箱の中に、利便よく瑰麗に納められているように思えた。
「とてもキレイだわ! 様々な色が鏤められている。銀河でもお目にかかれない絶品だわね。まるで天の河の底に敷き詰められた宝石で、飾り立ててるみたい。あれはダイヤかしら? サファイアかな? それともトパーズかしらね?」
ウサギは陽気なり、抑えきれない感情が爆発し、大いに歓喜した。栄光という名の美酒を真実に置き換え、その行き先を想望し、唯々総てが上手くいくのだと瞳を輝かせた。そのときふと川面に映った黒いウサギを見て、わっと驚愕の声を上げた。
そこには七色に赫くブローチも、碧いフード付きの天鷲絨のコートも身に着けていない。歩こうにも二本の足では前に進む事さえままならない。しっかりと進むには後ろ足を、強く蹴り上げ、何度も何度も跳ねなければならない。
川面には、何も保たず、頼りなく、ちっぽけな四本足で飛び跳ねる、何の変哲も無い、ただの黒いウサギが、不安そうな顔でこちらを見つめていた。
「そうか。ここは銀河ではないから、お月様の魔法が届かないのだわ… ユシカノセカイで、お月様の魔法が蔓延することはないもの。そうだわ、今の私は黒いウサギ。四本足で飛び跳ねるユシカノセカイのただの黒ウサギなのね」
燦然たる栄光を信じ、如何なる困難も成し遂げ成功を掴む。昂揚させた腹積もりは早々に挫かれ、ウサギの成すべき思いは急速に萎んでいった。そして、急に耐え難い不安に襲われた。
そう、ウサギは気づきを得てより、初めて一人きりとなったのだ。
その時、再び見ることが許された風がふわりとウサギの頬を撫ぜた。風の楽譜が記され、音符が刻まれる。
モーツァルト作曲のオペラ「フィガロの結婚」
全体が盛り上がる合奏部分が華やかで、何か良いことが起こりそうな雰囲気を漂わせるこの曲が、ウサギを励ましているかのように思えた。
音は違いなくウサギに届いている。それでも例えようのない孤独感は埋められない。だが、いつまでも塞ぎ込んではいられない。ウサギはこの楽しげな曲で奮起し、思い定め、遠くに見えるユシカノマチを目指し飛び跳ねた。
遠くに見えた小さな光が、どんどんと大きくなってゆく。同時に遠くに見えていた小さな町は大きくなり、ついには眼を見張るほどに高大になった。
ウサギはその想像を絶する佇まいに、抑えようのない畏怖の念を抱いた。
立ち並ぶ高楼は壮大で、中央付近には遙か天蓋まで伸びる塔が聳え立っている。傲慢を誇示する佇まいは、バベルの塔の様相を呈し、真に至上者の憤懣を受けるだけの資格が十二分にあることが見て取れた。
至上者い近づこうと、天に達するほどの高塔を建てようとした為に、至上者の怒りに触れ、それまで一つであった言葉が混乱し、互いの意思疎通を困難にした元凶であるバベルの塔。
傲慢を律するその戒めが、今、真にウサギのその身に降り掛かっていた。
想像力に長け、意想無尽蔵の引出から美しい言葉を拾い上げ口にする。その振る舞いを悦びにしていたウサギが、威圧と畏怖を押しつけ、至上者さえ恐れること無く聳え立つ高塔を目の前にして、一言も発せないでいた。
暫く無畏な態度で聳える塔を呆然と立ち尽くし眺めていたウサギは漸く把握した。
ユシカノマチは敬畏に値しないガラクタであると。
ウサギは目の前の傲慢と欺瞞に満ちた町並みや高塔に、ユシカの罪深さと愚かさの一端を垣間見た。
遠くから眺め、美しいと感じていたユシカノマチは、間近で接すると、滑稽で余りにお粗末で、見てくれだけの欲望に塗れた、到底崇敬出来る代物ではなく、取るに足らない詰まらないものであった。
町の通りを数多のユシカが言笑しながら歩いている。
そう、今夜は星祭りの夜。夥しい数のユシカが祭り衣装に身を包み歩いている。ユシカの稚児が手に風車を持ち、ユシカらの隙間を巧みに避けながら、無知故の可笑しな奇声を上げて走り回る。
「回れ回れ! もっと回れ! 僕の風車はプロぺラで一緒にお空を飛ぶんだ!」
釣られたように、周りにいたユシカの稚児も、口々に願い事を叫びながら走り出した。狂ったように意味不明に叫ぶ稚児を見て、ウサギも不思議と楽しく暖かい気持ちになった。
誰彼構わず喜ぶ姿は、見ている者に安らぎを与えるのかも知れない。ウサギはユシカの総てが罪人であり、囚われた子らであっても、息を吐いている最中、常に卑屈で、狡猾で、狡賢い振る舞いをするわけでは無いと知り、ほっと胸をなで下ろした。
「さあ、ヒカリノタマを見つけよう。生誕する在り場所、安穏の地を目指そう! 好機は今宵星祭りの夜だけなのよ! 今夜見つけないと大変だわ! 逃したら七十六年も待たなくてはならなくってよ。そうなったら大変! 何故ってお月様の魔法が無いのだもの。私の器にしてもどれだけ保つか分かったものでないわ!」
そして、ふと頭をよぎった。もしこの器が朽ち果てたなら己の魂はどうなるのか。それは永遠の謎を未来永劫深慮し続けるのに等しい。
千五百秋、永劫不滅なものがこの時空に存在しうるものなのか。そう惟ると言い様のない恐怖が、まるで津波の如く押し寄せてきた。
ウサギは難解な導きを請うのは止め、正しい導きも正解に至る行き先も定めぬまま、ヒカリノタマが生誕する在り場所、安穏の地を目指してユシカノマチを走り出した。




