○達観したモノ○
「ウサギさん、もう、貴方の野望は八割方叶ったでしょう?」
ようやくユシカノホシに近付いた頃、ハレーは唐突に切り出した。ユシカノホシを間近にして、情け深いハレーは、その胸懐を吐露したのだ。
ウサギはハレーの言葉に耳を傾けながら思いに沈み、敬愛しながらも、緘黙する愚かな沈黙者を続けている。手を伸ばさなくとも、真実は至極当然に目の前にあると云うのに――……
いや、だからこそ口を閉ざしている。
知る、という欲求は果てしない。時に真実とは残酷で恐ろしく、激しく魂を揺さぶり奮わせる。どう足掻こうと、改変も、手直しも入れ替えも、切り替える事も、覆い隠す事も叶わない。絶対的普遍的な事象、それが真実だからだ。
ウサギが知る真実には、まだ得体の知れない隠された先の真実がある。それは困難で、残酷で、救いの無い真実であると、正体不明な何かが警告を告げている。
「何故ってそうでしょう? ヒカリノタマの正体は、もう大抵分かってるのですからね。もしそれでもユシカノセカイに往くのなら、それは白い魂が何故故に星となり、また南十字星で焼かれる権利を失った黒い魂はどうなるのか?
全く消滅してして、きれいさっぱり塵に還るのか? まあ、そんなところでしょか? それに、もしユシカノセカイに降りるなら、もう銀河へ還る目論見は無いに等しい、そう思われませんか?」
ウサギは思いの欠片を拾い集めるように、遠い目をして、静かに想いに耽た。その何時とも終わることの無い緘黙が、今のウサギには必要不可欠であった。
しかしどのように抗おうとも、時は無情に流れ続ける。精気を失った目をしたウサギの耳に、不意に見ることが許された風が流れ、風の楽譜を描きだした。
音符が刻まれる。曲は、チャイコフスキー『悲愴』。悲壮感漂う曲に、激しさや、美しさが見え隠れしている。
まるで静かに見えても、起伏の激しい今のウサギの気持ちを、代弁しているかのような曲ではないか。許された風は、ウサギの心を見透かしているのだろうか。だが、愚か者の証を取り去るには、まだ、深く深く、思慮する時がウサギには必要のようだ。
ハレーは思い悩むウサギの胸懐を知り、ウサギの苦しみを少しでも和らげるのなら、己の知り得る戒めを教え、諭すと誓い、静かに口を開いた。
「ウサギさん、今の貴方は愚かな沈黙者で在り盲目者だ。自分でもそう想っているのでしょう?
憎むべき盲目者であるのなら、眼を瞑らず、その両の眼をつぶし、盲人となり生涯を暗闇で覆いなさい!
軽蔑すべき沈黙者であるのら、口を閉ざさず、舌を切り落とし、聾唖となり一切の言葉を捨てなさい!
そう、つまりは覚悟! 貴方には覚悟が足りないのです! だから迷い苦しみ成すべき事に躊躇い揺れ動くのです!!」
それは厳しい訓育であるが、深い愛が籠もっている。
ウサギは胸に込み上る熱いものを感じた。
『ああ、そうだわ… 今の私に足りていないのは覚悟、絶対なる覚悟なのね。成すべき事を成すのなら、それ相応の対価を支払わなければならない。事が困難であれば困難であるほど、より多くの報いるべく対価が欠かせないのよ。私はそんな大切なことも忘れていたんだわ』
行き着く先に待つ真実は絶望である。幾通りの道筋を選択し、どのように辿ろうとも、その総てが待つのは絶望である。その絶望は支払うべき対価の代償に他ならない。
求めるべき答えを導き出し、得るものを得たウサギの魂は晴れ渡り、清々しいまでに光が差し込んでいた。いつ果てるとも知れない緘黙は終わりを告げようとしている。今こそ愚か者たる証を消し去る時がきたのだ。
思案に暮れ、胸懐に馳ると総て承知したように、漸くして、天岩戸の扉の如く、強固に閉ざされていた口唇は、心の柵が解けると共に開口された。
「ああ、ハレーさん有り難う。私の魂は晴れ渡り光り輝いているわ! 貴方の薫陶がとても魂に響いたわ。貴方は私を上手く調教し、進むべき路を示して下さったのね。
とても良い躾だったわ。だってすっかり悩みが消えて、成すべき対価の代償が判ったのですもの。私、ユシカノホシに行くわ。! 恐れず、総ての真実をこの眼で、しっかりと見届けるわ!!
心が、いえ、魂が激しく燃えているのよ! 真実を求めて燃え上がっているのよ! そうよ! 烈火の如く燃えさかり、総てを焼き尽くして灰にする王者星(太陽)の猛火の炎のようによ!
真火に、そう、光り輝いているわ! 私すっかり覚悟を決めたのよ。ヒカリノタマの有態そのまま嘘偽りない真実が知りたいのよ!
例えそれが残酷な週末であり、例えようのない悲劇であってもよ。不思議ね。私どうしてもそうしなれければならなくて、総てそうするために動かされている気がしてならないの。
そうね、例えるならまるで天から糸が垂れ下がり、私の手足を縛り付けているのよ。それで糸が引かれるたびに、私は人形のように操られ、誰彼の意図によって手や足が動くのだわ。分かって下さる? ハレーさん」
達観した者は強者である。見えなくともハレーには、ウサギの頭上に光輪が見えたに違いない。
それは違いなく蒙霧が晴れ、眩しいまでの朝日が差し込まれたように、ウサギの表情は明朗に神々しく赫いていたのだ。
切っ掛けがハレーの訓育だとしても、ウサギは自らの信念で路を切り開いたのだ。ハレーはウサギの包み隠さない強い信念を知り、思わず歓心し、呆然と成り行きを見守った。
そして束の間緘黙した後、苦心の末ハレーは少し薄笑いを浮かべた。
「人形ですか? いや、よく私には分かりませんね。それでも――… 多情多感な貴方の思い染む決意の程は、重々伝わりましたよ。
それに全く銀河へ還ってこれないと決まったわけでもありません。確率が絶望的に低いと言ったまでです。いえ、貴方なら総ての真実を知ってもなお、何事も無かったように、可愛らし笑顔浮かべ還ってくるような、そんな期待さえ抱いてしまいますよ。
それで、多少なりとも、その、ヒカリノタマが生誕する場所なりは、見当をつけているのですか?」
「いえ、とんでもないわ。全く見当など無いに決まっているわ。でもね、私その生誕たる在り場所に、もう、名前はつけているのよ。とくに変わったこともなく、落ち着いていて、困難なども一切皆無な在り場所、
そう、"安穏の地"よ。
ああ、素晴らしいと思わない? きっとユシカの魂はその様な在り場所にいるに違いないのよ!」
「そうですか、安穏の地ですか。確かにその様な在り場所であれば、安らかな気持ちで生誕出来そうですね」
ハレーは優しく微笑むと、流れ続ける尾から七色に輝く虹に似た一筋の光を、弧を描きながらユシカノホシへと落とした。
それは七色に煌く光の道であった。ウサギをユシカノホシへと誘う道標、いや、歴然としたユシカノホシへと続く道筋を与えたのだ。
「ハレーさん。ありがとう。私、貴方のこと決して忘れないわ。本当よ? 貴方は恩人ですもの。私の話を厭な顔一つ見せず熱心に聞いて下さって。それに為になる訓育と忠告を頂いたわ。この感謝の真心を形として見せられないのが、心底残念でならないのよ?
形に出来たなら、きっととんでもなく素晴らしいわ。ハレーさんにもきっと感動して頂けると思うのよ。ああ、いけない。ユシカノホシを通り過ぎてしまうわ! 私もう往くわね」
ハレーはもう、何も答えなかった。いや、答えられなかった。この先に待つウサギの過酷極まりないであろう運命を、唯々呪わずにはいられなかった。
思えば決意を固めさせたのも道筋を立てたのもハレーである。何故ハレーはウサギをユシカノホシへと往く手伝いをしたのか、それは本人でもあっても分からない。結果として、ハレーはウサギをユシカノホシへと導く総てを整えていたのだ。
橋は架けた。後は快くウサギを送りだそう。
そう想っても、何故かハレーハレーはウサギを留めて起きたい衝動に駆られた。これは戦いだ。ウサギは激しい戦地に赴く戦士なのだ。ウサギを征かせてはいけない、何故ならウサギは戦いに敗れ、壮絶な死を遂げる、そう何かが告げているからだ。
留めよ。でなければ、未練、悔やみ、無念、心残り、そして、決断を誤った後悔。それらの情動に支配され、永久に魂に纏わり付き貪り続けるぞ。そう何かが告げている。
叶わなくとも留めるよう試みなさい。心の底から響くその声は、ささやかな抵抗、得体の知れない運命に一矢報いるべき抗いであり、ハレーの魂の叫びなのかも知れない。
だが一方で、これは歴然と決められた事象であり、誰彼に止める権利は露の欠片も無く、既に始まりも終わりもない運命であり運命なのだとも告げている。
再び見ることが許された風が吹き、ハレー彗星の頬を静かに掠め、宙に新たな楽譜を描き出す。見ることが許された風は、ハレー彗星に伝えるように、葬送、鎮魂を感じされる音符を静かに刻んだ。
ショパン:『ノクターン』
深い哀愁と静寂感が、永遠の眠りと壮絶な別れを連想させる。通り過ぎる旋律は、悲しみを帯び、静かに消えてゆく。
旋律はハレーを脅えさせ、永遠の孤独と、例えようのない寂寥感を其の魂に刻み込んだ。ハレーは偉大なる至上者に祈り縋りつき、助けを請い、泣き叫びたい衝動に駆られた。
この願いが叶うのなら、嘘偽りなく懇願し、触れ伏し、その足下にキスすることさえ厭わない。そしてどの様な犠牲もこの身を保って受け止めよう。歩くこともままならい程に困難な、重い贖罪の十字架を背負う覚悟もある。
ウサギが総てを遣り遂げ、無事に帰郷できるのであれば、この体を猛火の王者星(太陽)に捧げて、木っ端微塵に砕け散り塵に還るのも良いのです。
そう誓願した。
それは唯々ウサギの無事を遙拝するハレーの魂の祈り、真の自己犠牲であった。様々な感情が入り交じり、高ぶる気持ちを抑えきれないハレーは、唯々緘黙し、ひたすらに、実直に、感情を押し殺し、脇目も振らず前だけを見て飛び続けるしか為す術がなかった。
やがてハレーに染みついた陰が、有情の如く動き出し、形創られ、陰はウサギへと変貌した。
飛び跳ねるのはウサギの得意とするところだ。姿を現したウサギは意を決し、勢いに任せ跳び跳ねると、ユシカノホシへと伸びた七色の道へと飛び降りた。
待て! ハレーは思わず心中で声を荒げた。いなくなってしまうのか? 私からお前は離れてしまうのか? 例えようもない苦しみがその魂を激しく揺さぶり、後悔とい名の鋭い刃を突き立てる。
だが、無情にもウサギはハレーの手を離れ、決して手の届かない、未知の暗闇へと消えてしまったのだ。
ハレーははち切れんばかりに声を上げて泣いた。どれだけ噎び泣こうが、誰が見ている訳でもない。誰に咎められる訳でもない。涙を流すことで、魂に突き刺さった刃を抜き去り、消える事の無い痛みを癒やした。
哀しければ思い切りに哀しみ、総てを放り出して泣き叫べば良い。ハレーは魂の痛みを和らげる術をすっかり心得ていた。
だが、しかし。初対面で在り、先程会ったばかりであるウサギを送り出すことが、何故に此程苦しいのか、理解に悩み苦しんでいた。魂を締め付ける、例えようのない凄まじい苦しみは、ハレーにある気づきを与えた。
ハレー彗星は啓示を受け、天啓を得たのだ。そして、ハレー彗星は悟った。
そうか、お前は……――君は――ああ、私を許してくれるだろか――此の、贖罪を受け入れ――此の、か弱い子羊である罪深き魂を――真解き放ってくれるだろうか――
ああ、そうか。そうだったのか。そうであったのか―――
それ故に私はウサギを此れ程に愛しく思い、心の底から激しく愛したのだ―――




