伊藤愛の憎悪
神に祈るような思いで愛がHIV検査を受けてから、しばらく経った。
日本の医療は優秀である。それ故にHIV検査の結果は、愛の予想よりずっと早く出た。陽性である。
陽性。
陽性、陽性。
HIVポジティブなのだ!
おめでとう!
神様がくれたHIVだ!
病院の待合室で、長椅子に座っていた愛は笑い出しそうになった。
伊藤愛は、もはや人間ではなくなっていた。
病院を飛び出してフラフラと歩いていた愛は、人気のない路地で、会社帰りのサラリーマンらしき男にぶつかった。
男のカバンの中身が散乱し、免許証や財布が地面に落ちた。愛は、財布を盗もうとした。
「ちょっと!何をするんですか!」
男は、愛を突き飛ばした。
・・・糞野郎、何しやがる!あたしみたいな女の子に向かって!
男は、落ちた私物を回収すると、愛を冷たい目で見据えた。だが、それも一瞬の事で、すぐにその場から去って行った。
愛は、悔しさの余り地団太を踏んだ。あの野郎、いつか仕返ししてやる!
この時、自分が、伊藤愛という女性の撒き散らす憎悪の標的になったのだとは、男は夢にも思わない。
それから愛は気を取り直すと、路地を歩き続けた。その時だった。
前方に白いワンピースを着た少女を見たのだ。愛の中で、何かが切れた。
愛は、白いワンピースを着た少女の『幽霊』に掴みかかった。
激情と共に、目から、鼻から、口から様々な汚物が溢れ出す。
あたしがこんな風になっちまったのも、全部てめえのせいだ。
返せよ、あたしの人生を返せ!
あたしを返せ!
しかし、愛の呪詛に対して、幽霊は何も答えない。
チクショウ、殺してやる。
意外な事に片割れである赤ん坊も出現せず、少女はされるがままとなっていた。
この機会にと、自分の両手に力を込めて幽霊の細い首を絞めあげる。
そうだ、死ね死ね死ね!
てめえなんざ、死にやがれ!!
もう少しで、可哀想な自分を長い間苦しめてきた幽霊をぶっ殺す事が出来る。
そう思った時。
「うちの孫娘に、何をするんですかっ!」
いきなり衝撃をくらって、愛は10時の方向に吹き飛ばされた。転んでひっくり返った瞬間、尾てい骨をしたたか地面に打ちつけてしまい、その苦痛で絞め殺される鳥のような悲鳴を上げた。
糞ったれ、何しやがる!
痛みのあまり声が出ないので、心の中で悪態をついて起き上がると、
「ひかり、ひかり!ねえ、大丈夫、大丈夫かい?しっかりしておくれよ、ひかり!」
上品で美しい風貌の老婦人が、幽霊の少女を抱きかかえて涙ながらに叫んでいた。
愛は、老婦人に向かって叫んだ。
「このクソ婆、いきなり何すんだよ!もう少しでそいつをぶっ殺せたのに・・邪魔しやがって・・てめえも殺されてえのか!」
涙に濡れた老婦人の顔が、信じられない、とでも言いたげに歪んだ。
この時、少し目を凝らせば「幽霊」の着ている服が白いワンピースではなく、水兵が着るようなセーラー服だとわかったはずなのだが、愛にはそんな余裕は無かった。
獲物を横取りされて怒り狂う獣のような表情を浮かべた愛が、幽霊と老婦人に再び襲いかかろうとした時、いくつもの足音と老若男女混合の叫び声が聞こえた。
「ちょっと!ちょっとっ、一体どうしたのよ!」
「ひかりちゃんは?」
「あの・・・何か、あったんですかぁ?」
「おい、警察だ!警察呼べ!」
「なに?お孫さん、見つかったの?」
畜生、大勢やってきやがった!
これ以上の攻撃は無理と判断した愛は、幽霊と老婦人に背を向けて全速力で走り去った。
愛には、人間と亡霊の区別すら、既につかなくなっていた。




