お姫様と教育(2)
王宮の区画にある小さな図書室は、チェリーピンクの絨毯が敷かれた可愛らしい書斎のようだった。マホガニーの机に椅子が幾つか設置され、座面のクッションは薄いピンク、窓を覆うカーテンは白いレースで、風に吹かれてひらひらと揺らめいている。
一番奥の窓側の椅子に、メリルが脚を組んで座っていた。シェリーが入ってきたのをみとめると、グッと睨み付けてきた。シェリーは左胸に手を当ててお辞儀する。
「メリル様、本日よりマナー講義を仰せつかりましたシェリーです。どうぞよろしくお願いいたします」
「私は認めていないわ」
「リト様のご命令ですので」
メリルもここにいるという時点で、父親に刃向かうまでの気持ちはない証左である。シェリーは少しほっとした。
「隣国で王太子妃教育を長年受けてきた身ですので、ある程度はお伝えできるかと思います。ご参考にとお薦めする教本は、こちらの本棚に移していただきました。追加の分は後日届きます」
「え、これ全部……?」
シェリーが示した本棚を、メリルがぞっとした表情で見遣った。可愛らしい猫足の小さな本棚で、幅は八十センチメートルほど、今は書籍で二段埋まっているくらいだ。
「語学の本もあるので多く見えるだけですよ。少しずつやったら大丈夫です」
「……あんたはここに置いてあるもの、全部身につけたのよね?」
「はい。幼少期から教育を受けてきましたので」
ふうん、とメリルが本棚を眺める。その実、シェリーが修学したのはこの本棚の倍以上である。
マナーや歴史学のほか、戦闘魔法、生活魔法、錬成魔法などを習得したからだ。
「で? 今日は何からやっていくわけ」
渋々といったようだが、講義を受ける気持ちはあるらしい。おそらく素直な性分なのだろう。
「ありがとうございます。では座学の前にまず――お立ちください」
訝しげにしながらもメリルは椅子から立ち上がった。やはり素直だ。シェリーは彼女の肩と背中に手をそっと置いて姿勢を矯正する。
「社交において美しさは武器です。今のままでも十分素敵なメリル様ですが、惜しいと思いました。姿勢や所作は美しさに磨きをかけますし、品格を左右します。肩も少し巻き肩ですね。立ち姿と歩く姿、まずこちらを正します」
「えっ……真っ直ぐ立ってるつもりなんだけど」
「先程までされていた、脚を組む姿勢も普段はあまりされないほうがよろしいです。骨盤が歪んだり、ほかにも色々と影響がありますよ」
「そうなの……?」
心配そうにするメリルに、シェリーは優しく微笑む。「今から直せば大丈夫です」と言うと、「そっ、そう!」と強気に言いながらほっとしている様子が可愛らしい。
初回の今日は一時間ほどで終わらせ、次回までにざっと目を通してほしいマナー教本を渡した。嫌そうな顔をしながらも、メリルはちゃんと受け取ってくれた。
執務室に戻るとエドガーに「おかえりなさい」と迎えられた。講義の様子を聞きたそうな雰囲気を感じ取り、「素直で可愛い姫君ですね」と言うと静かに首を振られる。
「いいんですよ、気を遣わなくたって。でも、シェリーさんが大丈夫そうなら良かったです」
「メリル様はツンツンした言動を取りがちですが、とても素直な方だと思います。勉学の習得も早いと思いますよ。私もご一緒する時間が楽しみです」
本心からそう言うと、エドガーは柔らかく笑った。シェリーは彼の笑顔を見ると心が安らぐような、安心してホッとした気持ちになる。
はじめのころは表情筋が動かない人だと思っていたが、最近はよく笑ってくれる。シェリーも自然体で笑えるようになった。いつだって笑顔を絶やさないようにしてきたが、それは身に染みついた作り笑顔だ。
(……そういう笑顔が、母国の王子や社交界で『可愛げがない』など言われた理由の一つだったのかもしれない)
「シェリー殿……? そうです、今日は俺がコーヒーを淹れてみましょうか。苦くなりがちなんですが、カフェオレにするなら逆に合うことに気付きまして」
エドガーはわずかな表情の動きを見逃さない。ふと過去を思い出していたシェリーの顔色を見て、何かしら元気づけようとしてくれたのだろう。優しい。
「楽しみです。私、カフェオレも好きなので」
エドガーが入れてくれたコーヒーは確かに苦く、ミルクを注ぐとちょうど美味だった。
本日の講義はダンスレッスンである。これは王宮にある舞踏室を借りた。
メリルは鮮やかな赤のドレスを纏い、よく似合っていた。シェリーはいつも通り軍服のまま向かったのだが――
「なんでドレスじゃないのよ!」
と、開口一番に怒られる。
「え、ええと、私が男役をいたしますので」
「それもそうだけど、女性側の動きも見たいわ。それに軍服のほうが動きやすくてズルくない? ……あっ、そっか、ごめんなさい、ドレス持ってきてないわよね。んー、そうだ! 次のとき、ルルリにドレスアップを頼んでおくわ。絶対にドレス着るのよ! 絶対だからね!」
「メリル様がお望みでしたら……お願いいたします」
勝手に大丈夫だろうか、と思いながらシェリーは頷いた。メリルは満足げに微笑んだので、レッスン開始である。
基本のステップなどは既に覚えていたので、メリルに足りないのは実践だけだった。シェリーが男役をし、何度も踊る。
「なんで男のほうも踊れるのよ、あんた」
「そういえばどうしてでしょうね。何度も踊ってきたからでしょうか」
「そういうもん? ねぇ、母国で夜会には出ていたの? あんたもドレス着て踊ってたの?」
慣れてきたのか、余裕を持って踊りながら喋れるようになったようだ。ほんの少しだけ目線の低い瞳を見つめて、シェリーはにこりと微笑みかける。メリルは一瞬体を固くし、視線を逸らされた。
「はい。たくさん出席しましたよ。ユートリアでも夜会はありますか?」
「この国でも、一応あるわ。あんたのとこの国ほどじゃないけど」
「エルランは貴族が張り合うために開催している、無意味な夜会も多いですからね」
「……母国なのに辛辣ね」
辛辣も何も、シェリーにとってはただの事実である。以前、似たようなことを元婚約者アーサーに言ったら叱責されたので、母国では口をつぐんでいた。無意味な夜会開催の費用を、もっと有益なことに使えばいいのにと、考えた施策や事業を話してみただけだったのだが。
「ここの王宮でも年に二回開催するのよ。皆憧れのエドガー様の人気なんてすっごいんだから。もうね、入れ食い状態よ」
「エドガー様、やはり人気なのですね」
シェリーが同意すると、メリルはギラリと目を輝かせる。
「そのとおりよ、当たり前でしょ! お父様の次に強くて、顔が良くて、何より淫魔族なのよ最高じゃない!」
「淫魔族なのが関係あるのですか?」
他者を誘惑することに長け、人によっては意のままにすることもできる――とエドガーは言っていた。
「夜の夫婦生活が最高だからに決まってるじゃない。カマトトぶらないでよね」
「…………なっ……るほど、なるほど。そういう、ことですか。そういう……」
シェリーが理解するのに十数秒かかった。
(なるほど、そうか、淫蕩の魔と書いて淫魔だから……)
ぼぼぼ、と顔の表面が熱くなる。赤くなっているに違いない。
「なに、あんた、本当にわからなかったわけ? もしかしてそういうことに本当に疎いの?」
「わかりません……疎いのでしょうか」
メリルはまじまじとシェリーを見つめ、ニヤリと笑った。これまでで一番楽しそうな笑みだった。
「本当に疎そうね。だったら私が教えてあげる。エドガー様はね、地位も顔も強さも最上級で、夜の生活も属性的に最高なのが保証されているから、結婚相手にと熱望されているのよ。昔はねぇ、婚約者がいたような、いなかったような」
エドガーにも婚約者がいたのだ。腹の内にズドンと重しを詰められたような気分になる。
「でも今は、私という最高の結婚相手がいるんだから!」
エドガー曰く、『勝手に言っているだけ』だそうだ。ただ、目の前のメリルはとても可愛らしく思う。
そんな風にメリルを見つめていると、彼女は急に口を尖らせた。
「……なによ。わかってるわよ、相手にされてないことぐらい」
「可愛らしい方だなと見つめていただけですが」
疑惑的な目で見つめられる。しかしそれもすぐ、諦めたような笑顔に変わった。
「わかってるの。それにね、私も憧れみたいなものだから。そりゃあ結婚してくださったら嬉しいけど? 現実味もないのよね。そもそもエドガー様って結婚願望あるように思えないし」
メリルは淡々と喋りながら、ダンスを止めなかった。
「でも、父上の娘である私が結婚相手! って言ったら、エドガー様に群がる女どもを少しは牽制できるでしょ? いっつも迷惑そうにしてるのわかるもん」
「……メリル様は可愛らしくて、お優しいのですね。そういった意図があることを、エドガー様にもお伝えしたらいいと思いますが」
それを知れば、エドガーの対応ももっと優しくなると思うのだ。
「それはいいの! 子どもが気を回すなとか言われそうだし。それにエドガー様が粗雑な言い方するのって珍しいから、それはそれで楽しんでるの」
なんと――エドガーのあの反応を楽しんでいた。
「ちっとも子どもなんかじゃありませんのにね」
シェリーは心の底からそう言った。「そうでしょ!」とメリルは得意げに微笑む。
「……あんたが存外悪くないというか、裏表が全くない実直おバカさんみたいだから、話す気のないことまでペラペラ喋っちゃった。今日はこれでおしまい! 次は絶対ドレス着てくるのよ。……シェリー」
「ありがとうございます、メリル様」
恥ずかしそうに名前を呼ばれ、胸の奥がむずむずするような、それでいてキュンときめくような気持ちになった。
「本当に可愛い人ですね」
思わずそう言うと、怒ったように顔を赤くしてメリルは先に部屋を飛び出していった。
マナー的にはアウトだが、『メリル様の可愛いところ』一覧があれば二重丸をつけたい。




