毒の花群れ
隠されていたのは、真鍮の札だった。表には『EAST CLOAK ROOM』の文字と、その下に大きく『62』と刻まれている。
――東側クロークの預かり札だ。
おかしい。ここは王宮の西側なのに、どうしてこんなところに東側の札がある?
偶然まぎれこんだとは考えにくい。誰かが意図的に隠したのだろう。
思わぬところで、妙なものを拾ってしまったな。
これほど巧妙に隠されていた札だ。はたしてなにが預けられているのか確かめてみたいが、今のクロークは警察が制限をかけている。下手に持ちこんで目をつけられたらまずい。
さて、どうしたものか。
解決策が思い浮かばず、わたしはひとまず拾った札を懐にしまった。
気を取り直し、再び先へ進む。廊下の角を曲がろうとしたところで、聞き覚えのある声がした。
「それにしても、これほど高価そうなものを、人の行き交う場所に置いていて大丈夫なのでしょうか」
反射的に足を止める。――ワトスン巡査の声だ。
手にした手燭を柱の陰へ置き、布を取り出して清掃係のふりをしながら向こうを覗きこむ。
広間にはいくつものガス灯がともされ、廊下よりもずっと明るい。ワトスン巡査とホームズ警部補は、その中央に並ぶ女神像を見上げていた。
少し離れたところでは、装飾係らしい男がひとり作業をしている。
彼らにはジャクリーン・モリアーティとしての顔を見られている。特にホームズ警部補を相手に、変装が通じるかなんて試す気にもなれない。
「高価そうに見えるだけだよ。あれは全部イミテーションだ」
「そうなんですか?」
「ああ。よく見てごらん。ここに、ごくわずかだが気泡があるだろう」
「……本当ですね」
「こっちの石には脈理もある」
「この、筋のようなやつですか?」
「そう。どちらもガラスには珍しくない特徴だ。ほかも同じだよ。女神像の宝飾は、すべてペーストか色ガラスでできている」
「それなら安心ですね。わたし、てっきり本物かと」
「それだけよくできているということさ」
しばらくすると、二人は広間を離れていった。
足音が聞こえなくなるまで待ち、わたしは灯りを手に女神像へ近づいた。
装飾係の男はまだ残っている。その横で花の一つひとつを覗きこんで回れば、さすがに目につくだろう。
少し考えて、わたしは男に声をかけた。
「失礼いたします。救護室から参りました」
「救護室?」
「ええ。先生から、こちらにどんな花が使われているか確認してくるよう言いつかりまして。先ほど運ばれてきた患者の症状に、なにか関係があるかもしれないそうです」
そう言って、籠の中にある空の薬瓶をさり気なく見せる。
先ほど救護室から回収してきたものだ。調剤室方面へ向かう口実に使おうとしていたが、思わぬところで役に立った。
「なるほど。そういうことなら、どうぞ」
男はすんなり納得すると、また作業へ戻った。
これなら、花を詳しく調べていても不審には思われないだろう。
わたしは四体の像に近づき、改めて観察した。
献上式の最中だけあって、どの像も普段より華やかに飾られている。
四季を司るこの女神たちは、主神の御意を受けて初代国王に力を貸したとされる四柱だ。献上式でも、主神に代わって献酒を受け取る役目を担っている。
春の女神は、花かごを抱く若い娘。
白い大理石の身体を色とりどりの花が飾り、髪や衣には砕いた宝石や真珠が散りばめられている。
夏の女神は、麦穂を担ぐ盛りの女性。
灯りを透かすほど上質な薄衣をまとい、その縁には金糸で陽光の意匠があしらわれている。
秋の女神は、角杯を掲げる成熟した女性。
頭に戴いたブドウの冠では、深紅のガラスで造られた果実が、赤ワインのように輝いている。
冬の女神は、枯れ枝を携える年老いた女性。
身体を覆う毛皮には、霜を思わせる銀糸と氷粒のような水晶が散りばめられ、足もとの銀の火鉢が静かな温もりを添えている。
その周りには、四季に合わせた生花がふんだんに飾られている。
春には水仙やヒヤシンス、プリムローズ、スミレ。夏には薔薇やカーネーション、ゼラニウム。秋には菊、ダリア、アスターが並び、冬にはスノードロップ、シクラメン、クリスマスローズ、アイビーなどが配されていた。
「これだけの花を、よく揃えましたね」
見事なものだ、と思わず装飾係に声をかける。
「ええ、この日のために温室で育てたものですよ」
「なるほど」
手燭をかざし、まずは水仙を隅々までよく確かめた。
水仙には毒があり、汁に触れると肌が荒れるのはもちろん、口にすれば嘔吐や腹痛を引き起こす。
だが、春の女神像を飾るそれらは美しく整えられており、特に抜き取られた痕跡もない。
続いてヒヤシンスを確認する。とくに球根に毒のある花だが、鉢植えの土に掘り返された跡はなく、床にこぼれたりもしていない。葉や茎が折れたり、傷ついたりしているようすもなかった。
さらにゼラニウムやアイビーなど、触れるとかぶれを引き起こすものを調べていく。
春の女神が抱える花かごにも、プリムローズ、スミレ、クロッカス、オスマンサス、ヒナギク、勿忘草などが詰められていたが、こちらはペーストや色ガラスで作られたイミテーションだった。
そのまま冬の女神の前まで移動したところで、ふとスノードロップの奥に咲く花が目にとまった。
「これは……」
「なにかありましたか?」
装飾係の声に、わたしは顔をあげた。
「いえ、なんでもありません」
「そうですか」
男はそれ以上聞かず、また手もとの作業へ戻った。
わたしも目の前の花に視線を向ける。
深く裂けた濃緑の葉に、うつむくような白い花。
ヘレボルス・ニゲル――いわゆるクリスマスローズだ。
古くから毒草として知られ、薬として使われる一方、その毒性を利用された記録も多い。矢毒に使われただけでなく、戦争で敵方の水源にこれの根毒を流した歴史もあるなど、人類最古級の生物兵器とも言われている。
そのヘレボルスのうち、隅のひと株だけ傾きがおかしい。
身を屈めて覗きこむと、茎のひとつが根もとのほうで折られ、裂けた繊維がかろうじて繋がっている状態だった。
その近くの葉も、爪で引っ掻かれたような無数の傷跡がついている。
ヘレボルスの汁は、皮膚に触れると炎症を引き起こす。
しかも、この植物は口にしても有害だ。吐き気や腹痛、めまいなどを引き起こし、命に関わるほど重症化する場合もある。
ファルコナー嬢が訴えている症状とも一致していた。
ならば、彼女はこれを口にしたのだろうか。
皮膚症状だけなら、なにかの拍子に触れてしまった可能性もある。だが、貴族の令嬢が装飾花を口にするとも思えない。
とすれば、誰かに飲まされたのだろうか。無理やり、あるいは知らぬうちに?
そもそも、原因がこれだとして、彼女はなぜこんな場所まできたのだろう。
誰かに呼び出されたのか。なにかを探しに来たのか。それとも、この場所そのものに用があったのだろうか?
あるいは犯人が汁だけ持ち帰り、それを彼女に盛った?
考えながらぼんやりと女神像たちを眺めていると、ふと春の女神の花かごに目がとまった。
プリムローズ、スミレ、クロッカス、オスマンサス、ヒナギク、勿忘草――ひとつだけ、季節の合わないものがある。
オスマンサス――金木犀は秋の花だ。春の女神を飾る花としてはおかしい。
女神像に近づき、手燭で花かごを照らす。
色とりどりの模造花に混じって、金色がかった橙色の小花がいくつも寄り集まったひと枝があった。
よく見ると、それだけ周囲とは輝きが違う。
ややぼんやりとした色ガラスに比べ、虹色のきらめきと深みのある輝きを放ち、カットの稜線もくっきりと鋭い。
間違いない、本物のイエローダイヤモンドとオレンジサファイアだ。
マリー・メルモット子爵令嬢が身につけていた金木犀のパリュールが、女神像の花かごに隠されていた。
装飾係がこちらに背を向けて作業しているのを確認し、わたしは花かごに手を伸ばした。
ネックレスをそっと持ち上げ、中央の飾りを裏返す。
その地金に、細かな文字が刻まれていた。
『HELEN
14 OCTOBER A.F. 937
蘭桂雖異庭 共仰明月而齊芳』
ヘレン、建国暦九三七年十月十四日。
その下に刻まれているのは、大華国の文字だろうか。
そういえば前世の知識にも、義務教育で習う程度の漢文はあったはずだ。
忘れかけている知識をかき集め、どうにか解読を試みる。
蘭と桂は庭を異にすれど、共に明月を仰ぎて斉しく芳し――。
おおよそ、そんな意味だろう。
なぜ、メルモット嬢のパリュールにヘレンという名が刻まれている?
それに、この漢文にはどんな意味が込められているのだろうか。
刻印に気を取られていたわたしは、背後から近づく気配に気がつかなかった。
「――あなた、そこでなにをしているの?」
唐突に声をかけられ、とっさにネックレスを花かごの奥へ滑りこませる。
振り返ると、恰幅のいい中年の女性が立っていた。
黒いドレスに、糊のきいた白い襟とエプロン。髪はきっちりと後ろにまとめられ、腰には鍵束と懐中時計を下げている。片手に持っているのは帳面だろうか。
身なりからして、ただの夜番ではない。
背中に嫌な汗が流れるのを感じる。まずいな。
……夜番主任だ。




