まだらの掌
救護室に入ると、独特な匂いが鼻をかすめた。
消毒液と薬品、それに洗いたてのリネンの香りが混じっている。
壁ぎわには寝台が三つ。その一番奥だけが、衝立で囲われている。
そこから低い話し声が聞こえてきたので、わたしはカートを押して近づいた。
「失礼します。新しい布とお湯をお持ちいたしました」
「ああ、入ってきてくれ」
男性の声がして、わたしは衝立を少し動かした。
寝台にはアリシア・ファルコナー嬢が横たわっていた。
淡い色の室内着姿で、傷ついた右手を傍らの侍医に診せている。
反対側にはファルコナー夫人が腰かけ、もう片方の手をさするように握っている。
こちらに気づいた侍医が顔をあげた。
「湯はそこへ置いてくれ。それから、濡れタオルを一枚。しっかり絞るように」
「はい」
言われたとおりにして、寝台へ近づく。そのとたんファルコナー嬢から、ふわっと薬品の匂いが漂ってきた。
侍医に布を差し出しながら、さり気なく彼女のようすを観察する。力なく目を閉じながらも、その容貌は美しく整えられていた。
マホガニーブラウンの髪に、陶器のように白く透明感のある肌。くっきりと弧を描く眉と、赤みを帯びたアイシャドウ。唇には鮮やかな紅が引かれている。
なるほど、東方風の化粧が流行っているというのは本当らしい。盟杯で見たメルモット嬢も似たような化粧をしていた。
おそらく、前世でいうところの中国風メイク――いわゆるチャイボーグメイクというやつだな。
『霧ロマ』が発売されたのは令和の初めごろだったから、当時の流行が反映されているのかもしれない。
「こちらを」
「ああ」
侍医は布を受け取ると、ファルコナー嬢の右手に当てた。
「ぅ、ああ……っ! い、痛い……痛い……!」
「ああ、アリシア……!」
身悶えるファルコナー嬢に、夫人が顔を寄せる。
「もう少しだけ我慢してちょうだい。先生が診てくださっていますからね」
「……はい、お母様」
ちらりと彼女の右手を盗み見ると、なるほど針が刺さったという指先には、たしかに小さく傷があった。とはいえ、赤くなってはいるものの、思っていたほど深くはなさそうだ。
問題は、手のひらに広がる炎症だった。
手首の近くまでまだらな赤みが浮かび、ところどころ腫れている。指先の傷に対して、発赤が広すぎるように思えた。
「あの、先生。針が刺さったのは、指先なのですよね?」
「ああ、そうだ」
「差し出がましいですが……それにしては、赤みが広すぎるような」
侍医はわたしを一瞥すると、再び患部に視線を戻した。
「私もそこは気になっている」
赤くなった部分を慎重に確かめる。
「傷そのものは浅い。それに、この赤みは刺し傷を中心に広がっているわけでもない。毒物による反応としては、少しおかしい」
「先生、それは……」
ファルコナー嬢が不安そうに侍医を見た。
「毒が、ひどく回っているということでしょうか」
「そうとは限りませんよ」
侍医は宥めるように答えた。
「針の傷とは別に、皮膚がなにかに反応しているのかもしれません。脈も呼吸も今のところ落ち着いていますから、まずはこのまま様子を見ましょう」
「……そう、ですか」
ファルコナー嬢はわずかに唇を噛んだ。
たしかに、刺激の強い薬品や洗剤、化粧品、金属、植物など、触れると皮膚に炎症を起こすものはいくらでもある。毒針以外の可能性も視野に入れる必要があるかもしれない。
使い終えた布を片づけながら思案していると、とつぜん救護室の扉が開いた。
「エセル、アリシアの具合は?」
男の声に、夫人が振り返る。
「あなた」
入ってきたのはファルコナー侯爵だった。
献上式で見かけた時と比べると、さすがに疲労の色が隠せていない。
それでも部屋に入るなり、まっすぐ娘のもとへ向かった。
「遅くなってすまなかったね」
「お父様……」
「まだ痛むかい?」
「ええ。ですが……大丈夫です」
「そうか」
侯爵はそっと娘の肩に手をそえると、侍医へ向き直る。
「先生、娘の具合はいかがでしょう」
「脈は少し速めですが、痛みのせいでしょう。呼吸も落ち着いていますし、今のところ心配するような状態ではありません」
「そうですか。ありがとうございます」
侯爵はほっと息をついた。
「警察のお話は、もう?」
夫人が尋ねる。
「ひとまずはね。ずいぶん細かなところまで聞かれたよ」
「ライヘンバッハ公爵のことも?」
「ああ。警察はまだ疑っているらしい」
侯爵は少し考えてから、穏やかに続けた。
「まあ、ライヘンバッハ公爵とは長いこと意見の合わない間柄ではあるけれどね。だからこそ、あの人がこんな回りくどいことをするとは、どうにも思えないんだよ。私を狙うなら、もっと確実なやり方を選ぶだろうから」
「でも、お父様」
ファルコナー嬢が口を挟んだ。
「ライヘンバッハ公爵には、あまりよくない噂もありますでしょう? ずいぶん非情な方だというお話も聞きますわ。それにジャクリーン様も……なにをお考えなのか、よくわからない方ですし」
「アリシア」
侯爵が困ったように眉を下げる。
「人の噂を真に受けるものじゃないよ」
「お父様の言うとおりよ」
夫人もそう続けたが、その声に娘を咎める響きはなかった。
「アリシアがそう思ってしまう気持ちもわかるわ。でも、お父様のおっしゃるとおり、今は決めつけないようにしましょう」
「……はい」
ファルコナー嬢は小さくうなずいたが、どうにも納得しきれないようすだった。
どうやら、ずいぶんと嫌われているらしい。
「それより、お父様。ヴィンセント様は、まだ警察に?」
「ああ。もう少し話を聞かれるようだよ」
「そうですか……ずいぶんと長いのですね」
「あの子のことは私もよく知っているからね。なにかの誤解だろう。そう心配することはないよ」
「……はい」
ファルコナー嬢は今度こそ素直にうなずいた。
侍医が使い終えた布を差し出し、こちらを見る。
「もう一枚頼む」
「はい」
わたしは新しい布を差し出しながら、考えを巡らせていた。
針が刺さったのは指先。それに対して、炎症は手のひら全体に広がっている。
もし侍医の言うように、針とは別の原因があるとしたら――まずは彼女がなにに触れたのか、確かめる必要がありそうだ。
ひと通り仕事を終えたところで下がっていいと言われたので、救護室を後にした。
そのまま西客殿へ向かう。ファルコナー嬢の身の回りを世話していた侍女たちなら、なにか心当たりがあるかもしれない。
合同控え室へ入ると、目があったテレーズがすぐに立ち上がった。
「バンチさん! あの……お嬢様は、いかがでしたか?」
「先生が、今のところ危険な状態ではないと」
「そうですか……」
テレーズは胸に手をあて、ほっと息をついた。
「よかった……。手があんなに腫れていたので、毒が回ってしまったのかと……」
「そのことなんですが」
わたしは少し声を落とした。
「先生から、アリシア様がなにか手を荒らすようなものに触れなかったか、心当たりがあれば聞いてきてほしいと言われまして」
もちろん、そんなことを頼まれた覚えはない。
嘘も方便というやつである。
「手を荒らすようなもの、ですか?」
「ええ。ほら、洗濯ソーダに素手で触れるとかぶれるでしょう?」
「ああ……」
それだけで話が通じたらしい。テレーズはしばらく考えていたが、やがて首を振った。
「いえ……特に、そういったことはなかったと思います。そもそも、お嬢様はずっと手袋をなさっていましたから」
そういえば、献上式でファルコナー嬢を見た時も、象牙色の手袋をしていたな。
カトレアをモチーフにした赤紫色のドレスに、手袋と同じ象牙色のベースドレスをまとっていた覚えがある。
「手袋……それは、コサージュを外した時もですか?」
「え?」
「ほら、アリシア様は、その時に針が刺さってしまったのでしょう?」
「ええ。でも……そうですね、たしか手袋はなさったままだったかと」
コサージュの裏にあるブーケピンを抜くなら、手袋を取ったのかもしれない。その時になにか触れたのではないか?
そう予想したのだが、あっさり否定されてしまった。
「では、アリシア様が手袋を外したことは、一度も?」
「はい。少なくとも、わたしがお側にいた間は――」
ふとテレーズが言葉を止めた。
「あ……でも、一度だけおひとりになられた時間があったので……その時かもしれません」
「いつごろのことです?」
「たしか、ええと……午後九時前後だったかしら。少しひとりにしてほしいと仰って、アリシア様がお部屋を出ていかれて……」
テレーズは記憶をたどるように、こめかみに指をあてた。
「ちょうど、ヴィンセント様が警察に連れていかれたと聞いたばかりでしたから……お気持ちを落ち着けたかったのだと思います」
「どのくらいで戻られました?」
「それほど長くはありません。たしか、十分ほどだったかと……」
わたしは小さくうなずいた。
「ありがとうございます。先生にも伝えておきますね」
「あの……少しでも、お役に立てれば」
「ええ、じゅうぶんです」
テレーズに感謝を述べ、その場を後にする。
ファルコナー嬢がひとりになっていたのは、およそ十分。往復することを考えると、そう遠くまで行ってはいないだろう。
たしかファルコナー侯爵家の控え室は、ライヘンバッハ公爵家と同じく、会場からほど近い高位貴族の区画にあるはずだ。
わたしはそちらに向かって歩き出した。道すがら、なにか手がかりが掴めるかもしれない。
とはいえ、壁かけランプの淡い明かりだけでは、気を抜くとすぐに見落としてしまいそうだ。
控え室で借りた手燭を頼りに、目につくものをひとつずつ確かめていく。
廊下の途中では、王宮の使用人が真鍮の手すりを磨いていた。
磨き布のそばには小さな缶が置かれているが、作業をしている本人が付ききりなので、第三者が容易に触れられるとも思えない。
さらに進むと、窓辺には夜会の装飾として運びこまれたらしい鉢植えが並んでいた。
窓の外はすっかり暗く、並んだ鉢植えのあいだにも濃い影が落ちている。手燭を近づけると、背の低いヤシやシダ、厚みのある大きな葉を伸ばしたアスピディストラが順に浮かびあがった。
その中に、見慣れないひと鉢がある。
濃緑の葉のあいだから、桃色の葉が花びらのように垂れ、その下に小さな花とつぼみが房になっている。
なんという植物だろうかと覗きこむと、亜鉛製の名札に『メディニラ・マグニフィカ』と記してあった。
聞いたことのない名前だとまじまじ観察しているうち、手燭の光を反射してキラリとなにかが光った。
横から覗いてみると、鈍色をした亜鉛板の裏に、小さな金属板が重ねられている。
周りに人がいないことを確かめてから、そっと指先で引き抜いた。
出てきたのは、真鍮製の小さな札だった。
「これは……」
そこに刻まれた文字を見て、わたしは目を見開いた。




