十本目の不思議
針が足りない――それは、場の雰囲気を一変させるにはじゅうぶんな言葉だった。
緊張が走る中、空気をやぶったのはジェーンだった。
「ま、待ってください! まず、確認させてください」
長机に歩み寄り、グレイスの手元を覗きこむ。
「この裁縫箱は、どなたのものですか?」
「あの……わたしの、です」
おずおずと手を挙げたのはテレーズだった。
気が弱そうな彼女は、周囲から一斉に視線を向けられ、不安そうに胸元で手を組む。
「ファルナさん、もともと針はいくつ入っていましたか?」
「ええと……たしか、十本くらいだったかと」
「ほら!」
グレイスが声をあげ、手にした針台紙を示した。
「九本しかないわ。一本なくなってるじゃない!」
「そんな……」
テレーズの顔から、サッと血の気が引く。
「でも、わたし……いつも本数まで数えていたわけではなくて、はっきりとは……」
「だったら、これを見てよ」
グレイスは全員に見えるように、針台紙を高々と掲げた。
象牙色をした正方形の厚紙の中心には、雲形の文様を連ねた枠がある。その外側には、淡墨で白隼らしき図柄が描かれていた。
左辺と上辺には横顔が、右辺と下辺には九枚の大きな羽根を重ねた翼が、枠に半ば隠れるように覗いている。
なるほど、白隼を紋章に掲げるファルコナー家らしい意匠だ。
「この矢印みたいなやつ、一辺に十個あるでしょう?」
グレイスが枠の文様を指でなぞった。
「ここに針を合わせろっていう印なんじゃないの?」
「矢印……」
言われてみれば、そう見えなくもない。
雲は上部が少し尖っていた。その形は矢印にも、スペードの頭の部分にも見える。
等間隔に並ぶそれらが、針を置く目安だと言われれば、それなりに説得力があった。
「そんなはずは……」
テレーズの声が掠れた。
無理もない。なにしろ毒針の出どころを調査している真っ最中での紛失だ。
まして、テレーズはファルコナー家の侍女。被害者の身近な人間である彼女なら、毒針を仕込む好機なんていくらでもある。
「わ、わたしが落としてしまったから……」
今度はベッシーが青ざめる。
「箱を落としたときに、どこかへ飛んでしまったのかもしれません。わたしがもっと気をつけていれば……」
「落ち着いてください」
動揺する彼女を安心させるように、ジェーンが声をかけた。
「まだ、この室内に落ちている可能性があります。みんなで探してみましょう。ただし、見つけても決して触らず、その場でわたしを呼んでください」
そこから、使用人控え室をひっくり返すような捜索が始まった。
ジェーンが椅子の下を覗きこみ、女官は燭台を低く掲げて床を照らす。
わたしも配膳車を壁際へ寄せ、長机の下を覗きこむ。テレーズとベッシーは我先にと膝をつき、家具の隙間まで念入りに探していた。ほかの侍女たちも、それぞれ手近な場所を調べている。
ところが、いくら探しても針は見つからなかった。
十分、二十分と過ぎるうちに、室内の空気がだんだんと重苦しくなっていく。
「……少々、お待ちください」
不意に、年嵩の女官が声をあげた。
彼女は先ほど記録した紙を長机へ広げ、一枚ずつ見直している。
「こちらの裁縫箱ですが……針は、最初から九本だったようです」
「え?」
テレーズが顔を上げた。
「聴取の前に確認いたしましたが、その際に『縫い針九本』と記録しております」
「では、わたしが落としたせいでは……」
ベッシーが安堵しかけたところで、グレイスがすぐに口を挟んだ。
「ちょっと待って。九本なんて半端な数なはずないでしょう」
「ですが、記録には確かに――」
「数え間違えたか、その時点ですでに一本なくなっていたのに気づかなかっただけじゃないの?」
女官の表情が険しくなる。
「記録そのものを疑われるのですか」
「だって、台紙はどう見ても十本並べるようにできてるじゃない!」
グレイスが再び、雲形の文様を指した。
「あんたたち、毒針が誰のものなのか調べてるんじゃないの? だったら、その時に何本だったかなんて、なんの証明にもならないじゃない。もともと何本あったか調べないと、片手落ちじゃないの? あんたは欠けた針に気づかなかった、でもあたしは気がついた。――そういうことでしょ?」
たしかに、筋は通っている。
記録が正しければ、少なくともベッシーの過失の線は消えるだろう。だが、それ以前から一本欠けていた可能性までは否定できない。
テレーズもそれがわかるのだろう。反論できないまま、不安そうに唇を結んでいる。
だが、十本という根拠はテレーズの曖昧な記憶と、この文様だけだ。
本当に針が一本欠けているならば、毒針事件の有力な手がかりになる。逆に最初から九本だったなら、この疑惑は捜査を混乱させるだけでしかない。
……確かめておく価値はありそうだ。
「ワトスン巡査。少々、裁縫箱を拝見してもよろしいでしょうか?」
ジェーンは一瞬きょとんとしたものの、すぐに頷いた。
「……手を触れないなら、構いません」
「ありがとうございます」
長机には、裁縫箱の中身が並べられている。
小型の裁ち鋏と糸切り鋏、指貫に蜜蝋、色とりどりの糸巻きと替えボタン。その隣には、縫いかけの穴あき台紙と、それを覆う透明なフィルム。端には幅広の平ゴムも置かれていた。
「ほら、どう見ても十本あったはずでしょう?」
グレイスが針台紙の枠を指す。
「たしかに、この雲は三角形に近い形をしていますね」
「でしょう? だから、矢印なのよ」
「でも、同じ模様が四辺すべてにあります」
針台紙をどの向きに置いても、同じ形が並んでいる。
「これが針を並べる目印なら、どこを上にするのかわかりにくくありませんか?」
「それは……そうだけど」
グレイスが口をつぐむ。
少なくとも、この文様だけで十本と決めるのは無理がある。
では、ほかに本数を示すものはないだろうか。
改めて針台紙を見る。
表面には細い縦線の地紋が刷られているが、傷らしい傷がほとんどない。
端にあった平ゴムは、おそらく針を台紙ごと押さえて留めるためのものだろう。それなら、出し入れするたびに針先が擦れて、細かな傷くらい残りそうなものだ。
なぜ、こんなにきれいなのだろう。
ふと、隣の穴あき台紙に目がとまった。
……穴あき台紙に、保護フィルム?
「ワトスン巡査。その透明なフィルムを外していただけますか?」
「これですか?」
「ええ」
ジェーンが慎重にフィルムを外す。
薄いセルロイドの中央には、正方形の範囲に細かな縦線がびっしりと刷られていた。
穴あき台紙は、厚紙に開いた細かな穴へ糸を通して、そのまま刺繍するためのものだ。表面をこんなふうに覆っていては、肝心の穴が使えない。
針台紙の中央にも、よく似た地紋があった。
見比べてみると、大きさもほとんど同じだ。
台紙の四隅には小さな斜めの切れこみがあり、セルロイドの四隅はわずかに丸く整えられている。そこへ差しこむには、ちょうどよさそうだった。
「テレーズさん。この針台紙、もともと表面がつるつるしていませんでしたか?」
「え……?」
テレーズはしばらく考えこんだ。
「そういえば……針を戻すとき、少し滑るような感じがした気がします」
「ワトスン巡査。試しに、そのセルロイドを針台紙へ重ねてみていただけますか?」
ジェーンが四隅を切れこみへ差しこむ。
大きさも、中央の正方形の地紋もぴたりと重なった。
「どうやら、こちらの台紙を覆っていたもののようですね」
それなら、針台紙に傷が残っていないことにも説明がつく。
箱を落とした拍子に外れ、拾い集めたときに穴あき台紙と重なってしまったのだろう。
「……それで?」
グレイスが眉をひそめる。
「それが、針の数となんの関係があるの?」
たしかに、その通りだ。
セルロイドが針台紙を覆うものだったことはわかった。けれど、それだけでは針が九本だったのか、十本だったのかまではわからない。
もう一度、針台紙へ目を戻す。
枠に連なる雲形の文様を見ているうちに、以前見た青花磁器にもよく似た意匠があったことを思い出した。
「……如意雲頭紋」
「なんですか、それ?」
思わず口にすると、ジェーンが首を傾げた。
「大華国で使われる、雲をかたどった文様です」
「大華国?」
「ええ。ファルコナー侯爵家は、昔から東方と縁が深いでしょう」
かつて東方使節団で大きな成功を収めた家だ。今でも領内では東方との交易が盛んだと聞く。
ならば、枠だけでなく、針台紙そのものが大華国風の意匠なのではないか。
そう思い、改めて二羽の白隼を眺める。
「大華国の絵といえば、鳥と花を組み合わせた花鳥画も有名ですね」
そう思うと、右側に描かれた翼が気になった。
九枚の羽根はどれも幅広く、先端までなめらかな曲線を描いている。よく見れば、鳥の羽根というより花弁に近い。
反対側も、鳥の横顔ではなかった。
先の尖った卵形の葉が何枚も重なり、その隙間がちょうど目のように見えている。
「これ、白隼ではありません」
「じゃあ、なんだっていうのよ。ファルコナーといえば、白隼でしょ?」
「ええ。同時に、東方と深い関わりをもつ家でもある」
九枚の厚みのある白い花弁に、大ぶりで縁のなめらかな葉。
大華国風の意匠なら、思い当たる花がある。
「――玉蘭です」
「玉蘭……?」
周囲に怪訝そうな顔が並ぶ。
テレーズまで首を傾げているあたり、雇用主から与えられた東方趣味の道具を、意味もわからず使っていたのだろう。
しかし、すぐにハッとした顔を浮かべた。
「そういえば、以前に聞いたことがあります。蘭はファルコナー家にとって大切な花なので、使用人は主家に遠慮して、代わりに玉蘭をあしらうのだと……」
「だとすれば、向きが違いますね」
「向き?」
「玉蘭は天に向かって咲く花です。つまり……ワトスン巡査、台紙を九十度回していただけますか?」
ジェーンが言われたとおりにすると、白い花が上、葉が下になった。
「その向きのまま、もう一度セルロイドを重ねてください」
四隅を切れこみに差しこむ。
「あ……」
誰かが声を漏らした。
今度は、二枚の地紋を形作る細い線が、わずかに角度をずらしてほぼ同じ向きに重なっている。
すると、先ほどまではなかった太い縞が浮かびあがった。
九本――女官が記録していた針の数と一致していた。
「これが、針を並べる位置です」
「どうして、こんなものが……?」
「二枚の細かな線を少しずらして重ねると、もとの線とは別の大きな縞が見えることがあります。モアレという現象です」
単純な現象だが、なかなか気の利いた仕掛けだ。
「では、本当に最初から……」
「はい。針は一本もなくなっていません」
テレーズが大きく息を吐き、ベッシーもほっとしたように胸へ手を当てた。
「よかった……」
「でも、なんで九本なんて半端な数なのよ?」
グレイスが、まだ少し納得のいかない顔をしている。
「大華国では、九は縁起のいい数字なんですよ。『久』と同じ音で、長く続くことや末永い関係を表すとされます」
「末永い関係……?」
「これで繕ったものが長く使えるように、という願いかもしれません。あるいは、これを使う人たちが長く当家に仕えてくれるように、という意味なのかも」
あくまで推測だけれど、使用人用の裁縫道具にこれだけ凝った細工を施しているのだから、そう考えても不自然ではないだろう。
グレイスはしばらくむっつりした顔で九本の縞を眺めていたが、やがてテレーズへ向き直った。
「……疑って悪かったわね」
「え?」
「その……ごめんなさい」
言いにくそうに謝ってから、グレイスはジェーンへちらりと視線を向けた。
「疑われる人間の気持ちはわかるわ」
「いえ、わたしも十本くらいだったと思いこんでいましたから……」
テレーズは慌てて首を振ると、今度はこちらへ顔を向けた。
「ありがとうございました。もし、このまま一本なくなったことになっていたら……」
「いえ。疑いが晴れてよかったです」
「あの、お名前をお伺いしても?」
しまった、偽名までは考えていなかった。
そうだな……それならば、
「シェリー・バンチです」
「バンチさん。本当にありがとう」
テレーズは少し潤んだ瞳で、そっとわたしの手を取った。
それにしても、本来なら黒幕であるわたしが、ヒロインを差し置いて謎を解き、そのうえ感謝までされるとは。ずいぶん妙なことになったものだ。
とはいえ、結果的に情報は集まった。ファルコナー家の侍女と友好関係も築けたし、潜入調査としては上々だろう。
肝心のメイド服については聞けずじまいだったが、まあいい。いずれ隙を見て確かめるとしよう。
「……あの」
満足していたところで、後ろから声がかけられた。――ジェーンだ。
「はい?」
「失礼ですが、どこかでお会いしたことがありましたか?」
思わず身構えそうになる。
彼女の表情は疑うというより、ふしぎそうだった。
……しまった、少し目立ちすぎたか。
「いいえぇ。あたし、臨時侍女ですから。今夜配属されたばっかりですよ」
「……ですよね。すみません」
わたしは訛りを意識しながら、できるだけなんでもないように答えた。
それでごまかされてくれたらしい。ジェーンは自分でも妙なことを聞いたと思ったのか、少し照れたように笑った。
そのとき、控え室の扉が勢いよく開いた。
「テレーズ!」
駆けこんできたのは、青いリボンに白隼の家章留めをつけたファルコナー家の侍女だった。
「お嬢様のお怪我が悪くなっているの。新しい清潔な布と、お湯が必要だって」
「アリシア様が? ……わかりました。今、参ります」
「待ってください」
席を立とうとしたテレーズを、ジェーンが静かに制止する。
「申し訳ありませんが、まだ全員の確認が終わっていません。今はここで待っていてください」
「でも、お嬢様が……」
「それなら、わたしが行きます。ちょうど配膳室へ戻るところでしたから」
口を挟むと、ジェーンはほっとしたように頷いた。
「ええ、お願いします」
これ以上長居すると、本当に正体を疑われかねない。このあたりが潮時だろう。
しかも、行き先はファルコナー嬢のもとだ。こちらとしても悪くない。
毒針事件の被害者、アリシア・ファルコナー。
……彼女にもまた、確かめたいことは山ほどあるのだから。




