危険な斜面にて
午後、わたしたちはフォーマンが手配した貸馬車に乗りこみ、ケリンチ領と御料林の境界へ向かった。
町を離れると、道の両側には牧草地が広がり、その向こうには緑豊かな丘陵が連なっていた。やがて御料林と思しき森が見えはじめ、次第に道も細くなっていく。
しばらく進んだところで、馬車が止まった。
「この先でございます。道が荒れておりますので、ここからは歩いていただくほうがよろしいかと」
御者にうながされて降りると、少し先の斜面が大きく崩れ、茶色い地肌を露わにしていた。
崩れた土砂の中に、根を剥き出しにした大きな樫の木が横たわっている。
「まあ……! こんなに大きな木が倒れてしまったのね」
ヒルダが驚きの声を上げた。
「……根こそぎだな」
ロナルドの言うとおり、どうやら根もとの土ごと流されてしまったらしい。
近くでは数人の作業員が土砂を片づけていたが、崩れた斜面はまだ手つかずのようだった。
「お嬢様、足もとにお気をつけください。まだ地盤が緩んでいる恐れがあります」
フレデリックはそう言って先に進み、足場の状態を確かめはじめた。
「フレデリック、作業をしている方々に、少しお話を伺えないか聞いてくれる?」
「承知しました。お嬢様方はこちらでお待ちください」
念を押してから作業員たちの方へ向かい、やがて年配の男をひとり連れて戻ってきた。ケリンチ領の管理人で、地滑りの後始末も任されているという。
わたしたちが名乗ると、男は慌てて帽子を取り、深々と頭をさげた。
「これはこれは、モリアーティ公爵家とメイヌース伯爵家の皆さまでございましたか。せっかくお越しいただいたのに、ご覧のとおりの有様でして……」
「いいえ、突然お邪魔して申しわけありません。実は、こちらに御料林局の方が検分にいらしたと伺いまして」
「ええ、境界標が土砂と一緒に動いてしまいましてな。あちらの樫がどちらの土地に生えていたのか、確認する必要があったのです」
管理人が指さした先には、泥にまみれた石柱が転がっていた。
「あれが境界標なのね?」
「はい。元の場所からずいぶん流されてしまいまして。御料林局の方には、古い図面なども使ってお調べいただきました」
「その方のお名前は覚えていらっしゃいますか?」
「ええ、たしかエリオット様と」
「え? でも、あの方はカステルタラスのご担当だったはずでは……」
「ああ……。その、前の担当者がお亡くなりになりましたからな。エリオット様が引き継がれたのですよ」
なるほど、ならば臨時の派遣というわけでもないらしい。
「検分にはスティーヴンソン嬢も立ち会われたのでしょう? おふたりは以前からお知り合いだったのですか?」
「いえ、私がお引き合わせしたくらいですからな。おふたりとも、初めてお会いになるご様子でしたよ」
では、ふたりは本当に検分で初めて出会ったのか。
もっとも、初対面を装っていた可能性は残るが、その場にいたのは管理人や作業員くらいだ。その後、社交界で再会したころには親しげな態度を隠そうともしていなかったのだから、わざわざ彼らの前でだけ芝居をする必要があったとも思えない。
だとすると、あの紹介状はどう説明すればいいのだろう。
スティーヴンソン嬢は、面識のないエリオット令息がどこに泊まるかもわからないうちから、白鹿亭へ紹介状を送っていたということになる。
それとも、検分にくるであろう担当者の宿を、あらかじめ彼女のほうで手配していたということだろうか?
後者なら、そのことを本人にも伝えているだろうし、抜け目のない彼のことだ、顔合わせの際に礼のひとつも述べていそうなものだが……。
「それにしても、ずいぶん大きな地滑りですわね。このあたりは、そんなに崩れやすい場所なのですか?」
わたしが思案する横で、ヒルダがそう尋ねた。
管理人は困ったように眉をさげる。
「ええ、まあ……。もともと丈夫な斜面ではなかったのですが、少し前に土地改良の工事をいたしましてね。それがよくなかったのかもしれません」
「土地改良?」
「お嬢様のご指示で、水はけをよくするために斜面の草を掘り起こしたり、排水路を掘り直したりしたのです。ところが、そのあと雨が続きましてな」
管理人は崩れた斜面を見あげ、ため息をついた。
「わしも、あそこを掘り返しては雨で土が流れる恐れがあると申しあげたのですが……。お嬢様は、排水を改良すれば大丈夫だとお考えだったようで」
「まあ……。お怪我をなさった方はいらっしゃらなかったの?」
「ええ。工事が終わったあとのことでしたので、幸いなことに怪我人は出ませんでした」
「でも、せっかくの工事が台無しになってしまったのね」
「まったくです。数人の人足を雇って何日もかけましたし、お嬢様が日当をずいぶん弾んでくださったものですから……」
「相場よりも?」
「ええ、だいぶよいお給金でございました。ありがたいことですが、せっかく手をかけたのに、こんなことになってしまっては……」
管理人は残念そうに首を振った。
若い令嬢がよかれと思って進めた工事が、裏目に出てしまったというところだろうか。
ほかにも工事の日程や検分の様子についていくつか確かめたあと、わたしたちは管理人に礼を述べ、その場を離れることにした。
せっかくなので、わたしたちは周囲を少し散策することにした。
斜面の脇から続く小道を進み、やがて木立を抜けると、草地の向こうに青い海が広がっていた。
「まあ、こんなところから海が見えるのね!」
ヒルダが嬉しそうに声をあげる。
どうやら、このあたりは海に面した崖の上らしい。草地は海のほうへ緩やかに傾斜していて、少し先には紅白の花畑が見えた。
「あら。珍しいですわね、この時期に」
「ベニカノコソウかしら」
ヒルダが少し先へ歩き出した、そのときだった。
「――そちらへ行っては駄目!」
突然、女性の鋭い声が響いた。
フレデリックとフォーマンがとっさにわたしを庇って前へ出る。驚いて振り返ると、少し離れたところから、ひとりの女性がこちらへ駆けてきていた。
「そのまま、動かないでください!」
ヒルダは足を止め、戸惑いを顔に浮かべる。
女性は息を切らしながら近寄ってくると、彼女が立っている場所を見て血相を変えた。
「落ちついて、そこからゆっくり戻ってください。足もとにお気をつけて……!」
ただならぬ様子に、ロナルドがヒルダの手を取り、慎重に小道まで引き戻した。
女性はふたりが戻ったのを確かめると、ようやく大きく息を吐いた。
「よかった……。お怪我はありませんか?」
「え、ええ。大丈夫ですわ。でも、いったいなにが……?」
「この先は地盤が弱くなっているのです。崖が崩れる危険性があるので、立ち入らないようにしていたのですが……」
そう言われて目を向けると、草地の一角に短い杭が二本立ち、その間に縄が張られていた。
どうやら、わたしたちは小道をたどるうちに、その囲いを横から回りこむ形で近づいてしまったらしい。
「申しわけありません。立ち入りを禁じられているとは気づかなくて」
「いいえ。こちらこそ、もっとわかりやすくしておくべきでした。驚かせてしまって、ごめんなさい」
彼女はそう言って、まだ少し乱れている呼吸を整えた。
ほっそりとした体つきに、繊細な顔立ち。穏やかな暗色の瞳には見覚えがあった。
――先日の夜会で見かけた、アン・スティーヴンソン嬢だ。
「ひょっとして、スティーヴンソン嬢では?」
わたしが声をかけると、彼女もこちらを見て目を見開いた。
「まあ、モリアーティ公爵令嬢でいらしたのですね」
ヒルダが勢いよくこちらを見た。
相手が誰なのか気づいてか、慌ててロナルドの背後へ隠れてしまう。
「どうしてこのあたりに?」
「最近、地滑りがあったと伺いまして。現場を見せていただいたあと、少し散策していたところです」
「そうでしたの。あちらもまだ片づけが終わっておりませんし、足場の悪いところが多くて……」
スティーヴンソン嬢はそこで言葉を切り、先ほどヒルダが立っていた方へ目をやった。
「どうか、こちらの崖には近づかないでくださいませ。見た目より、ずっと危ない場所なのです」
「そんなに地盤が弱いのですか? 草もしっかり生えているように見えますが」
「一見そうですが、あれはレッドフェスクといって、根の大部分が地表近くにあるのです。大雨のあとには表土ごと滑り落ちることもあります。ほら、あちらの土が露出しているところをご覧になれますか?」
彼女が指さした崖の側面には、薄茶色の土の下に、灰色がかった層がのぞいていた。
「このあたりは、表面に砂混じりの土が少しあるだけで、すぐ下は粘土質なのです。上の土は水はけがいいのですが、粘土はなかなか水を通しません。ですから、雨が続くと境目に水がたまって、滑りやすくなってしまうのです」
「なるほど。では、草を掘り返したりすると危ないのでしょうね」
「ええ、草の根が土を押さえていますから。それに、排水路も通し方を誤れば、かえって水を集めてしまいますし……」
「ずいぶんお詳しいのですね」
「幼いころから慣れ親しんだ土地ですから。雨が続くと、どこから水が染み出してくるかも、自然と覚えてしまいましたわ」
「なるほど、とても勉強になりました。ありがとうございます」
礼を述べると、スティーヴンソン嬢は控えめに微笑んだ。
「いいえ。海をご覧になるのでしたら、もう少し林に近いところに、見晴らしのよい場所がございます。そちらのほうが安全ですわ」
彼女は小道の先を指し、丁寧に道順を教えてくれた。
「ご親切にありがとうございます。それでは、わたしたちはこれで失礼します」
別れの挨拶を交わすと、ロナルドの陰に隠れていたヒルダも、おずおずと顔を出した。
「……先ほどは、ありがとうございました」
「いいえ。お怪我がなくて、本当によかったです」
スティーヴンソン嬢が優しく微笑みかけると、ヒルダは小さく頭をさげ、また兄の背後へ引っこんでしまった。
わたしたちは教えられた小道へ向かい、木立の中へ入った。
「……なんだか、気まずかったですわ」
しばらくして、ヒルダがぽつりと言った。
「エディス姉さまのことを考えると、どうしても……。でも、助けていただいたのに、あんな態度では失礼でしたわよね」
「……お礼は言えていたよ」
ロナルドが静かに妹をなぐさめた。
「それにしても、スティーヴンソン嬢はずいぶんと博識な人なのね。ああいう方だからこそ、エリオット様も惹かれたのかしら……」
「でも、だからこそ気になるわ。あれほど土地の危険性をよく理解している方が、管理人の忠告を無視して工事を強行するものかしら」
「たしかに妙ですわね。なにか事情があったのかしら」
ヒルダは少し考えこんでから、困ったように眉を寄せた。
「なんだか、こちらへ来てから妙なことばかりですわね。白鹿亭を紹介したのはエディス姉さまではなかったし、エリオット様のご担当も、わたしの認識とは違いましたし……」
そう言って、納得しかねる様子でため息をつく。
わたしも同じ気持ちだった。調べたことが無駄だったわけではないし、エリオット令息がケリンチを訪れた経緯も、以前よりずっと詳しくわかった。
それなのに、確かめれば確かめるほど、初めに聞いていた話との辻褄が合わなくなっていく。
どうにも、すっきりしない調査結果だった。




