緋色の令嬢
思いがけず図星を突かれ、わずかばかり調子を狂わされた気分だった。
「……なぜ、そう思われたのですか?」
「その帳面です。同じ長さの線が何本も引かれている。一本が、参列者ひとりあたりの持ち時間を表していますね?」
「ええ、そうですが……」
「二本目の線は、一本目が終わるより前から始まっている。三本目も同様に。前の参列者が神前に杯を献じている間に、次の人間はもうあなたの前でワインを受ける――その流れを表したのでしょう」
少し驚いた。
あのメモは自分さえ意味がわかればいいと、最低限の線しか引いていなかったからだ。
「参加者は千五百人近く。盟杯は、およそ三時間。単純に割れば、列は平均して七秒あまりにひとりの割合で進んでいたことになる」
ジェーンが帳面を覗きこんだ。
「なるほど……いちいち前の人が終わるのを待っていたら、ものすごい時間がかかりますよね」
「そうだ。だから彼女は、ひとりぶんの時間をそのまま人数に掛けたわけじゃない。前の人が終わる前に次が始まる、重なった流れとして考えた」
図の意味を説明されれば単純なものだ。
それを、なんの注釈もない状態から読み取ったことのほうが興味深い。
「そして、メルモット嬢について覚えていたのは時刻ではなく順番……いえ、そこまで正確に数えていたとは思えないので、列のどのあたりにいたか、でしょうか」
「そうですね」
「全体の半分よりほんの少し後ろ、六割には届かないあたりに印がある。およそ八百番台といったところですか。七秒あまりにひとりなら、そこまで進むのにおよそ百分。盟杯が始まったのは九時半ですから、十一時十分ごろと解が出せる」
「どうりで、時計を見ていないとおっしゃる割には、ずいぶん細かい時刻をお答えになるのだな、と……」
ジェーンが感心したようにつぶやく。
「詳しく覚えていたのではなく、計算によって導き出した。こういう考え方は、その場の思いつきではないでしょう。普段から、物事を数や図に置き換えて考えているのではありませんか」
さすがはホームズ。
前世知識でわかってはいたが、この観察力を実際に向けられると、なかなか厄介だな。
「御名答です。数学は、かなり好きですよ」
だが、やられっぱなしというのも性に合わない。
「では、こちらからもひとつ。警部補は、ここへいらっしゃる少し前まで、メルモット嬢の毒物検査をしていましたね」
ホームズの眉がわずかに持ちあがった。
「……なぜ、そう思われますか?」
「右のカフスに、青黒い点がひとつ。そこは糊の利いた部分ですから、ヨウ素が付着して澱粉と反応したのでしょう。指先にも薄い褐色の染みが残っています」
さらに、彼の衣服からはかすかにエーテルの匂いがする。
毒物検査をするなら、まず疑うのは既知の毒だ。この時代の検査には、内容物から毒になりそうな成分を溶かし、エーテルなどを使って分離したあと、試薬を加えて反応を見る方法がある。
「エーテルで成分を分けたあと、ヨウ素系の試薬を使ったのではありませんか。おそらく、植物由来の毒――アルカロイドを調べるために」
「ええ、その通りです」
「ですが、毒の種類はまだ特定されていない。つまり、既知のアルカロイドらしい反応が得られなかった。違いますか?」
今度こそ、ホームズがわずかに目を見張った。
「ええ。少なくとも、私が調べた範囲では」
「では、もうひとつ。肩に挟んで弾く、擦弦楽器もなさいますね」
「そんなことまでわかるんですか?」
ジェーンが驚いた声をあげた。
「左手の指先に、弦を繰り返し押さえたようなタコがあります。それに、顎の左下にも擦れた跡がある。肩と顎で楽器を支え、左手で弦を押さえているのでしょう。……おそらく、ヴァイオリンでしょうか」
「なぜ、そう思ったのですか?」
「ヴィオラなど、同じように構える楽器もあります。ただ、ヴィオラはヴァイオリンより大きく重いぶん、顎や肩への負担も強くなりやすい。一方、警部補に残る痕はさほどくっきりしていない。ですから、ヴァイオリンの可能性を高く見積もったのです」
「すごい。たしかに、ホームズ警部補はヴァイオリンをお弾きになります」
「そうですか。痕の出方には弾き方や体質でも差があるでしょうから、推測があたってよかったです」
「他にも、なにかわかりますか?」
ホームズが、どこか試すように尋ねてきた。
外見は紳士的な笑みをたたえているが、その瞳に好奇心が隠せていない。
「そうですね……格闘技もなさるのでは? それも、一種類ではない」
「ほう」
「まず、拳です。人差し指と中指の付け根に、古いものと新しい傷が重なっている。偶然ぶつけたにしては、同じ場所に集中しすぎています。拳を使う打撃を繰り返しているのでしょう。拳闘あたりが考えやすいですね」
ホームズは否定も肯定もせず、続きを待っている。
「ですが、指の関節にはそれとは違う擦れがあります。それも両手に。何かを強く掴む動作を繰り返している。相手の衣服を掴んで、投げたり崩したりするような――柔術に近い技も習っていらっしゃるのでは?」
「なるほど」
「それから、手のひらにも別の痕がありますね。棒状のものを手全体で握って、何度も振るったような硬い箇所がある。それも左右の手に」
「棒状のもの、ですか?」
「ええ。片手だけなら、仕事や日常の道具とも考えられます。でも両手に似た痕があるなら、持ち手を替えながら扱う訓練をしている可能性が高い。剣よりは、杖のようなものではないでしょうか」
拳による打撃。
相手を掴み、崩す技術。
そして、左右の手で杖を扱う訓練。
「拳闘に、柔術、それから杖術……。ひょっとして、バリツなのでは?」
それまで静かに聞いていたホームズの目が、わずかに細くなる。
「なぜ、そう思われたのです?」
「拳闘と柔術、それに杖術。三つを別々に習っている可能性もありますが、それらを組み合わせて使う格闘術として、バリツが思い浮かびました」
「お見事です。どうやら、あなたは並の令嬢とは格が違うようだ」
まあ、ホームズがヴァイオリンとバリツを嗜んでいるのは、正典も『霧ロマ』も変わらない。最初から答えを知っているのだから、あとはそれらしい観察結果を並べれば済む。
ようするにイカサマである。
「では――」
そのまま彼らが次の質問へ移ろうとした、その時だった。
廊下の向こうが、にわかに騒がしくなったのは。
「お待ちください!」
「離してくださいませ! わたくしは、お嬢様にお会いしなければなりません!」
若い女の声だ。
聞き覚えがある――というより、聞き間違えるはずがない。
扉へ目を向けると、外でなにかがぶつかる音がした。
「ここを通すわけにはいかない」
「ですが、急を要するのです!」
「許可のない者は――」
「お嬢様は犯人ではありません!」
大声とともに、扉が開いた。
衛兵ふたりに両腕をつかまれながら、ひとりの侍女が転がりこんでくる。
細身の体を包む濃紺の侍女服。
くすんだ亜麻色の髪はほどけかけ、常ならば乱れひとつない襟元も大きく崩れていた。
「ベンジャミナ」
わたしが名を呼ぶと、その侍女は顔を上げた。
「お嬢様!」
ベンジャミナ。
わたしの専属侍女――ということになっている、少年である。
本来は「フォーマン・ウェルズ」という名の従者なのだが、侍女に扮しているときだけ「ベンジャミナ・フォーマン」と名乗っている。万一、誤って「フォーマン」と呼んでしまっても、「姓です」と押し通せる仕組みだ。
できるだけそばに置くため、こうした公の場では侍女に変装してもらっている。
いつもなら、どれほど急いでも身なりを崩すような男ではない。
その彼がこの有様なのだから、よほど必死に駆け回ってきたのだろう。
ジェーンは突然の乱入者に目を白黒させている。
ホームズもまた、フォーマンへ静かな視線を向けていた。
「何者ですか!」
我に返ったジェーンが立ち上がった。
「ライヘンバッハ公爵令嬢付きの侍女、ベンジャミナと申します!」
衛兵に押さえられたまま、フォーマンは必死に身を乗り出す。
「お嬢様は犯人ではありません!」
「それを判断するのは警察の役目です。まずは落ち着いて――」
「証言があります!」
その一言で、室内の空気が変わった。
ホームズがフォーマンを見据える。
「衛兵、彼女を放してください」
「ですが――」
「逃げるつもりなら、わざわざここへきたりはしないでしょう」
衛兵たちは顔を見合わせた後、しぶしぶ手を離した。
自由になったフォーマンは乱れた襟を正すと、わたしのそばへ駆け寄ろうとする。
しかし、その前へジェーンが立ちはだかった。
「証言とは、なんですか?」
「王宮の侍女たちに話を聞いてまいりました」
呼吸はまだ乱れている。
それでも、言葉は明瞭だった。
「ご遺体が発見される前、メルモット子爵家の控え室がある方向から、若い男が走ってくる姿を見た者がおります」
「若い男?」
ジェーンの目が見開かれる。
「はい。廊下の角で侍女とぶつかりそうになり、そのまま大広間のほうへ走り去ったそうです」
「顔は見たのですか?」
「いいえ。すれ違ったのは一瞬で、はっきりとは。ただ、礼服姿の若い貴族だったと」
「いつのことです?」
「ご遺体が発見される、少し前です」
ジェーンは慌てて書類をめくった。
「その侍女の名は?」
「王宮付きのリリー・ベルです。ほかにも、同じころに廊下を走る足音を聞いた者がふたりおります」
「三人とも、まだ王宮内に?」
「はい」
ホームズが立ち上がった。
「ワトスン。すぐに三人から個別に話を聞く」
「はい」
「目撃時刻と男の服装、背格好、走り去った方向を確認しろ。互いに口裏を合わせる時間を与えないように」
「わかりました」
ジェーンが書類を抱え、扉へ向かう。
どうやら、わたしへの事情聴取はいったんここまでらしい。
この部屋へ連れてこられてから、一時間半近く。
長く止めていた息を、ようやく吐き出せたような気がした。
人生という無色の糸の束には、時として殺人という緋色の糸が紛れこむらしい。
そして今、その一本がわたしに絡みついていた。
運命とは、まったく数奇なものだ。
本来ならば、わたしのような悪役が解きほぐすはずもないその糸を、ほどなく白日のもとへさらす必要に迫られるのだから。




