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モリアーティ公爵令嬢の終局的推理  作者: 国枝桜子
第一章 王宮毒殺事件

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緋色の令嬢

 思いがけず図星を突かれ、わずかばかり調子を狂わされた気分だった。


「……なぜ、そう思われたのですか?」

「その帳面です。同じ長さの線が何本も引かれている。一本が、参列者ひとりあたりの持ち時間を表していますね?」

「ええ、そうですが……」

「二本目の線は、一本目が終わるより前から始まっている。三本目も同様に。前の参列者が神前に杯を献じている間に、次の人間はもうあなたの前でワインを受ける――その流れを表したのでしょう」


 少し驚いた。

 あのメモは自分さえ意味がわかればいいと、最低限の線しか引いていなかったからだ。


「参加者は千五百人近く。盟杯は、およそ三時間。単純に割れば、列は平均して七秒あまりにひとりの割合で進んでいたことになる」


 ジェーンが帳面を覗きこんだ。


「なるほど……いちいち前の人が終わるのを待っていたら、ものすごい時間がかかりますよね」

「そうだ。だから彼女は、ひとりぶんの時間をそのまま人数に掛けたわけじゃない。前の人が終わる前に次が始まる、重なった流れとして考えた」


 図の意味を説明されれば単純なものだ。

 それを、なんの注釈もない状態から読み取ったことのほうが興味深い。


「そして、メルモット嬢について覚えていたのは時刻ではなく順番……いえ、そこまで正確に数えていたとは思えないので、列のどのあたりにいたか、でしょうか」

「そうですね」

「全体の半分よりほんの少し後ろ、六割には届かないあたりに印がある。およそ八百番台といったところですか。七秒あまりにひとりなら、そこまで進むのにおよそ百分。盟杯が始まったのは九時半ですから、十一時十分ごろと解が出せる」

「どうりで、時計を見ていないとおっしゃる割には、ずいぶん細かい時刻をお答えになるのだな、と……」


 ジェーンが感心したようにつぶやく。


「詳しく覚えていたのではなく、計算によって導き出した。こういう考え方は、その場の思いつきではないでしょう。普段から、物事を数や図に置き換えて考えているのではありませんか」


 さすがはホームズ。

 前世知識でわかってはいたが、この観察力を実際に向けられると、なかなか厄介だな。


「御名答です。数学は、かなり好きですよ」


 だが、やられっぱなしというのも性に合わない。


「では、こちらからもひとつ。警部補は、ここへいらっしゃる少し前まで、メルモット嬢の毒物検査をしていましたね」


 ホームズの眉がわずかに持ちあがった。


「……なぜ、そう思われますか?」

「右のカフスに、青黒い点がひとつ。そこは糊の利いた部分ですから、ヨウ素が付着して澱粉と反応したのでしょう。指先にも薄い褐色の染みが残っています」


 さらに、彼の衣服からはかすかにエーテルの匂いがする。

 毒物検査をするなら、まず疑うのは既知の毒だ。この時代の検査には、内容物から毒になりそうな成分を溶かし、エーテルなどを使って分離したあと、試薬を加えて反応を見る方法がある。


「エーテルで成分を分けたあと、ヨウ素系の試薬を使ったのではありませんか。おそらく、植物由来の毒――アルカロイドを調べるために」

「ええ、その通りです」

「ですが、毒の種類はまだ特定されていない。つまり、既知のアルカロイドらしい反応が得られなかった。違いますか?」


 今度こそ、ホームズがわずかに目を見張った。


「ええ。少なくとも、私が調べた範囲では」

「では、もうひとつ。肩に挟んで弾く、擦弦楽器もなさいますね」

「そんなことまでわかるんですか?」


 ジェーンが驚いた声をあげた。


「左手の指先に、弦を繰り返し押さえたようなタコがあります。それに、顎の左下にも擦れた跡がある。肩と顎で楽器を支え、左手で弦を押さえているのでしょう。……おそらく、ヴァイオリンでしょうか」

「なぜ、そう思ったのですか?」

「ヴィオラなど、同じように構える楽器もあります。ただ、ヴィオラはヴァイオリンより大きく重いぶん、顎や肩への負担も強くなりやすい。一方、警部補に残る痕はさほどくっきりしていない。ですから、ヴァイオリンの可能性を高く見積もったのです」

「すごい。たしかに、ホームズ警部補はヴァイオリンをお弾きになります」

「そうですか。痕の出方には弾き方や体質でも差があるでしょうから、推測があたってよかったです」

「他にも、なにかわかりますか?」


 ホームズが、どこか試すように尋ねてきた。

 外見は紳士的な笑みをたたえているが、その瞳に好奇心が隠せていない。


「そうですね……格闘技もなさるのでは? それも、一種類ではない」

「ほう」

「まず、拳です。人差し指と中指の付け根に、古いものと新しい傷が重なっている。偶然ぶつけたにしては、同じ場所に集中しすぎています。拳を使う打撃を繰り返しているのでしょう。拳闘あたりが考えやすいですね」


 ホームズは否定も肯定もせず、続きを待っている。


「ですが、指の関節にはそれとは違う擦れがあります。それも両手に。何かを強く掴む動作を繰り返している。相手の衣服を掴んで、投げたり崩したりするような――柔術に近い技も習っていらっしゃるのでは?」

「なるほど」

「それから、手のひらにも別の痕がありますね。棒状のものを手全体で握って、何度も振るったような硬い箇所がある。それも左右の手に」

「棒状のもの、ですか?」

「ええ。片手だけなら、仕事や日常の道具とも考えられます。でも両手に似た痕があるなら、持ち手を替えながら扱う訓練をしている可能性が高い。剣よりは、杖のようなものではないでしょうか」


 拳による打撃。

 相手を掴み、崩す技術。

 そして、左右の手で杖を扱う訓練。


「拳闘に、柔術、それから杖術……。ひょっとして、バリツなのでは?」


 それまで静かに聞いていたホームズの目が、わずかに細くなる。


「なぜ、そう思われたのです?」

「拳闘と柔術、それに杖術。三つを別々に習っている可能性もありますが、それらを組み合わせて使う格闘術として、バリツが思い浮かびました」

「お見事です。どうやら、あなたは並の令嬢とは格が違うようだ」


 まあ、ホームズがヴァイオリンとバリツを嗜んでいるのは、正典も『霧ロマ』も変わらない。最初から答えを知っているのだから、あとはそれらしい観察結果を並べれば済む。

 ようするにイカサマである。


「では――」


 そのまま彼らが次の質問へ移ろうとした、その時だった。

 廊下の向こうが、にわかに騒がしくなったのは。


「お待ちください!」

「離してくださいませ! わたくしは、お嬢様にお会いしなければなりません!」


 若い女の声だ。

 聞き覚えがある――というより、聞き間違えるはずがない。

 扉へ目を向けると、外でなにかがぶつかる音がした。


「ここを通すわけにはいかない」

「ですが、急を要するのです!」

「許可のない者は――」

「お嬢様は犯人ではありません!」


 大声とともに、扉が開いた。

 衛兵ふたりに両腕をつかまれながら、ひとりの侍女が転がりこんでくる。


 細身の体を包む濃紺の侍女服。

 くすんだ亜麻色の髪はほどけかけ、常ならば乱れひとつない襟元も大きく崩れていた。


「ベンジャミナ」


 わたしが名を呼ぶと、その侍女は顔を上げた。


「お嬢様!」


 ベンジャミナ。

 わたしの専属侍女――ということになっている、少年である。

 本来は「フォーマン・ウェルズ」という名の従者なのだが、侍女に扮(ふん)しているときだけ「ベンジャミナ・フォーマン」と名乗っている。万一、誤って「フォーマン」と呼んでしまっても、「姓です」と押し通せる仕組みだ。

 できるだけそばに置くため、こうした公の場では侍女に変装してもらっている。


 いつもなら、どれほど急いでも身なりを崩すような男ではない。

 その彼がこの有様なのだから、よほど必死に駆け回ってきたのだろう。


 ジェーンは突然の乱入者に目を白黒させている。

 ホームズもまた、フォーマンへ静かな視線を向けていた。


「何者ですか!」


 我に返ったジェーンが立ち上がった。


「ライヘンバッハ公爵令嬢付きの侍女、ベンジャミナと申します!」


 衛兵に押さえられたまま、フォーマンは必死に身を乗り出す。


「お嬢様は犯人ではありません!」

「それを判断するのは警察の役目です。まずは落ち着いて――」

「証言があります!」


 その一言で、室内の空気が変わった。


 ホームズがフォーマンを見据える。


「衛兵、彼女を放してください」

「ですが――」

「逃げるつもりなら、わざわざここへきたりはしないでしょう」


 衛兵たちは顔を見合わせた後、しぶしぶ手を離した。


 自由になったフォーマンは乱れた襟を正すと、わたしのそばへ駆け寄ろうとする。

 しかし、その前へジェーンが立ちはだかった。


「証言とは、なんですか?」

「王宮の侍女たちに話を聞いてまいりました」


 呼吸はまだ乱れている。

 それでも、言葉は明瞭(めいりょう)だった。


「ご遺体が発見される前、メルモット子爵家の控え室がある方向から、若い男が走ってくる姿を見た者がおります」

「若い男?」


 ジェーンの目が見開かれる。


「はい。廊下の角で侍女とぶつかりそうになり、そのまま大広間のほうへ走り去ったそうです」

「顔は見たのですか?」

「いいえ。すれ違ったのは一瞬で、はっきりとは。ただ、礼服姿の若い貴族だったと」

「いつのことです?」

「ご遺体が発見される、少し前です」


 ジェーンは慌てて書類をめくった。


「その侍女の名は?」

「王宮付きのリリー・ベルです。ほかにも、同じころに廊下を走る足音を聞いた者がふたりおります」

「三人とも、まだ王宮内に?」

「はい」


 ホームズが立ち上がった。


「ワトスン。すぐに三人から個別に話を聞く」

「はい」

「目撃時刻と男の服装、背格好、走り去った方向を確認しろ。互いに口裏を合わせる時間を与えないように」

「わかりました」


 ジェーンが書類を抱え、扉へ向かう。

 どうやら、わたしへの事情聴取はいったんここまでらしい。

 この部屋へ連れてこられてから、一時間半近く。

 長く止めていた息を、ようやく吐き出せたような気がした。


 人生という無色の糸の束には、時として殺人という緋色の糸が紛れこむらしい。

 そして今、その一本がわたしに絡みついていた。


 運命とは、まったく数奇なものだ。


 本来ならば、わたしのような悪役が解きほぐすはずもないその糸を、ほどなく白日のもとへさらす必要に迫られるのだから。


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