とりすました容疑者
王宮の一室へ連れてこられてから、一時間近くが過ぎていた。
扉に鍵はかけられていない。
けれど、外にはふたりの衛兵が立っており、退室を求めても「今しばらくお待ちください」と繰り返すばかりだった。実質的な軟禁である。
なぜ、こんなことになったのか。
わたしは少しでも現状を把握しようと、これまでの経緯を頭の中でたどっていた。
ミステリカ王国では、毎年九月二十九日に『献上式』と呼ばれる行事がある。
領地を持つ貴族たちが、その土地の特産品を王家へ献上する行事だ。
今日のわたしは、それに参加していた。
ライヘンバッハ領から納めるのは、赤ワイン。
我が領はぶどうの名産地。なかでもライヘンバッハ公爵家直営のぶどう園で造られるライヘンバッハ・リザーヴは、王室にも納められる最高級品である。
献上を終えれば、あとは王宮主催のパーティを楽しむだけのはずだった。
とつぜん会場に現れた王太子が、わたしの拘束を宣言するまでは。
あの口ぶりからして、どうやらマリー・メルモット子爵令嬢が亡くなったらしい。
それも、おそらく殺人だ。
メルモット家は、金融と投機で一財を築いた新興富裕層である。
その娘であるマリーもまた、父親が築いた富をそのまま人の姿にしたような、華やかな娘であったと記憶している。
今日もひと言ふた言ほど会話を交わしたが、身に覚えといえばそれくらいだ。
判断材料が足りない。
メルモット嬢は、いつ、どこで、どのように亡くなったのか。なぜ、わたしが疑われているのか。
肝心なことは、なにひとつ聞かされていない。
殿下が衆目の前でわたしを名指しした以上、メルモット嬢の死とわたしを結びつけるなにかが見つかったのだろう。
それがなにかはわからないが、厄介な状況でないことを祈るしかない。
その時、廊下から足音が聞こえてきた。どうやらふたりぶんのようだ。
扉の前で止まり、衛兵と言葉を交わしたかと思うと、ほどなくしてドアが開いた。
先に入ってきたのは、書類を抱えた若い女性だった。
歳のころは、二十を少しすぎたあたりだろうか。茶色い癖毛を短く切り、緊張を隠すように背筋を伸ばしている。
その斜め後ろには、さらりとした黒髪の青年が続いた。
女性よりはいくらか年上に見える。二十代半ばほどだろう。
端整な顔立ちだが、表情は読めない。入室した瞬間から、こちらを静かに観察している気配があった。
二次元の挿し絵でしか見たことがないが、間違えるはずがない。
『霧都事件ロマネスク』の主人公ジェーン・M・ワトスン。
そして、メインヒーローのエルロック・ホームズだ。
まさか彼と初めて言葉を交わすのが、殺人容疑の事情聴取になるとは思わなかったけれど。
女性警官――ジェーンが、わずかに息を整えてから口を開いた。
「王都警察のジェーン・ワトスン巡査です。こちらは、エルロック・ホームズ警部補」
ホームズはていねいに一礼する。
「長らくお待たせして申しわけありません、ライヘンバッハ公爵令嬢」
声も態度も穏やかだった。
ただし、そのアイスグレーの瞳だけは、わたしの表情も、姿勢も、指先の動きさえ見落とすまいとしている。
「マリー・メルモット子爵令嬢の件について、いくつかお話をうかがいます」
「その前に、ひとつよろしいでしょうか」
わたしが話をさえぎると、ふたりの視線がこちらへ突き刺さった。
「……どうぞ」
ジェーンが怪訝そうに促す。
「まず、なにが起きているのかご説明いただけますか?」
「え?」
「クラウディオ殿下からは、メルモット子爵令嬢を殺害した容疑があるとしか聞かされておりません。事情聴取には応じますが、わたくしがなにを根拠に疑われているのかも知らないままでは、正確にお答えできませんので」
「それは……」
ジェーンが困ったようにホームズを見た。
捜査中の情報を、容疑者へどこまで伝えてよいのか迷っているらしい。
「発見場所と、容疑をかけるに至った経緯は説明してかまわない」
ホームズが答えた。
「ただし、確認されている事実にかぎるように」
「はい」
「ありがとうございます。メモを取っても?」
「どうぞ」
スカートの内側から小さな帳面と繰出鉛筆を取り出す。
ジェーンは表情を引き締め、あらためてわたしへ向き直った。
「マリー・メルモット子爵令嬢は、メルモット家のために用意されていた控え室で発見されました。すでに意識はなく、駆けつけた侍医によって死亡が確認されています」
そこまでは、クラウディオ殿下の言葉から予想できる。
「死因は?」
「まだ確定していません。ただ、胃の内容物を調べた簡易検査では、毒物反応が出ています」
「すでに、毒の種類まで特定されているのでしょうか」
「いえ、そちらはまだです」
「ではなぜ、わたしが疑われているのですか?」
ジェーンは膝の上の書類へ目を落とした。
「メルモット嬢の胃の内容物から、毒物とライヘンバッハ・リザーヴが検出されたためです」
「ワトスン」
すぐにホームズの声が飛んだ。
ジェーンの肩がわずかに跳ねる。
「確認されたのは、毒物反応と赤ワインだ。銘柄まで確定したわけではない」
「……失礼しました」
ジェーンは頬を赤くし、書類へ訂正を書きこんだ。
「ただ、会場で振るまわれた赤ワインは、ライヘンバッハ公爵家から献上されたライヘンバッハ・リザーヴだけです」
「つまり、ワインそのものに毒が入っていたと?」
「いえ、その可能性は低いと考えられています」
ジェーンは、今度こそ言葉を選びながら答えた。
「献上品は王宮へ搬入された時点で、封蝋と瓶番号を確認されています。その後も専用の保管室で管理され、開栓は王宮の係官が会場でおこないました」
「ええ、そのような手筈になっていると聞き及んでおります」
「同じ瓶のワインを口にした方々に、異常は見られておりません」
なるほど。瓶そのものに毒が入っていたならば、メルモット嬢以外にも被害が出ているはずだ。
誰にも異常がない以上、警察は毒がメルモット嬢の杯へ個別に混入されたと考えたのだろう。
「メルモット嬢の杯へ毒を入れる機会が、わたくしにあった。警察はそうお考えなのですね」
「……あなたが、メルモット嬢へワインを手渡したという証言があります」
「でしょうね。本日の献醴の儀では、わたくしが献酌役でしたから」
「ケンレイの儀……?」
「盟杯のことだ」
すかさずホームズが説明する。
「かつて建国戦争の最中、敵国の将軍は講和の条件として、我が国で収穫されたぶどうのすべてを差し出すよう要求した。
しかし、初代国王はこれを拒み、神に誓った。
『この戦いに勝利したならば、次の収穫から最初に醸したぶどう酒を、神々へ捧げましょう』と。
神の加護を受けて戦に勝利した王は、約束どおり最初の赤ワインを奉納した。それが、献醴の儀の始まりだ」
「それって、大地返しのことですか?」
「そうだ。『献醴の儀』は宗教上の正式名称で、宮廷では『盟杯の儀』と呼ばれている」
そして、政治の場では単に『盟杯』と呼ばれることもある。
一般庶民にとっては『大地返し』であり、農村部では『土飲ませ』だ。
神々へ捧げるのは、この赤ワインのみ。
盟杯が終われば、今度は各家が領地の特産品を王家へ献上していく。
だからこそ、最初におこなわれる盟杯は特別なのだ。その献酌役を務める我が家が、重く見られるのも当然だった。
「なぜ、公爵家のご令嬢であるあなたが、手ずからワインを振るまったのですか? それは給仕の役目では?」
貴族社会に詳しくないジェーンの立場を考えれば、もっともな疑問だ。
わたしにとっては当たり前のことだから、かえって新鮮に感じられた。
「献上家を代表して、その家の者が参列者へワインを注ぐことになっているのです」
「では、本来はライヘンバッハ公爵閣下が?」
「正式な代表は父です。ただし、十八歳以上の未婚の令嬢がいれば、優先して献酌役を務めるのが習わしとなっております。わたくしも今年、十八歳になりましたので」
「なるほど……」
ジェーンは納得したようにうなずき、手元の書類にペンを走らせた。
「ライヘンバッハ・クラレットは、私も愛飲しております」
不意に、ホームズが口を開く。
「あれはよい酒ですね」
「ありがとうございます。領内では、リザーヴよりもクラレットのほうが広く親しまれております」
「日々の食卓に置くには、あの軽さがちょうどよい。香りも強すぎず、料理の味を邪魔しません」
「ずいぶんお詳しいのですね」
「気に入ったものについては、多少調べる性分でして」
そういえば、『霧ロマ』でも彼はたびたびクラレットを口にしていた。
トゥルーエンドでは、モリアーティ家の没落で手に入りにくくなったことを、珍しく残念がっていた覚えがある。
「そんなにお好きなんですね……」
ジェーンがじっと彼を見る。
「さすがに勤務中は飲まないよ、ワトスン」
「まだなにも言ってません」
「顔に書いてあったからね」
まあ、『霧ロマ』のエルロックは、正典のシャーロックよりいくぶんか品行方正だ。勤務中の飲酒もしなければ、コカインに手を出すこともないだろう。
ホームズは小さく咳払いをすると、あらためてこちらへ視線を戻した。
「そのドレスも、クラレットを意識したものですか?」
「ええ。本日は我が領のワインを献上する日ですから」
「献上品とよく調和した、見事な装いです。もっとも、クラレットよりはいくらか華やかですが」
「薔薇のぶんでしょうね」
「なるほど」
事情聴取にしては、ずいぶん和やかな話題だった。
おそらく、殺人容疑をかけられた令嬢の緊張をほぐそうとしているのだろう。
もっとも、わたしはさほど緊張していない。
困惑はしているけれど。
「クラレットと、本日のリザーヴは別のものなのですか?」
ジェーンが興味を引かれたように尋ねてきた。
「ええ。クラレットは比較的若いうちから楽しめる、軽い口当たりのワインです。対してリザーヴは、出来のよい年のぶどうだけを選び、長く熟成させたものになります」
「では、ずいぶん貴重なものなのですね」
「生産できない年もありますから。本日お出ししたものも、献醴の儀のために確保していたひと樽です」
「それを、参列者全員に?」
ジェーンが目を丸くする。
「全員といっても、盟杯へ参加する方だけです。それに、ひとりに注ぐ量はわずかなものですから」
「それでも、かなりの人数ですよね」
「ええ。千五百人近くおりますから」
「そんなに……。それだけの方々にワインを注ぐとなると、ずいぶん時間がかかったのでは?」
「九時半ごろに始まって、終わったのが十二時半ごろですから、三時間ほどですね」
「九時半から十二時半……?」
わずかに間が空いて、困惑したような声色が返ってきた。
「ひょっとして、午後ではなく午前中の? 夜会にしては、ずいぶんと早いのでは?」
「いえ、献上式の本番は神々への奉納なんですよ。夜会はその慰労です。収穫祭だって、昼に豊穣神へ感謝を捧げて、夜に宴を開くでしょう?」
「ああ、なるほど」
ジェーンは納得したようにうなずいた。
「では、その盟杯の流れについて、もう少し詳しく教えていただけますか」
今度はホームズが口を開いた。
「参列者がワインを受け取ってから杯を返すまで、どのような手順を踏んだのでしょう」
「まず参列者は、給仕が差し出す銀盆から、空の杯をひとつ選びます。それを持ったまま、献酌役であるわたくしの前へ進み、ワインを受けるのです」
「あなたが杯を選ぶわけではない?」
「ええ。わたくしが触れるのは、ワインの瓶だけです」
ホームズがちらりとジェーンに視線を投げる。
彼女はそれにうなずくと、質問を引き取った。
「ワインを受け取った後は?」
「王族と四季の女神へ杯を掲げ、その場で飲み干します。飲酒できない事情がある者は、神前に置かれた献酒器へ全量を注ぐことになっております」
「一口も飲まずに?」
「ええ。それも正式な作法です。神々へ捧げたという意味では、飲み干すのと変わりません」
「その後、杯は?」
「給仕へ返します。最後に、父から布花のコサージュを受け取れば、その方の儀式は終わりです」
「では、ワインを注いだ後、杯に触れるのは本人だけなのですね」
「そのとおりです」
献酌役は、差し出された杯へワインを注ぐ。
杯を受け取る必要はない。
「毒を混ぜるとすれば、注いでいる最中ということになりますね」
ジェーンの言葉に、ホームズが眉を動かした。
「可能性の話だ、ワトスン」
「ですが――」
「機会があっただけで、実行したと証明されたわけではない。混同しないように」
「……はい」
またしても彼女の頬が赤くなる。
「着眼点まで悪いと言っているわけじゃないよ」
「……それなら、先に言ってください」
「先に言ったら、注意が耳に入らないだろう?」
「入ります」
少し不満そうに言いながらも、ジェーンは素直に書類へ訂正を加えた。
そういえば、ゲーム序盤のジェーンもよくこうしてホームズに注意されていた。
それでもめげずに食らいついていくのが、彼女らしいところなのだけれど。
それにしても、ホームズは事実と推測の区別にずいぶん厳しいらしい。
わたしに対する穏やかな態度とは、かなり差があるように見えた。
部下が訂正を終えたのを見計らって、ホームズが会話を引き継ぐ。
「儀式の最中、なにか変わったことはありませんでしたか? どんな些細なことでも構いません」
「そうですね……」
あの時のことを思い返す。
彼女は儀式へ集中していたようすだったので、特に言葉も交わしていない。
だが、花びらのようにひらめく、橙金色のオーバードレスが印象的だった。
その薄絹の下には、腰からたっぷりと広がる、象牙色をしたサテンのベースドレス。
希少なイエローダイヤモンドとオレンジサファイアを連ねたパリュールは、まさにメルモット家の富の象徴。
けれど、華やかな彼女に可憐な金木犀という取り合わせは、少し意外だった。
ワインを注いだ時、甘い花の香りの奥に、かすかな柑橘を感じたことを覚えている。
特に変わったところがあったようには――いや、待てよ。
あの時わたしは、確かになにか引っかかったはずだ。
だが、なんだっただろうか。
「……いえ。少なくとも、今すぐ思い当たることはありません」
ホームズは、わたしの様子をじっと観察していた。
けれど、それ以上は追及せず、別の質問へ移る。
「献酌の間、あなたの手元は周囲から見えていましたか?」
「もちろんです。王族をはじめ、多くの参列者が見守る中でおこなわれる儀式ですから」
「であれば、袖や装飾品へ毒物を隠すことは難しいでしょうね」
「不可能とは申しませんが、今日の衣装に大きな袖はありません。手袋も着けておりませんでした」
「その点は、すでに確認しております」
ホームズは淡々とうなずいた。
「申しわけありませんが、あなたの衣装と所持品を改めさせていただきました。ですが、毒物や、それを入れていたと思われる容器は見つかっていません」
「では、警察は具体的な混入方法を確認できていないのですね」
「その点については、捜査上の事情によりお答えできかねます」
やんわりとした口調だったが、断固とした意思を感じる。
「では、なぜわたくしは、これほどまで強引に拘束されたのでしょう」
「身柄を確保し、事情をうかがう必要はあったと考えています」
ホームズはそこで言葉を切り、わずかに目を伏せた。
「ですが、不確かな情報が王太子殿下へ伝わり、あのような形で公に容疑者として扱われたことについては、警察側にも責任があります。申しわけありませんでした」
深くはない。
けれど、形式だけでもない一礼だった。
「警部補が謝罪なさることではないでしょう」
「いいえ。捜査情報の扱いも、警察の職務です」
誰が、どのような説明をクラウディオ殿下へしたのかはわからない。
ただ、少なくとも彼は、殿下の判断を正当化するつもりはないらしい。
「メルモット嬢とは、どのような関係でしたか?」
ジェーンが質問を続けた。
「社交の場で、何度か言葉を交わした程度です」
「親しくはなかった?」
「ええ」
「仲が悪かったという証言もあります」
「親しくない相手なら、すべて仲が悪いことになるのでしょうか」
「そういう意味では……」
ジェーンが言葉に詰まる。
社交界では、親しくない相手とも笑顔で言葉を交わす。
好意を持っていないからといって、いちいち敵対していては夜会など成立しない。
「メルモット嬢が、あなたを快く思っていなかったことは?」
「そのように感じることはありました」
「理由に心当たりはありますか?」
「本人から聞いたことはありませんので、断定はできません」
推測だけなら、いくつか考えられる。
けれど、推測を事実のように述べるつもりはなかった。
「献酌の前に彼女と会話をしましたか?」
「特には。会場には大勢いらっしゃいましたし、こちらもそれどころではなかったので」
「誰かと口論している様子は?」
「わたくしが見たかぎりでは、ありません」
「脅されていた、あるいは怯えていたようすは?」
「それもありません」
ジェーンは質問を変えながら、同じ時間帯の出来事を少しずつ確認していく。
メルモット嬢が誰とどんな話をしていたか。
大広間を離れたところを見たか。
体調が悪そうではなかったか。
けれど、わたしが答えられることは、そう多くない。
献上式には大勢の参列者がいた。その一人ひとりを、ずっと目で追っていたわけではないのだから。
「最後にメルモット嬢を見たのは、献酌の時ですか?」
「おそらくは」
「おそらく?」
「それ以降、大広間ですれ違っていた可能性までは否定できません。ただ、意識して姿を確認したのは、あの時が最後です」
「では、それが何時ごろだったかは?」
「時計を見ておりませんので、はっきりとは申しあげられませんが……」
メルモット嬢へワインを注いだのは、列が半ばをほんの少しばかり過ぎたあたり、六割にも届いていなかったはずだ。
盟杯での一連の動作を頭に思い浮かべながら、帳面に線を引く。
「たしか、十一時十分ごろだったかと」
「――数学がお好きなのですね」
不意に、ホームズが言った。
その灰色の瞳が、まっすぐにこちらを見つめていた。




