プロローグ
「エディス・ウッドリー嬢。私はこの場をもって、君との婚約を破棄する!」
夜会の最中、突然そんな宣言が飛び出した。
シャンデリアの明かりが降りそそぐ舞踏室では、ちょうど一曲が終わったところだった。
踊り終えた男女が談笑しながら壁際へ戻るなか、その声に招待客たちが次々と振り返った。
声の主は、わたしが先ほどから様子をうかがっていたウィリアム・エリオット伯爵令息だった。
その婚約者であるエディス・ウッドリー男爵令嬢は、睨みつける彼の視線を真正面から受けとめている。
「どういうおつもりですか、ウィリアム様」
「そのままの意味だ。君の度重なる嫉妬には、もう耐えられない。私が少しでも他の女性と話しているだけで目くじらを立て、相手に無礼な振るまいをする。そんな君とこれ以上、婚約を続けていくことはできない」
周囲の招待客が顔を見合わせ、囁きを交わしはじめた。扇の影からふたりのようすをうかがう令嬢もいれば、あからさまに眉をひそめる年配の婦人もいる。
楽団の奏者たちも、次の曲に移るべきか迷っているようだ。
「異性と話すことを禁じた覚えはございません。ただ、あなたが特定の女性と必要以上に親密になさるので、婚約者として節度ある振るまいをお考えくださいと申しあげたまでです」
「ただ話していただけだろう!」
「あら。もう帰ろうとする相手を無理やり引きとめてまで話す内容とは、どのようなものですか?」
「君の瞳が嫉妬で曇っているから、そう見えただけだろう。そうやって自分が正しいと信じて、一方的に気持ちを押しつけられるのは、もう真っ平だ!」
衆目の前で婚約破棄を突きつけられているというのに、ウッドリー嬢は妙に落ちつき払っていた。
エリオット令息が声を荒げても、一歩も引こうとしない。
もっとも、彼女が腹を立てるのもわからなくはない。
先ほどエリオット令息が、その場を去ろうとするスティーヴンソン嬢を熱心に引きとめるようすは、わたしも目撃していた。婚約者のいる男性としては、いささか行きすぎた振るまいだろう。
スティーヴンソン嬢も、しおらしく身を引こうとしている割には、エリオット令息に熱のこもった眼差しを向けていた。
見つめ合うふたりは、まるで禁断の恋に胸を焦がすロミオとジュリエットのようだった。
あれではウッドリー嬢が嫉妬に駆られるのも無理はない。
一方、ウッドリー嬢の言い分には理があるが、少々言葉がきつい。
あれではエリオット令息の面目も丸潰れで、よけいに心が離れるばかりだろう。
まったく、どちらも言いたいことがあるなら、後でふたりきりのときにすればいいものを。
そもそも婚約は家同士の契約でもあるのだから、こんなところで当人たちが言い争ったところで、埒があかないだろうに。
ひょっとしてこの国では、公衆の面前で令嬢を断罪するのが流行っているのだろうか?
つい先日、王宮で似たような目に遭ったばかりの身としては、冗談でも笑えない。
「とにかく、私の決心は変わらない。君との婚約は、これで終わりだ」
「そうですか。ですが、このような場で一方的に宣言なさるのは、あまりに礼を欠いているのではありませんか? わたくしにも、ウッドリー家にも」
「君が自分の非を認めないからだろう。それに、どこで話し合おうと結果は変わらない。私の気持ちはもう固まっている」
エリオット令息はきっぱりと言い切った。
対するウッドリー嬢も、自らの正当性を譲ろうとしない。
招待客たちの囁きが、次第に大きくなっていく。
……やれやれ、まさかこんな騒ぎになるとは思わなかった。
そもそも、わたしが彼らのようすを調べはじめたのは、ある相談がきっかけだったのだ。
◇◇◇
一週間ほどのことだ。
その日、モリアーティ公爵邸には、久しぶりにアデア家の人々が遊びにきていた。
父とメイヌース伯爵たちが別室で歓談している間、わたしは小客間でヒルダと話をしていた。
兄のロナルドも同席しているが、もともと口数の少ない彼は、妹の話にときおり相槌をうつ程度だ。
アデア兄妹とは幼いころからの付き合いだけれど、ロナルドとはいまだに会話が長続きしない。というより、なかなか目を合わせてくれないのだ。
いや、幼いころはもっと仲がよかった気がする。いつの間にか距離が空き、気のせいか年々悪化しているような……。
ちなみに、わたしには前世から引き継いだ知識がある。どうやら日本人だったらしく、この世界が乙女ゲーム『霧都事件ロマネスク』――通称『霧ロマ』の舞台であることも知っている。
ゲームでのわたしは、さまざまな事件の裏で糸を引く黒幕だった。
その『霧ロマ』で、ロナルドはわたしの正体に気づいたため、口封じに殺されてしまう人物だった。
そんな未来を回避するためにも、今世ではなるべく良好な関係を築いておきたいのだけれど、一向に仲よくなれている気がしない。
やはり、わたしのことをあまりよく思っていないのだろうか。
「それでね、ジャクリーンお姉さま。先日、お庭の薔薇がとても綺麗に咲いたんですの。お母さまもお喜びになって……あ、そういえば、今度の夜会にはいらっしゃいます? わたくし、まだドレスも決めていなくて……あら」
ヒルダはふと手もとに目を落とし、縫ったばかりの糸をほどきはじめた。
親しい相手とのお茶会では、こうして針仕事をしながらのおしゃべりは珍しくない。手芸好きのヒルダもよく作りかけの刺繍を持参するのだが、今日は先ほどから妙に手が止まりがちだった。
「あら、珍しい。失敗したの?」
「え? あ、いえ。ちょっと気になるところがあって……」
そう答えて再び針を動かしはじめたものの、数針縫ったところで、また糸をほどいてしまう。
「ねえ、ヒルダ。今日はなにを作っているの?」
「これですか? まだ途中なんですけど……」
ヒルダが刺繍枠をこちらへ向けてくれた。
白いハンカチに、オレンジブロッサムとギンバイカの花輪が美しく刺繍されている。その内側には、装飾的な書体でふた組の頭文字が縫いこまれていた。
E.Wと、W.E。
どちらもきれいに仕上がっているのに、その間を結ぶリボンの意匠だけが、半分ほどほどかれている。
布には小さな針穴がいくつも残っており、もう何度も縫い直しているようだった。
「……結婚祝いのハンカチかしら」
「まあ! どうしておわかりになったんですの?」
「オレンジブロッサムとギンバイカは、婚礼に使われる花でしょう。それに、ふたりのイニシャルをリボンで結んでいるのだから、夫婦となる方々への贈り物だと思ったのだけれど」
「さすがはお姉さま。その通りですわ」
ヒルダは嬉しそうに微笑んだ。
この見事な出来栄えなら、さぞ立派な記念品になるだろう。
ただ、ひとつ気になることがある。
「ところで、そのリボンはどうしてほどいているの?」
「えっ?」
「ほかの部分はきれいに仕上がっているのに、そこだけ何度も糸を抜いているでしょう。模様を変えるつもりなの?」
「それは、その……」
ヒルダは言いよどむと、刺繍枠を隠すように膝へ戻した。
「……まだ、どうするか決めていなくて」
「ヒルダ、もしかしてなにか悩みごとでもあるの?」
「えっ!?」
ヒルダが驚いたように顔をあげた。
どうやら図星らしい。
「な、なぜ……?」
「先ほどから、なにか話しかけようとしてはやめているでしょう。それも、使用人がくるたびに話題をそらしている。他人に聞かれたくない話なのね。それに、その刺繍も気になるわ」
「刺繍、ですか?」
「ええ。お祝いの品なのに、ふたりを結ぶリボンだけ何度もほどいている。ご結婚をすなおに喜べない事情でもあるのかしら。ひょっとして、ご親族の女性に関すること?」
「ええっ!? どうしてそこまでおわかりになったの?」
「前にあなたの従姉妹がご婚約されたという話は聞いたもの。E.WとW.E――エディス・ウッドリー嬢のご婚約者はたしか、ウィリアム・エリオット令息でしたでしょう?」
「エディス姉さまのことまで……! やはりお姉さまには、なんでもお見通しなのですね」
ヒルダは目を輝かせた。
そこまで驚くことだろうか。この刺繍と、最近婚約したという話を組み合わせれば、誰だって思いつくだろうに。
「やはり、ご相談するならお姉さましかいないわ。……実は、ここのところエディス姉さまが、なんだかおかしいんです」
「おかしい?」
「ええ。以前はとてもお優しくて、穏やかな方だったんです。それなのに、最近は……」
そこで一度言葉を切り、ヒルダは困ったように眉を寄せた。
「こんなことを申しあげたら、悪口になってしまうかもしれませんけれど……」
「かまわないわ。誰かに言いふらしたりしないから」
「ありがとうございます。その……突然、とても嫉妬深くなられたのです」
「……と、言うと?」
「はい。ウィリアム様がほかのご令嬢と少しお話しなさるだけで、ひどく不機嫌になってしまわれて。ときには、そのご令嬢にきついことをおっしゃるんです」
それだけ聞くと、たんに嫉妬深い女性というふうに聞こえる。
だが、ヒルダの言い方だと、どうもそれだけではないらしい。
「以前のエディス姉さまなら、そんなことは決してなさいませんでした。だって、兄さまとの縁談をお断りしたときだって、あんなにさっぱりしていらしたんだもの」
「……ヒルダ」
それまで黙って話を聞いていたロナルドが、低い声で妹を呼んだ。
「なんです?」
「その話は……」
「ああ、そういえば、ジャクリーンお姉さまにはまだお話ししていませんでしたっけ。以前、兄さまとエディス姉さまの間で、婚約の話が持ちあがったことがあるんです」
初めて聞く話だが、両家は親戚同士だし、家格の釣り合いを考えればふしぎなことでもない。
ロナルドは次男で、家督は四歳年上の兄ロバートが継ぐだろう。二十二歳の彼はいま、父たちと別室で歓談している。
「でも、兄さまにはほかに好きな方がいらっしゃるということで、ご破算になったのです」
「ヒルダ!」
珍しく声を張りあげたロナルドは、耳まで真っ赤になっていた。
ついまじまじ見ているうちに目があい、すばやくそらされてしまう。
……こうやって不躾に観察してしまうところが嫌われる要因なのだろうか。
せめて深く突っこまずにいよう。
「それで、ウッドリー嬢は?」
「ええ。そのときのエディス姉さまは『それなら無理にお話を進める必要はないわね』とおっしゃって、いまも変わらず接してくれるんです」
「なるほど。それがいまでは、婚約者がほかの女性と話しただけで嫉妬なさる、と」
「そうなんです! あのときの姉さまと同じ方だとは、どうしても思えなくて……」
たしかに、それほど態度が違えば、ヒルダが戸惑うのも無理はない。
ただ、正式な婚約者とは対応が異なるということかもしれないし、たんにエリオット令息のほうが好みだということもある。
ふとロナルドを見ると、なぜか先ほどよりも肩を落としていた。できるだけ婚約話については触れないでおいたのに、まだ気にしているのだろうか。
「わたくし、エディス姉さまのことが大好きなんです。小さいころからなにかと可愛がっていただいて、ずっと憧れていました。ですから、ご婚約が決まったときも本当に嬉しくて……」
ヒルダはそう言って、膝の上の刺繍を見つめた。
「この刺繍も、そのお祝いにと思って始めたんです。でも、最近のお姉さまを見ていると、どうしても心配になってしまって……」
「それで、仕上げられなくなってしまったのね」
「……はい」
ヒルダは小さくうなずいた。
なるほど、婚礼を祝うために縫っているのに、その結婚が心配になってしまったというわけだ。
とはいえ、婚約を機に態度が変わること自体は、さほど珍しい話でもない。
婚約者との関係になにか不満があるのかもしれないし、結婚を控えて神経質になっているだけかもしれない。いわゆるマリッジブルーというやつだ。
そもそも、わたしはウッドリー嬢の普段のようすをよく知らない。ヒルダの話だけでは、どの程度変わってしまったのかも判断がつかない。
「ウッドリー嬢には、理由を尋ねてみたの?」
「ええ。でも、なんでもないとおっしゃるばかりで。お母さまにも相談してみたんですけど、婚約したばかりで気が立っているだけだろうって」
「そう……」
「お姉さま。わたくし、どうしたらよいのでしょう? このままでは、エディス姉さまが周囲の方々から嫌われてしまうのではないかと心配で……」
ヒルダは不安そうにこちらを見つめた。
とはいえ、なにが起きているかもわからないうちから、あれこれ対策を考えても仕方がない。
「わたしもウッドリー嬢のことをよく知っているわけではないし、それだけの情報ではなんとも言えないわね」
「そうですよね。……あの、ジャクリーンお姉さま」
「なあに?」
「来週、先代ダルリンプル子爵夫人が夜会を催されますでしょう? エディスお姉さまとウィリアム様も、そちらにいらっしゃるそうなんです」
「そうなの?」
「はい。もしよろしければ、わたくしとご一緒していただけませんか? お姉さまにも、おふたりのご様子を見ていただきたくて……」
わざわざ他家の問題に首を突っこむつもりはないが、他ならぬヒルダの頼みだ。
実際にふたりのようすを見れば、解決策も思い浮かぶかもしれない。
そう思って引き受けた。
――そして、冒頭に至る。




