鏡は縦にひび割れて
「警察には、お話ししていないことがあります」
ベッシーはゆっくりと語り出した。
「あのときは、本当に一瞬のことで……わたし自身、見間違いではないかと思っていました。ひょっとしたら、わたしの願望がそんなふうに見せただけなのかもしれないと。しかし、今のお話を聞いて、ようやく確信が持てました」
「……なんの話?」
「お嬢様は、風に飛ばされた鏡を取ろうとしたのではないかと思うのです」
これには、さすがの侯爵夫妻も面食らったようだった。
「はっきり見えたわけではありません。ただ、お嬢様の手もとでなにかが光ったのが見えたのです。その直後、お嬢様は線路へ降りられた。あの日は手袋もしていらっしゃいましたから、鏡を取り落としてしまったのかもしれません」
「でも、割れた鏡なんでしょう? なんでそんなもののために……」
「おそらく、お嬢様にとってはそうじゃなかった」
ベッシーは迷わず答えた。
「あの日、お嬢様に尋ねたんです。せっかくの贈り物の鏡を割ってしまうなんて、それほどメルモット家の方々に腹を立てておられるのかと。しかしお嬢様は、そうではないとはっきりおっしゃられました。『この鏡だけは、どうしてもマリーに渡さないといけない』って。あのときのお嬢様は、人生に絶望しているようには見えなかった」
「でも、それだけじゃわからないじゃない……」
「――根拠ならありますよ」
思わず口を挟むと、全員の視線がこちらへ集まった。
「大華との交流が深いファルコナー侯爵家ならば、『破鏡重圓』という故事はご存じでしょう」
侯爵がはっとしたように目を見開いた。
「……鏡をふたつに割り、それぞれが片割れを持って、再会の証とする話ですか」
「ええ。先ほど侯爵は、ヘレン嬢には己の出自を伝えなかったとおっしゃっていましたが、聡い彼女は薄々気がついていたのではないでしょうか。だから自分のルーツを調べる過程で、大華の文化も学んだ。それで破鏡重圓も知ったのでしょう。離ればなれになった者たちが、いつか再び巡り会い、元のように結ばれる――その願いを、割った鏡に託したのではないでしょうか」
バーン嬢は、ただ鏡を割ったのではない。
あれは未来への希望だったのだ。
「しかも、鏡には満月と金木犀があしらわれていたとか。大華では木犀を『桂』とも呼ぶそうですね。言い伝えでは、月には桂の大樹が生えていて、何度切っても傷が塞がり、元に戻るとか。さらに、満月もまた再会の象徴です。傷ついてしまった友情が、いつかまた元に戻りますように――そんな願いをこめたのではないでしょうか」
「傷ついても……元に戻る……」
顔からすっかり険が失われたファルコナー嬢が、呆然とつぶやいた。
「もうひとつは、王立気象局から取り寄せた、事故当日の観測記録です。あの日、メルモット・パーク駅では、最大風圧九・〇を記録するほどの強い南西風が吹いていました。ちょうど、バーン嬢が立っていたホームから線路へ向かう風です。さらに周囲は畑ばかりで、風をさえぎる建物もほとんどない。この条件なら、鏡が手から離れ、そのまま線路へ飛ばされても不思議ではありません」
「じゃあ、ヘレンは……」
「彼女にとって、それはただの鏡ではなかった。メルモット嬢との友情を取り戻すための大切なものです。ならば、とっさに追ってしまったとしても、おかしくはないと思います」
しばらく誰も口を開かなかった。
やがて重い沈黙の中に、バーン男爵の深いため息が混じった。
「……私たちも、おそらくそうなのだろうと思っていました」
「知っていたのですか?」
「ベッシーから、事故のあとに聞いていました。ですから、あの子が自ら死を選んだとは、どうしても思えなかった」
「だったら……だったら、どうしてわたくしたちにそう言ってくれなかったの!?」
ファルコナー嬢の声が裏返る。バーン夫妻はすぐには答えなかった。
やがて男爵が、苦しそうに口を開く。
「あなた方は、ヘレンがマリー嬢に追いつめられて死んだのだと思っておられた。その悲しみを怒りに変えて、どうにか耐えておられた。そんな皆さまに、『そうではない、おそらく事故だった』などと……どうして言えたでしょう」
「それは……」
「あれほどの思いで託していただいた大切な娘を、結局私たちは守りきれなかったのですから。ですが、黙っていたことで、かえってアリシア嬢を、ファルコナー家の皆さまを苦しめてしまいました」
バーン男爵は妻とともに、その場で膝をついた。
「大変、申しわけありませんでした……!」
「そんな……そんなの……」
ファルコナー嬢の唇が震えた。
「だったらわたくしは、なんのために……」
「アリシア……」
「殺しちゃったじゃない……わたし……友だちを……!」
それ以上は言葉が続かなかった。
彼女は肩を震わせながら両手で顔を覆うと、とうとう耐えきれなくなったように、声をあげて泣き始めた。
ファルコナー夫人がすぐに娘を抱き寄せる。侯爵も傍らに膝をつき、その背に手を添えた。
もはや誰も彼女を責める言葉を口にしなかった。
ヘレンを失った者たち。
マリーを失った者たち。
そして、取り返しのつかないことをしてしまった者たち。
誰にとっても、もう昨日までと同じではいられない。
「……結局、父と母の言うことが正しかったのだろうか」
やがて侯爵が絞りだすようにつぶやいた。
「双子は家を裂く凶兆だなんて、馬鹿げていると思っていた。だが、私たちが選んだ道の先で、ヘレンは死に、アリシアは人を殺した。あのときの判断が、娘たちを不幸にしたとしたら……」
「いいえ。それが間違っていることは、あなた方の歴史が物語っています」
「……我が家の歴史が?」
まったく予想していなかったのだろう、侯爵は呆気に取られたようにわたしを見た。
「第十三代ファルコナー侯爵アレクサンダーには、ヴァレンタインとオーソンという双子の息子がいました。ですが、家譜から弟のオーソンだけが姿を消している。一方、兄のヴァレンタインは東方交易を大きく拡大し、とりわけ白景月という大華人とは、頻繁に書簡を交わすほど親しくしていました」
わたしはフォーマンに預けていた紙を受け取り、侯爵夫妻の前へ広げた。
そこには白景月の使っていた私印が写されていた。仰月の上に一輪の木蓮、その周囲に配された瑞雲と丸が三つ。
「ファルコナー家にとって蘭は大切な花であるため、使用人は主家に遠慮して、代わりに玉蘭をあしらうそうですね。そして、この瑞雲は如意雲頭紋。まるで心臓を上下返したような形です。さらに、大華では星を丸で表します。白隼の代わりに蘭ではなく玉蘭。心臓に三つの星。――なにかに似ていると思いませんか?」
侯爵は返事もせず、食い入るように紙を見つめた。
意匠をひとつずつ確かめるように、まじまじと観察する。
「……まさか、ファルコナー侯爵家の紋章か」
「ええ。さらに、次男のケイデンシーといえば三日月です」
ケイデンシーとは、同じ家の紋章を受け継ぐ者同士を区別するために加える印のことだ。そのうち三日月は、次男を表す。
「つまり、白景月はヴァレンタインの双子の弟――オーソンだったのではないでしょうか」
家譜からは消されても、オーソンは生きていた。
海を越えた大華で別の名を名乗り、それでも兄とは書簡を交わし続けていた。そう考えれば、白景月の私印に残された意匠にも説明がつく。
「――それだけではない」
突然、背後から低い声が響いた。室内の視線が、一斉に入り口の扉へ向かう。
そこに立っていたのは、枢密院会議に出ているはずの父だった。いつからそこにいたのか、その後ろにはセバスチャンも控えている。
父は集まった視線にも構わず、ツカツカと小客間へ入ってくると、ファルコナー侯爵の前で止まった。
あまりに堂々としているので、警察側も呆気に取られている。
「ヴァレンタインは、自らと白景月の関係を『海西使録』に記された蘭徳公ランドルフと桂礼公ケイレブの故事に例えていた。そこで、大華に詳しい者に『海西使録』を調べさせたところ、興味深いことがわかった。我が国ではふたりの生年を建国暦一二四年と一二五年だとしているが、『海西使録』ではどちらも同じ一二四年だった。ただし、ランドルフは三月二日、ケイレブは四月五日に生まれている」
「……どういうことです?」
「ランドルフが生まれたあと、母親の陣痛はいったん収まり、およそひと月後に再び始まって第二子が生まれたそうだ」
そこまで聞いて、ようやく思い当たった。
「ごくまれにですが、多胎妊娠でひとり目が早く生まれたあと、残った子が母胎に留まり、そのまま妊娠が続く『遅延間隔分娩』という例があると聞いたことがあります。彼らもそれだったのですね」
「そうだ。ふたりは別の年に生まれた兄弟ではなく、双子だったのだろう」
侯爵はしばらく言葉を失っていた。
これまで信じていた彼らの歴史を根本から覆す話だ。その衝撃の大きさは、わたしなどには想像もつかない。
「後世の記録でケイレブの出生年だけが一二五年に改められたのは、双子禁忌を唱える者たちにとって都合が悪かったからだろう。なにしろ、ランドルフとケイレブは、ファルコナー家を代表する二人なのだからな」
「そうですね。言い換えれば、それほどの功績を残した方々も双子だったのです。ならば、ヘレン嬢を生かしたことは、決して間違いではなかった。そのことは、あなた方の歴史そのものが証明しています」
侯爵の顔が、ゆっくりと歪んだ。
「……ありがとう」
それだけ言うのが精いっぱいのようだった。
十八年近く彼らを縛りつけていた禁忌の枷など、本当はどこにもなかった。歴史の中で、人間の迷信と悪意が生み出した幻だったのだ。
侯爵の表情には、深い悲しみとともに、長い呪縛からようやく解かれた者の安堵が滲んでいた。
ファルコナー夫人は泣き崩れる娘を抱きしめ、その上から侯爵がふたりを包みこむ。
侯爵はもう何も言わず、声を押し殺すように泣いていた。
「それにしてもお父様、とてもいいタイミングにきてくださって助かりました」
「旦那様は、室内が大変盛りあがっておりましたので、入室する機会を窺っておられたのです」
「セバス」
「失礼いたしました」
父の無表情にどことなく怫然としたものを感じて、わたしはつい口の端をピクピクと震わせてしまった。
そんな空気をやぶるかのごとく、ふいにファルコナー夫人が声をあげた。
「――アリシア、これはなんなの?」
見ると、娘が隠し持っていたらしい薄い緑灰色の封筒を取りあげている。
中から折り畳まれた紙を取り出した夫人は、最初の数行を読んだところで顔色を変えた。
「『西客殿へ移動……旧制服に着替える……盟杯までに――』」
「――ひょっとして、犯行の手順書なのか?」
侯爵も妻の手もとを覗きこむ。
レストレード警部が夫人から紙を受け取った。
「ふむ。……時刻、衣装、移動経路。いつなにをすべきか、順を追って書いてありますな。犯行の計画書のようです」
「こんなものまで……」
「ち、違う。その計画書は――」
そのとき、小客間の扉が慌ただしく開いた。
「失礼いたします! 鑑定室から至急――」
「しっ、後にしてください」
入室しようとしてきた警官を、秘書官が手で制した。
バンクロフト総監が眉をひそめる。
「何事だ」
「し、失礼いたしました。鑑定室から、至急ご相談したいことがあるそうです」
「五分待て。……申しわけない、続きを――ファルコナー嬢?」
総監が怪訝な顔をするので振り返ると、ファルコナー嬢はぼうっとした表情で虚空を見つめていた。
「ファルコナー嬢、どうされた?」
返事はない。
やがてその顔が苦痛に歪み、彼女は両手で頭を抱えこんだ。喉の奥から掠れた声が漏れ、身体が小刻みに震えはじめる。
「アリシア!」
夫妻が駆け寄ろうとした、その瞬間だった。
「ア゛ァッ――!」
ファルコナー嬢が弾かれたように立ちあがり、ふたりをまとめて振り払った。
あまりの勢いに侯爵がよろめく。
「アリシア嬢!」
すぐそばにいたヴェンディス令息が腕を掴もうとしたが、彼女はそれさえ乱暴に振りほどいた。その隙を縫うように彼女は前へ飛び出し、止めに入った警官へ体当たりする。
細い腕が腰へ伸び、なにが狙いなのか理解したときには、もう拳銃が抜き取られていた。
フレデリックが一歩でわたしの前へと回りこみ、ほとんど同時にフォーマンが背後から肩を引き寄せる。ふたりにさえぎられた視界の隙間から、ファルコナー嬢が拳銃を持ちあげるのが見えた。そのまま、銃口を自分のこめかみへ押しつける。
――パァン!
耳の奥まで揺さぶるような轟音が、小客間に響きわたった。
だが、ファルコナー嬢は倒れなかった。
フレデリックの肩越しに見えたのは、深く抉れた床板と、そのすぐそばで彼女の手首を取っているホームズだった。
「アァッ! ァ、あああッ!」
ファルコナー嬢は獣じみた声をあげて暴れた。だが、ホームズは正面から力を受けず、半身になってその勢いを流す。取った手首を返して肘を押さえ、体勢を崩すと、そのまま暴れる身体を絨毯へ伏せさせた。
それでも彼女は止まらなかった。腕が折れかねない角度まで捻られているのに痛がる様子もなく、ただ喉を鳴らし、身体をよじってホームズを振りほどこうとする。
その異様さに一瞬遅れて我に返った警官たちが、一斉にそちらへ駆け寄った。
わたしはフレデリックとフォーマンに庇われたまま、ひとりぶん後ろへ下がっていた。だから見えたのだろう。
誰もがファルコナー嬢へ意識を奪われる中、部屋の端に立つ警官がひとりだけ動いていない。
――その目が、彼女と同じように虚ろだった。
男の手が腰へ伸びる。拳銃が抜かれ、銃口が人だかりへと向かう。
「――危ない!」
とっさの叫びは、すさまじい銃声にかき消された。
誰かが撃たれたと思った。だが、次に落ちてきたのは血ではなく、白い漆喰の欠片だった。
その真下で、セバスチャンが警官の懐へ入りこみ、拳銃を握った腕を頭上へ捻りあげていた。
「ウゥ……ァア……!」
男が低く唸り、全身を使って振りほどこうとする。常人なら腕ごと持っていかれそうな勢いだったが、セバスチャンは足を半歩ずらしただけで体勢を保ち、手首を返して肘を制すると、その力さえ利用するように男を床へ落とした。
「フレデリック、フォーマン。護衛ならば視野を広くしなければなりませんよ」
息ひとつ乱していない。
フレデリックもフォーマンも、返す言葉がなかった。
警告することしかできなかったわたしと違い、彼はいち早く異変を察して動いていたのだろう。普段の穏やかな老紳士の姿からは想像もつかない早業だった。
レストレード警部たちが駆けつけ、警官を引き取るようにして拘束する。
ところが、三人がかりでも男は暴れるのをやめなかった。焦点の合わない目で虚空を見つめ、喉の奥から獣じみた声を漏らしながら、腕が折れることさえ構わないように拘束を振りほどこうとする。
ファルコナー嬢も同じだった。
ホームズたちに押さえられてなお、呻きながら身体をよじり続けている。呼びかけにも反応せず、痛みすら感じていないようだった。
つい先ほどまで泣き崩れていた少女と、同じ人間とは思えない。
いったい、なにが起きているのか。
「ふむ」
混乱する室内で、父が小さく唸った。
暴れるふたりを見比べていた目が、すっと細くなる。
「セバスチャン。至急、ブルワー教授を呼び寄せろ」
「かしこまりました」
セバスチャンは理由を尋ねることもせず、すぐさま小客間を出ていった。
「総監、彼女らに猿轡を噛ませたうえで拘束してほしい」
「もちろんです。しかし、なにか心当たりがおありなのですか?」
「ああ。この症状は以前に見覚えがある。おそらく、なんらかの催眠にかかっている」
「催眠、とは……あの催眠術ですか?」
「そうだ」
「しかし、そんなことが……」
「ブルワー教授は催眠術にも造詣が深い精神科医だ。彼に任せればはっきりするだろう」
父らの会話を聞きながら、わたしは先ほど見た光景に肩を震わせていた。
豹変した彼女らを恐れたわけではない。
彼女が持っていた、あの薄い緑灰色の封筒――あれは、『霧ロマ』で黒幕が使っていた、犯罪計画書だったのだから。




