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モリアーティ公爵令嬢の終局的推理  作者: 国枝桜子
第一章 王宮毒殺事件

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それぞれの善意の代償

「しかし……なぜです? 実の娘を、なぜバーン家へ?」


 レストレード警部が困惑したように眉を寄せた。

 この時代、親を亡くした子や、非嫡出などの事情で実の親元では育てにくい子を、親族などが引き取ることはある。

 だが、両親ともに健在な侯爵家の嫡出子ともなれば話は別だ。それも、ただ別の家で育てられたのではない。出自そのものを隠し、最初からバーン男爵家の娘として扱ったのである。

 警部の反応も当然のことだった。


 ファルコナー夫妻は、しばらくの間なにも答えなかった。何事かを言おうとして、結局は唇を引き結ぶことを繰り返す。

 その沈黙だけで、彼らの葛藤はじゅうぶんに伝わってきた。


「ファルコナー侯爵家には、双子にまつわる古い記録があります」


 わたしがそう告げると、夫妻の表情がわずかにこわばった。

 できるだけ客観的事情のみ述べるよう、慎重に言葉を選ぶ。


「『ミステリカ諸侯家沿革史』によれば、第五代ファルコナー侯爵には、ローランドとオットーという双子の息子がいました。ふたりは後に家督をめぐって争い、一族を二つに割る騒ぎを起こしています。そして、その項の末尾にはこうあります。――以後、同家において、双生児の第二子は家譜(かふ)に記(しる)さず」

「家譜に記さない……?」

「ええ。つまり、双子のうち後に生まれた子は、ファルコナー家の系図に載せないということです。実際、その後の代にも、宮廷の出生記録には名前があるのに、家譜には載っていない第二子がいます。少なくとも、一度きりの話ではありません」


 侯爵が低く息をつき、観念したように目を伏せる。夫人も止めようとはしなかった。


「……アリシアとヘレンが生まれた当時、私はまだ侯爵ではありませんでした。父が当主で、母も健在だった。ふたりとも、あの言い伝えを疑ってはいませんでした」

「では、双子の第二子は……」

「家に残してはならない。そういう考えです」

「それで、妹のほうを家から出したと?」

「そうであれば、まだよかった」


 侯爵の声が重くなる。


「双子が生まれたと知られれば、妹のほうは殺されていました」


 さすがにレストレード警部も言葉を失った。


「……実の孫をですか?」

「父は、それが家を守るために必要なことだと信じていました。母も止めなかったでしょう。私たちだけで、あの考えを覆すことはできなかった」

「ですから、あの子を屋敷に残しておくことはできなかったのです」


 夫人の声は落ち着いていたが、組んだ指には力が入っている。


「それでも、まったく知らない方へお渡しすることなどできませんでした。バーン夫人とは乳姉妹なのです。彼女のお母さまがわたくしの乳母で、幼いころから姉妹のように育ちました。それに、出産に立ち会った産婆も彼女の妹でした」


 それまで黙って聞いていたバーン夫人が、ようやく口を開いた。


「妹から事情は聞いておりました。赤ん坊をあの家に残しておけば、命はないと」

「それで、あなた方が引き取った?」

「はい。わたくしどもには長いこと子どもがおりませんでした。でも、それだけではありません。エセルとは、幼いころからずっと一緒でした。姉妹同然に育った彼女が、自分の子を生かすために手放さなければならない。そんなときに、知らぬふりはできませんでした」


 娘を託す相手としては、これ以上ない選択だったのだろう。


「ほかの誰かでは駄目でした。あなたなら、あの子を本当の娘として愛してくださると思った」

「ええ。まだ赤子だったあの子を迎えた日から、ヘレンは私たちの娘でした」

「そうしていただけたことだけが、救いでした。娘の命は守れる。バーン家で大切に育てていただける。だから、この選択でよかったのだと……ずっと、そう思おうとしていました」


 十八年前、娘を手放すしかなかった彼女にとって、その思いこそが心の支えだったのかもしれない。


「せめて、あの子になにか残してあげたい。それで持参金代わりに持たせたのが、あのパリュールでした。我が家に伝わる蘭と桂花の逸話に合わせて、アリシアにはカトレア、ヘレンには金木犀のモチーフのものを、同じ職人に作らせた一対にして」

「あの子の心情を慮(おもんぱか)って、私たちが実の親であることは本人にも伏せていました。けれど、アリシアには真実を伝えていた。おまえは姉なのだから、妹を守るように、と。……だが、それが間違っていたのでしょうね」

「――そんなことありません!」


 父の悔恨を、ファルコナー嬢は力強く否定した。


「全部マリーのせいなんです。わたしたちがそうやって大切に守ってきたあの子を、あの女が奪った!」

「アリシア……」

「ううん、それだけじゃない。モリアーティ嬢、あんたたちもよ! 全部あそこからおかしくなった。ライヘンバッハ公爵が新しい法律を作ったせいで、バーン領がどんな目に遭ったか!」

「新しい法律……?」

「お酒を造る決まりを変えた法律よ。古い設備じゃもう売れない、新しい決まりに合わせられなければ免許も取り上げられるって。造ってしまったお酒まで売れなくなって、それで領内の酒造家が次々に潰れていったのよ!」


 そこまで聞いて、ようやく思い至った。数年前、父が主導した酒造制度の改革だ。

 それまで、この国で売られる酒には、造り手によって度数や品質にかなりのばらつきがあった。

 悪貨が良貨を駆逐するように、水で薄めたり、安い酒を混ぜたりした粗悪品が市場に出回る。だが、見た目や匂いだけでは簡単に見抜けない。これでは真面目な造り手ほど損をするし、国としても酒税を正しく取れなくなる。


 そこで父は、度数や純度を共通の方法で測る制度を作った。同時に酒税を引き下げ、複雑だった免許の手続きも簡単にした。

 規模が小さくても、きちんとした酒さえ造っていれば商売しやすくなる。むしろ、そうした酒造家こそ恩恵を受ける法律だったはずだが……。


「アリシア、それは違う」


 侯爵が静かにさえぎった。


「なにが違うのですか」

「今おまえが言ったことの大半は、当時流れた根拠のない噂だ。あの法律にそんな規定はなかった」

「ですが、バーン領では――」

「噂が広まったことは事実です」


 今度はバーン男爵が口を開いた。


「新しい基準に合わない酒は、施行されたその日から売れなくなる。古い設備の酒造所には免許が下りず、在庫まで没収される。領内では、そんな話がまことしやかに広まっていました」

「なぜ、そんな噂が?」

「法律が大げさに解釈されて広まったのでしょう。こういうことは、地方へ届くころにはずいぶん話が変わっているものです。我々も領主として何度も誤りだと伝えましたが、一度広まった噂はそう簡単に止められませんでした。そのうち商人たちまで酒を買わなくなった。万が一、噂のほうが本当なら、仕入れた酒が売れなくなると考えたのでしょう。そしてそれは、酒造業で成り立っていた我が領にとって致命的でした」


 言葉にはかすかな苦みがにじんでいた。

 責めるような口調ではなかったが、それだけに被害の重さが伝わってくる。

 ファルコナー侯爵はゆるゆると首を振った。


「ライヘンバッハ公爵も、手をこまねいていたわけではない。噂が間違いだと布告を出して、現地にも役人を送っている。設備を直す必要がある酒造家には、低い利子で金を貸したり、補助を出したりもした。移行期間だって延ばしたはずだ」

「ええ。それで持ち直した土地もありました。ですが、我が領には間に合わなかった。一度失った取引先も、すでに抱えた借金も、噂が間違いだったとわかっただけでは元には戻りません」


 ファルコナー嬢は、まるで初めて聞く話のようにバーン男爵を見つめていた。

 どうやら彼女は今まで、当時流れた噂をそのまま事実だと思っていたらしい。


「……でも、その法律がなければ、そんな噂だって流れなかったじゃない!」


 声を荒らげた彼女の顔には、納得した様子など少しもなかった。

 行き場を失った怒りが、そのまま言葉として口を突いているように見えた。


「そのせいで、あのメルモット家がハイエナみたいに近づいてきたのよ。弱りきったバーン家の足もとを見て、無理やり不利な条件を呑ませて、その担保に金木犀のパリュールまで奪っていった! あれがヘレンにとってどんなものかも知らないくせに!」


 先ほどまで怯えるように縮こまっていた姿は、もはやどこにもない。ひとたび本音を漏らしてしまえば、もう止まらないようだった。


「それでもヘレンは、家のためだからって差し出したのよ。それなのに、あとでお父さまたちが事情を知って、バーン家の借金を肩代わりしたあとも、マリーは返してくれなかった。それどころか、今度は学校でヘレンが悪者にされたのよ! 苦しいときだけメルモット家を頼って、ファルコナー家がお金を出した途端にそっちへ乗り換えた、恩知らずだって!」


 最後の言葉は、とりわけ強く響いた。死んだ妹をそんなふうに言われたことが、今でも許せないのだろう。


「そんなわけないじゃない! ヘレンはずっとマリーのことを気にしてたのよ。仲直りしたいって、自分から謝りにまで行った。悪いことなんてしてないのに、それでも前みたいに戻りたいからって! そんなヘレンを、メルモット家は門前払いした! 警察は事故だって言ったけど、そんなわけない。なにもなかったら、あの慎重な子が自分から線路に降りるはずなんてないもの。大切なものを奪われて、学校では悪者にされて、それでも仲直りしようとしたのに拒絶されて……あの子は絶望したのよ。きっと、もうなにもかもどうでもよくなって、それで死んだんだわ!」


 もはや彼女の中では、それが疑いようのない真実になっているようだった。


「だから、復讐するためにあの女へ近づいたの。ファルコナー侯爵家と繋がれるのが、よっぽど魅力的だったんでしょうね。ちょっといい顔をしてやっただけで、すぐに懐いてきたわ。ついでにモリアーティ公爵家にも仕返ししてやろうと思った。王太子殿下の婚約者争いでモリアーティ嬢が邪魔だから、蹴落としたいって言ったら、それであっさり信じたわ」


 ここまで来ると、もう言葉を選ぶそぶりすらない。積もり続けたものを、何もかも吐き出す勢いだった。


「お茶に毒を入れてほしいって頼んだら、急に嫌だなんて言い出したわ。人を傷つけるようなことはできないって。どうせ公爵家の肩書きに怖気づいただけのくせに良い子ぶって、あの薄汚い偽善者! ヘレンのことはあれだけ追いつめて死なせたくせに! だから、毒じゃなくて下剤だって嘘をついたの。少しお腹を壊して、献上式に出られなくするだけだって。そうしたら、またあっさり信じたわ。最後までなにも疑わないで、言われたとおりにして……ほんと、馬鹿な女!」

「――いい加減にして!!」


 鋭い声が響いた。

 これまで黙って聞いていたエライザも、とうとう我慢の限界だったらしい。怒りで顔を真っ赤にして立ちあがると、ファルコナー嬢を真っ向から睨みつけた。相手が侯爵令嬢だということなど、すっかり頭から抜け落ちているようだった。


「お嬢様のことをなにも知らないくせに、勝手なことばかり言わないで!」


 ファルコナー嬢はさすがに怯んだようだったが、すぐに眉を吊りあげた。


「なによ……わたくしは本当のことを言っただけじゃない!」

「どこが本当のことですか! そもそも融資の話だって、メルモット家から持ちかけたものじゃありません。ヘレン様のほうから、お嬢様に相談されたと聞いています!」

「嘘よ! ヘレンがそんなことするはず――」

「いいえ、アリシア嬢。それは事実です」


 バーン男爵だった。

 思いがけないところから否定され、ファルコナー嬢は言葉を失ったようだった。


「私たちは、領地のことであの子に心配をかけまいとしていました。しかし、それでかえって気を使わせてしまったようです。聡い子でしたから、領地が苦しいことも察していたのでしょう。それで、メルモット嬢を個人的に頼ったようなのです」

「そんな……」

「あの子は、あとになって後悔していました。友だちだから助けてくれると、心のどこかで甘えすぎていたと。けれど、友人に金銭の貸し借りを持ちこんだこと自体が間違いだった、自分が友情を壊してしまったと」

「お嬢様は……寂しい方だったんです」


 メルモット嬢のことを語り始めたエライザからは、少しずつ怒りの色が薄れていった。


「あの家では、欲しいと言えばなんでも与えられました。ドレスも宝石も、お菓子だって。でも、お嬢様が本当に欲しかったものは、何ひとつ手に入らなかった。旦那様も奥様も、商売と見栄ばかりで……お嬢様に娘として向き合ってくれたことなんて、ほとんどなかったんです」


 複雑な気持ちを吐き出すように、彼女は深く息をつく。


「そんな環境で育ったせいか、お嬢様は人との付き合い方もあまり上手ではありませんでした。なかなかお友だちもできなくて。だからヘレン様と親しくなったときは、本当に嬉しそうだった。今日はこんなことをした、こんな話をしたって、毎日嬉しそうに教えてくださった」

「……嘘よ」

「ヘレン様からご相談されたときだって、自分がお友だちを助けるんだって張り切ってらした。それなのに旦那様は、娘の交友関係まで商売の種になさった。困っている相手に無茶な条件を突きつけて、ぜんぶ台無しにしたんです」

「……メルモット嬢は、そのことを知っていたのだろうか」


 震える声で問うヴェンディス令息に、エライザは首を横に振った。


「ご存知ありませんでした。わたしたち使用人が知ったのだって、お嬢様とヘレン様の仲がこじれたあとでした。お嬢様が知れば傷つくだろうって、みんなで協力して耳に入らないようにしました。でも、今にして思えば、それがよくなかったのかもしれません」

「そんな……それなら、どうしてパリュールを返してくれなかったの!?」


 初めて彼女の怒りに迷いが混じった。先ほどまでとは、明らかに様子が違う。


「お嬢様は、あれが担保だとご存知なかった」

「そんなはず、ないじゃないの!」

「本当です。ヘレン様から友情の証としてもらったものだと、そう信じておられました」

「あれだけ価値のあるものよ? あれを、ただの贈り物だと思ったというの!」

「あの家にいると、そういう感覚がだんだん麻痺してくるんです!」


 その言葉には、まるで彼女自身にも覚えがあるというような、妙な実感がこもっていた。


「お嬢様はずっと、高価なものを与えられることこそが愛情だと思って育ってきたんです。宝石を贈られるのも、それで喜ぶのも当たり前だった。だからヘレン様からパリュールを渡されたときも、ただ友情の証なのだと思ってしまったようなのです。わたしどもも、疑いもしませんでした。今考えればおかしいとわかります。お金に困っていたバーン家のご令嬢が、あれほど高価なものを贈るはずがない。……でも、あのときのわたしたちには、それがわからなかった……」

「それなら……返してほしいと、言われたときは……?」

「もう、友だちなんかじゃないと……そう言われたと思われたようです。お嬢様にとって、与えられた物を取りあげられることは、愛情を失うことに等しかった……」


 過去にそういうことがあったのだと、暗に言っているような響きだった。

 おそらくメルモット家では、そういった教育が繰り返されてきたのだろう。


「ショックで、学校でも泣いてしまって。それを見た周りの子たちが勝手に話を広げたんです。バーン家はメルモット家を利用するだけ利用して、ファルコナー家に乗り換えたんだって。お嬢様も、その噂はずっと気にされていました」

「だったら、どうしてヘレンを追い返したのよ! 仲直りしようとしたあの子を門前払いしたのは本当でしょう!」

「……追い返したのは、わたしです」


 その言葉に、言い訳の色はなかった。


「バーン家がファルコナー家の援助で借金を返されたことで、旦那さまは思ったほど儲けられなかったと腹を立てていらっしゃいました。もうバーン家と関わっても商売にならないから、お嬢様にも近づけるなと命じられていたんです」

「それじゃあ、マリーは……」

「なにもご存知ありません。ヘレン様がいらしたことも、一切お伝えしませんでした」


 怒りで紅潮していたファルコナー嬢の顔から、見るみるうちに血の気が引いていく。


「知っていらしたら、絶対に会いたがったはずです。ずっと仲直りされたがっておられましたから。その機会を、わたしが潰したのです」

「で、でも……そのあとヘレンは死んで、だから……」

「ですから、わたしのせいなんです!」


 ほとんど悲鳴のような声だった。


「あのとき追い返さなければよかった。旦那さまの命令なんて聞かなければよかった。……ヘレン様が亡くなったと聞いたとき、そう思いました。それで……辞めようと思ったんです」


 恋人ができたわけでも、主人に嫌気がさしたわけでもない。

 それは、彼女なりの贖罪だったのだ。


「でも、お嬢様に泣かれました。『あなたまでいなくならないで』って。それで辞められなかった。あの家では、ひとりでも多くお嬢様の味方がいないとダメだと思ったんです」


 エライザは目を閉じ、眉間に深くシワを寄せて、力強くこぶしを握った。

 それだけで、二年半にもおよぶ彼女の葛藤が見てとれた。


「ヘレン様を追い返したとき、託されたものがありました。割れた鏡のかけらです。彼女は、お嬢様に渡すはずだった鏡を半分に割り、そのかけらを手渡してきたのです。『これをマリーに渡して』って」

「ヘレンが……?」

「きっと恨みの印だったのでしょう。わたしは、なにもかも告白するつもりで、そのかけらをお嬢様に差し出しました。しかし、お嬢様は……ものすごく喜んだのです」


 こらえていた涙が、とうとうエライザの目に浮かんだ。


「『あの子からの最後の贈り物だ』って、大事そうに抱えて……。そんな姿を見たら、それ以上のことは言えませんでした。その鏡にこめられた意味も、わたしの罪も……いいえ、それは言い訳だわ。それはわかっています。わかっているけれど、どうしても言えなかった……」

「……ダイトンさん……」

「お嬢様は、割れたところをきれいに削って、お守りみたいにずっと持っていました。ヘレン様に嫌われていたなんて、最後まで思ってもいなかったんです」


 エライザはとうとう膝から崩れ落ち、震える声で告白した。


「だから、お嬢様は悪くない。悪いのはわたしです。わたしがヘレン様を追い返した。もし、それであの方が死を選んだなら――」

「いいえ、それは違います」


 部屋の隅から、静かな声がかかった。

 バーン家の侍女、ベッシー・リーだった。


「ヘレンお嬢様は、おそらく自殺ではありません」


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