ミス・モリアーティは語る
一瞬、なんともいえない空気が流れた。
レストレード警部は怪訝な顔をし、ジェーンが戸惑ったように瞬きする。メグレ警視とバンクロフト総監は口を挟まず静観し、ホームズだけがわずかに興味を惹かれたようにこちらを見ていた。
「仮説、ですか?」
「ええ。ただ、その前にお願いがあります。バーン男爵夫妻と、その侍女であるベッシー・リーさんをお呼びいただけますか」
「バーン夫妻?」
「はい。これからお話しすることに関係する方々です。できれば、彼らにも最初から話を聞いていただきたいのです」
レストレード警部はすぐには答えず、メグレ警視を振り返った。
「……どうします?」
「構わんだろう。連れてきてくれ」
メグレ警視が近くの警官に声をかける。
ほどなくしてバーン男爵夫妻とベッシー・リーが入室してきた。
男爵は五十ほどだろうか。細身の長身で、黒髪にはすでにかなり白いものが混じっている。地味な濃色の上着をきちんと着こなし、どこか学者めいた生真面目さのにじむ面構えだ。
その隣を歩く夫人は、夫よりいくらか小柄だった。淡い栗色の髪を控えめにまとめ、装いも華美ではない。疲れの残る顔には、それでも穏やかな優しさがにじんでいた。
男爵は一同へ静かに一礼し、夫人もそれにならった。
「こちらへ」
警官にうながされ、ふたりは用意された席へ向かう。
ベッシーも、その少し後ろに着席した。
これでようやく証人がそろったことになる。
「では、モリアーティ嬢。聞かせていただきましょうか」
ただの令嬢がどこまでやるつもりなのか、見定めるような目だった。
「その前に、いくつか確認させてください」
「……いいでしょう」
「警部は、そこのダイトンさんがメルモット嬢に毒を盛ったとお考えなのですよね」
「ええ。その可能性が高いと見ています」
「では、どのように?」
今のところ、警部の推理ではそこが曖昧だ。エライザが毒を盛ったというなら、その方法を説明できなければ意味がない。
「メルモット嬢の胃からは、赤ワインと毒物のほかには、これといったものが検出されなかったとうかがっております」
「ダイトンが毒入りのワインを持ちこんだと考えれば、説明はつくでしょう」
「ですが、献上式ではライヘンバッハ・リザーヴ以外の赤ワインは持ちこみ禁止です。王宮の入り口で手荷物検査がありますし、基本的にそこで弾かれます」
「だからこそ、隠して持ちこんだんじゃないかと言っているのです」
「では、彼女の持ち物から赤ワインが出てきたのですか」
レストレード警部が答えるより早く、メグレ警視が口を開いた。
「いや、ダイトンの持ち物から赤ワインの痕跡は見つかっていない」
「であれば、少なくともその推測には裏づけがないということです」
警部は露骨に顔をしかめ、不快そうに口もとを歪めた。
「容器を処分した可能性はあるでしょう」
「では、王宮内のゴミはお調べになりましたか?」
「それは……これから調査する」
「では、とりあえずこの件は保留とさせていただきます。次に、ヴェンディス令息の所持していた毒物についてですが」
今度はヴェンディス令息がわずかに眉をあげ、こちらへ視線を向けた。
「メルモット嬢の胃から検出されたものとは、一致しなかったとお聞きしました」
「どこでそれを……」
「であれば、もうひとつの可能性を考えなくてはなりません。――メルモット嬢は、別の毒で殺されたのだと」
「別の毒?」
レストレード警部はまるで、まともに取り合う価値もないと言わんばかりに鼻白んだ。
「バカな。それこそ根拠のない妄想でしょう」
「まあ、とりあえずわたくしの話を最後までお聞きください。……さて、もうひとつお聞きしたいのですが、メルモット嬢の死亡推定時刻は何時ごろになりますか?」
「彼女が儀式を終えた十一時以降から、遺体が発見されるまでの間と見ています」
「それは、メルモット嬢の目撃情報を加味しての推定ですね?」
「当然でしょう。十一時までは大勢が本人を見ているんですから」
やはり、検死から導かれた数字ではないらしい。
「では、その目撃情報を廃し、純粋にご遺体の状態だけから判断した場合は、何時ごろになりますか?」
「解剖医の見立てでは、午前十時前後から正午すぎまで。ただ、誤差を見れば九時半ごろまでさかのぼる可能性があるそうだ」
今度はメグレ警視が答えた。
盟杯は九時半ごろに始まり、十二時半ごろに終わっている。その後、昼休憩を挟んで各家の献上が続いた。最短で九時半ごろとなると、死亡推定時刻そのものには思っていた以上に幅がある。
「つまりご遺体の状態だけなら、その前から死亡していた可能性を否定できない、と」
「そうなるが……しかし、実際にメルモット嬢は目撃されている」
「ならば、その目撃証言は本当に信頼できるのか、そこを検証したいと思います」
「信頼もなにも、あれだけ大勢が目撃しているのですよ。あなた自身もそのひとりでしょう」
「ええ。ですがわたくしには気になっていることがあります」
まず確かめたいのは、わたしが一番最初に感じた違和感のことだ。
「ダイトンさん。昨日、メルモット嬢がどのような香水をお使いだったか、ご存知ですか?」
「はい。ドレスと装飾品が金木犀をモチーフにしたものでしたから、それに合わせて金木犀の香水をお選びになっていました」
「ですが、わたくしが献酌のときに感じた香りは違いました」
ワインを注ぐため、あのときはかなり近くまで寄っている。あれほど近ければ、漂ってきた香りそのものを取り違えたとは考えにくい。
「甘い花の香りの奥に、柑橘の皮を思わせる爽やかさのある香りでした。金木犀特有の、熟した杏のような甘さとは特徴が違います」
「香水を変えただけでしょう」
「それは難しいと思います。すでにつけていた香水は、あとから別のものを重ねたからといって消えるものではありません。むしろ、ふたつの香りが混じるはずです」
「それに、お嬢様はほかの香水なんて持ちこんでいらっしゃいませんでした」
エライザがすぐさま口を挟んだ。
「昨日お持ちになったのは金木犀の香水だけです。お嬢様のお荷物をお調べになったのなら、警察の方もおわかりになるはず」
レストレード警部が視線を向けると、メグレ警視もうなずいた。
「別の香水は出ていない」
短く答えたメグレ警視に、レストレード警部はわずかに顔をしかめた。
「しかし、たかが香りだけで別人だと? しかも、あなたたったひとりの証言で」
「そうは申しておりません。ここまではまだ仮定です。……さて、昨日のメルモット嬢は、大華風の化粧をなさっていました。これについては、すでにダイトンさんから証言があるはずです。くっきりしたアイブロウに、赤いアイシャドウ、鮮やかなリップ。これは我が国の伝統的なナチュラル志向の化粧とは明らかに違います。あちらの化粧は、ひとりひとりの顔立ちをそのまま活かすというより、一定の理想へ近づけるように整えるものなのでしょう」
「つまり、変装に向いていると?」
「ダイトンさんは、大華風の化粧をするとメルモット嬢と見間違えるほどだったとお聞きしました」
エライザはサッと青ざめた。
「まさか……わたしがお嬢様に変装していたと?」
「いえ、そうは申しておりません。ただ、似た体格と顔立ちの人間ならば、彼女に変装できた可能性があるということです」
香りの違いだけなら、わたしひとりの記憶にすぎない。大華風の化粧も、それだけなら流行を取り入れただけですむ。
けれど、ふたつ重なると、さすがに偶然で片づけるには引っかかる。
警部はまだ納得していない顔だった。
「香水が違って、化粧が濃かった。それだけで、盟杯にいたのが別人だと言うつもりですか?」
「ですから、仮定です。仮に、あの人物がメルモット嬢ではなかったとします。そうすると、当然ひとつ問題が出てきます」
「――本物のメルモット嬢はどこにいたのか、ですね」
すかさずホームズが口を挟んだ。
詳しく言わずとも、こちらの意図を拾ってくれる。この場では一番話が早い相手かもしれない。
「ええ。同じ人物が同時に別の場所で目撃されていれば、警察も入れ替わりを考えるはずです。それがなかったならば、考えられる可能性はふたつ。本物のメルモット嬢はどこかに監禁されていた。もしくは、彼女もまた別人に変装していた」
「どちらだと考えるのです?」
「ここで少し、別のお話をさせてください。昨日の朝、盟杯が始まる前のことです。わたくしどもの控え室へ、ひとりの侍女がお茶を運んできました。分厚いメガネをかけていて、髪は濃い茶色でした。あのときは王宮の者だと思っていましたが、あとで確認すると、彼女が持ってきた茶器がおかしかったのです」
「どんなものだったんです?」
「青花磁器のポットです。中身は桂花茶でした」
警部が首をかしげる。
「それがなにか?」
「王宮で使われている正式な茶器ではなかったようなのです。通常は白磁に金縁、王宮の紋章が入ったものでした」
「……それは確かなんですか?」
「配膳室の使用人に確認したので、間違いございません」
レストレード警部はメグレ警視と顔を見合わせた。
「その件は、こちらでも確認しておきましょう」
「お願いいたします。……その侍女は、ずいぶん熱心にわたくしへ茶を勧めてきました。そのときのわたくしは、盟杯の手順を覚えることに手いっぱいで、お茶を飲む気分ではなかったのです。しかし、わたくしが飲まずにいると、自ら毒見までしてみせたほどでした」
「毒見を?」
ジェーンが目を見開く。
「ええ。それでかえって不審に思って、わたくしはそれを飲みませんでした」
「ひょっとして、その茶に毒が入っていたとでも言うつもりですかな? あなたも毒殺されかけたと。しかし、その侍女が毒見をしたのなら、普通の茶だったのでは?」
「それを確かめるためにも、これの中身を調べてほしいのです」
わたしはポケットから真鍮の預かり札を取り出した。
「その札は?」
「西客殿の入り口近くにあった植木鉢の、名札の裏に隠されていたものです」
「……なぜ、警察に知らせなかったのです」
「ここへ来る途中で見つけたものですから。ちょうど警察の方々にお会いするところでしたし、そのまま持ってきたほうが早いと思ったのです」
「なるほど」
嘘も方便というやつである。
この言い訳ならば、警察もそれ以上を追及する合理的な理由がほぼないはずだ。
それに、この小客間は西客殿にあるので、我々の控え室から向かえばちょうど植木鉢の前を通る。動線としても不自然ではない。
「これに対応するクロークの中身を、今すぐ確認していただけませんか? わたくしの予想が正しければ、そこに事件の謎を解く鍵があるはずです」
「わかりました。……確認してこい。中身はそのまま持ってきてくれ」
「承知しました」
預かり札を受け取った警官が、部屋を出ていった。
「それで、なにが出てくるとお考えなんです?」
「まずは現物を見てからにしましょう。違っていたら、わたくしの仮定もそこで終わりですから」
「ずいぶん自信がおありに見えますがね」
ルパンに頼み、すでに中身は確認しているのだから、そう見えるのも当たり前の話だった。
待っているあいだ、小客間には落ち着かない空気が漂っていた。
エライザは何度もこちらをうかがっているし、ヴェンディス令息は腕を組んで黙っている。ファルコナー侯爵は考えこむように口を閉ざし、夫人が落ち着かなげに寄りそっている。ファルコナー嬢は指を何度も組み直し、バーン夫妻は事情が呑みこめないようすで、ただ話の行方を見守っていた。
ベッシーが、すがるような顔つきでこちらを見る。わたしがうなずき返すと、少しほっとしたように表情を緩めた。
それほど長く待たずに扉が開き、小ぶりな革製の旅行ケースを持った警官が現れた。
「警部、お待たせいたしました。こちらが六十二番に預けられていた荷物です」
「昨日から預けられたままなのか?」
「はい、返却の記録はありませんでした」
レストレード警部はケースを受け取って卓上へ置くと、留め金を外した。
中から現れたのは、青花磁器のティーポットだった。白地に藍色で描かれた花唐草模様には見覚えがある。
「やはり。昨日の朝、あの侍女が持ってきたものと同じものです」
「しかし、ただのティーポットでしょう」
「警部、なかの構造を確かめていただけますか?」
レストレード警部は手袋をしてから、ポットの蓋を開けた。
しばらくじっとなかを覗きこんでいた彼の表情が、驚きに染まっていく。
「これは……なかが左右に仕切られている」
「なるほど、『暗殺者のティーポット』ですか」
ホームズはすぐさま事態を呑みこんだようだった。
さすがメインヒーロー、話が早くて助かる。
「なんだそれは?」
「ご覧ください。取手に、小さな穴がふたつあるでしょう。それぞれが、左右の部屋に繋がっています」
ホームズはポットを少し傾け、取手に空いたふたつの穴が見えるようにした。
「片方の穴を指でふさぐと、そちらには空気が入らなくなる。すると、その部屋の液体は注ぎ口から出てきません。逆に、穴を開けてある側の液体だけが流れ出す」
「……つまり、同じポットから、ふたつの飲み物を注ぎわけられる?」
「そのとおりです。どちらの穴をふさぐかで、中身を選べる仕組みですよ」
「……では、モリアーティ嬢の控え室を訪れた侍女は……」
「おそらく、このポットには安全な茶と、そうでない液体が入っていた。毒見と称して自分には安全なほうを注ぎ、彼女にはもう一方を飲ませようとしたのでしょう」
「まさか、毒殺か」
「詳しいことは、このティーポットを分析してみないことには。ただ、可能性はあるでしょうね」
レストレード警部は、先ほどまで胡散臭そうにしていた表情をサッと引きしめると、部下にいくつか指示を飛ばした。
ティーポットはこれから成分分析にかけられることだろう。そこは警察に任せるほかない。
「ところで警部。わたくしは先ほど、このティーポットには桂花茶が入っていたと言いましたね?」
「え、ええ。それがなにか?」
「しかしいま思えば、お茶だけでなく侍女自身からも桂花――つまり金木犀の香りがした気がするのです」
「金木犀の香り? まさか……」
「それだけではありません。彼女は腰の留め具から、半円の鏡を下げていました」
そこまで言うと、ホームズがハッとしたように声をあげた。
「メルモット嬢のご遺体が握っていた鏡か……!」
「そうです。そこで、わたくしはこう仮説を立てます。――わたくしの控え室を訪れた臨時侍女、彼女こそ変装したマリー・メルモット嬢だったのではないか、と」




