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モリアーティ公爵令嬢の終局的推理  作者: 国枝桜子
第一章 王宮毒殺事件

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忘られぬ事故

 ベッシー・リーが待機している合同控え室へ向かう途中、男の怒鳴り声が聞こえてきた。


「だから、責任者を出せと言っている!」


 事件現場に近い小応接室の前からだった。

 昨夜から臨時の警察詰所として使われているらしく、書類を抱えた警官が慌ただしく出入りしている。扉の脇には制服警官が控えていた。


 その入り口を塞ぐように立っているのは、メルモット子爵だった。

 粗く厚い髪と、頬を覆う髭が目を引く大柄な男だ。濃い眉の下の大きな目で警官を睨みつける姿は、黒いフロックコートをまとっていても、貴族というより商会を支配する豪商に見える。

 黒絹のベストからは太い絹の時計紐が垂れ、指には大ぶりの黒瑪瑙をはめた印章指輪が光っていた。


「昨日から同じ返事ばかりではないか。容疑者までいるというのに、なぜ犯人だと発表できん!」

「申し訳ございません。捜査の内容につきまして、わたくしからは――」

「君では話にならんと言っているんだ。娘の縁談のために、こちらがどれほどの金と手間をかけてきたと思っている。あの子を通じて結ぶはずだった家々との話は、これでなにもかも台無しだ。そればかりか、昨日から商会には取引先の使いがひっきりなしに押しかけている。午後の相場に響かないよう、せめて正午までには犯人の名を公表しろ!」


 子爵の隣では、メルモット夫人が苛立たしげに扇を動かしていた。

 ふくよかな色白の婦人で、艶を抑えた黒絹のドレスには百合模様の黒いレースが重ねられている。胸もとには大ぶりの黒瑪瑙でできた百合のブローチ。扇が動くたび、濃厚な百合の香水がこちらまで漂ってきた。


 服装と装飾品、それから香水のモチーフを統一させるのがミステリカの伝統ではあるが、それにしても香りが強すぎるのではないだろうか。


 娘が殺されたのはつい昨日のことだというのに、もう喪装には一分(いちぶ)の隙もない。ひと晩のうちに、屋敷から一式を取り寄せたのだろう。


 大きな目以上に印象に残ったのは、きれいに結いあげられた髪だった。艶やかな濃茶は、チョコレート色をしていた娘の髪よりも、いくらか黒に近い。だが、昨年の夜会で見かけた時にはもっと色あせていて、ところどころ白いものが混じっていたはずだ。

 どうやら、今年は染めているらしい。


「犯人がわからないままでは、娘にも恨みを買うような事情があったのではないかと噂されますわ」


 夫人は扇を閉じると、その先を警官へ突きつけた。


「王宮で殺されたというだけでも、どれほど外聞が悪いことか。わたくしたちが社交界でどのような目で見られるか、警察はお考えにならないの?」

「ですから、わたくしどもにはお答え――」

「ならば、答えられる者を呼べ!」


 メルモット子爵が、警官の説明をさえぎる。


「メグレ警視でも警察総監でも構わん。今すぐ責任者をここへ連れてこい!」

「――お呼びですか、メルモット子爵」


 扉の奥から低く落ち着いた声がした。


 現れたのは、濃い灰色の三つ揃いをまとった、すらりと背の高い男だった。やや無造作に後ろへ流した灰褐色の髪には、こめかみのあたりにだけ白いものが混じっている。

 ネクタイはわずかに緩み、目元には徹夜の疲れがにじむ。それでも、太い眉の下の緑がかった灰色の目は、抜け目なく相手を観察していた。


 ジョルジュ・メグレ警視――『霧ロマ』では、現場叩き上げの刑事としてジェーンを導く攻略対象の一人だ。

 今世で見かけるのは初めてだけれど、実物は立ち絵の印象よりも肩幅があり、意外と筋肉質だ。なるほど年長枠だけあって、疲れた姿まで妙に様(さま)になっている。


「現場の指揮を執っております、メグレです。お話なら私がうかがいましょう」

「ならば説明してもらおう。いつまで我々を待たせるつもりだ」

「捜査は進めています。ただし、公表できるのは確認の取れた事実だけです」

「その確認に、あと何時間かかると聞いている!」

「それを申しあげられる段階ではありません」


 メグレ警視は、子爵の剣幕にも表情を変えなかった。


「ご令嬢の名誉を損なうような、根拠のない情報を警察から発表するつもりはありません。ですが、商会の都合に合わせて、犯人の名を決めることもできません」

「誰がそんなことを言った!」

「午後の相場に響く前に発表しろと、今しがたおっしゃっていましたので」


 あくまで静かな返答だったが、メルモット子爵の顔がみるみる赤くなっていく。


「もういい、警察総監に直接話す。このような捜査を許している責任を――」

「その必要はありません」


 今度は廊下の向こうから声がした。

 周囲の警官が一斉に背筋をのばす。


 こちらへ歩いてきたのは、メグレ警視よりもさらに背の高い男だった。

 艶のある黒髪をひと筋の乱れもなく後ろへ撫でつけ、細身の身体に沿う濃紺のフロックコートをまとっている。銀のボタンには警察章が刻まれ、立ち襟と袖口を縁どる細い銀線が、その地位の高さを示していた。


 整った顔立ちのなかでも、水気を帯びた淡い灰色の瞳がひときわ目を引く。その瞳の色と、すっと通った鼻梁は、エルロック・ホームズとよく似ていた。


 バンクロフト・ホームズ――『霧ロマ』ではエルロックの兄として何度か登場した、王都警察の頂点に立つ人物だ。

 立ち絵ではもっと冷厳な印象だったけれど、実物の眼差しには意外なほど柔らかさがある。


 その後ろには、書類を抱えた秘書官が付き従っていた。わずかに丸まった背中が、腰の低さを表しているかのようだ。


「王都警察総監のバンクロフト・ホームズです。ご不満は、私が承りましょう」

「総監ならば話が早い」


 メルモット子爵は勢いを取り戻し、商会へ問い合わせが殺到していることや、家の信用に傷がつきかねないことをもう一度まくし立てた。

 バンクロフトは途中でさえぎらず、すべて聞き終えてから穏やかに答えた。


「子爵家が王宮に留め置かれているのは、捜査へのご協力をお願いしているためです。必要であれば、その旨を記した書面もお出ししましょう」

「では、犯人の発表は?」

「証拠が揃ってからです」

「今日中にはできるのだろうな」

「捜査を急がせることはできます。しかし、結論を出す期限はお約束できません」


 柔らかな口調ながら、それ以上の交渉を許さない響きがあった。


「新しい情報が入りしだい、こちらからお伝えいたします。それまでは、お部屋でお待ちください。……バウム、子爵家への連絡は君に任せる」

「承知いたしました」


 秘書官は一礼し、手もとの紙にペンを走らせた。

 メルモット子爵はなおもなにか言いたそうだったが、警察総監を相手に押し通すことはできないと悟ったらしい。

 苛立たしげに鼻を鳴らすと、夫人をともなって廊下の向こうへ立ち去っていった。


 夫妻の姿が奥へと消えていくのを待ち、メグレ警視が小さく息をつく。


「……やれやれ。娘を亡くした翌朝から、商売と外聞の話ばかりとは」

「そう言うな、メグレ。彼らはあくまで被害者遺族だ。こちらまで感情的に応じるわけにはいくまい」

「承知しております、総監。でなければ、最後まで黙って話を聞いてはいませんよ」


 夫妻の胸中すべてを、あの短いやり取りだけで決めつけることはできないだろう。

 それでも、メルモット嬢があの家でどんな役割を期待されていたかは、よくわかった。


「ところで、エルロックはまだ取り調べ中か?」

「はい。ヴェンディス令息と話しています」

「そうか。なら、終わるまで邪魔はしない」


 口調はほとんど変わらなかったが、弟の名を口にした時だけ、アイスグレーの目がわずかに和らいだ。

 一見すれば、部下に弟の働きぶりを確認しただけにも聞こえる。けれど、『霧ロマ』での彼を知っているわたしにはわかった。


 ……あれは単に、兄馬鹿を発揮しただけだな。


 わたしの呆れた視線に気がついたのか、バンクロフトはこちらを向き、静かに目礼した。わたしも礼を返し、その場をあとにする。

 こんなところで油を売っている暇はない。




 女性使用人の合同控え室へ着くと、女官に頼んでベッシー・リーを呼び出してもらった。

 ほかの使用人に聞かせる話ではない。近くの空き部屋を借り、フォーマンとフレデリックには扉の外で待ってもらうことにした。


「お呼びとうかがいました。わたくしに、どのようなご用でしょうか」

「突然呼び立ててごめんなさい。故ヘレン・バーン嬢について、いくつかうかがいたいことがあります」


 その名前を聞いた瞬間、ベッシーの表情がわずかに強張った。


「……お嬢様は、二年以上前に亡くなっております。なぜ、今になって?」

「昨日亡くなったメルモット嬢が持っていたネックレスに、ヘレンという名と、建国暦九三七年十月十四日の日付が刻まれていました」

「……どのような品でしょうか」

「金木犀をかたどったパリュールです」


 ベッシーはすぐには答えなかった。

 膝の上で重ねた両手へ視線を落とし、しばらく考えてから口を開く。


「それは、間違いなくヘレンお嬢様のものです。ですが……なぜ、ライヘンバッハ公爵令嬢がそれをご存じなのですか」

「そのパリュールは遺体から持ち去られ、別の場所で見つかりました。ライヘンバッハ公爵家も事件への関与を疑われておりますから、わたくしも独自に調べているのです」

「……つまり、疑いを晴らしたいと」

「それは否定しません。けれど、わたくしが知りたいのは、こちらに都合のよい話ではありません。メルモット嬢がなぜバーン嬢のパリュールを持っていて、それがどうして現場から盗まれたかです」

「それが、事件に関係するとお考えですか」

「まだわかりません。ただ、故人の名が刻まれた品を誰かが隠したのは事実です。無関係と切り捨てるにしても、由来を知らなければ判断できないでしょう」


 ベッシーは探るように、わたしを見つめた。


「お話ししたことは、公になるのでしょうか」

「事件と関係のない私事を、みだりに公表するつもりはありません。ただ、犯人を突き止めるために必要なことまで伏せるとは、お約束できません」


 耳当たりのいい約束で安心させることはできるが、それでは彼女の信頼は得られないような気がした。

 わたしは少し間を置いて、言葉を継いだ。


「もしこのパリュールが犯人へ繋がるものなら、あなたが何も話さないことで、結果として犯人を助けることになりかねません」

「……そのようなことは望んでおりません」


 彼女は組んだ手に一度力をこめると、やがて静かにうなずいた。


「わたくしが存じていることだけでよろしければ、お話しいたします」

「ええ。わからないことは、わからないとおっしゃっていただいて構いません」


 ベッシーはひとつ息をついてから、ゆっくりと語りはじめた。


「ヘレンお嬢様とマリー様は、学校で同じ級になったことをきっかけに、親しくしておられました。その後、バーン家の資金繰りが苦しくなり、お嬢様はメルモット子爵へ融資をお願いするため、マリー様に取り次ぎをお願いなさったのです。あのパリュールは、その折にマリー様へお預けになりました」

「担保として?」

「はい。どのような言葉でお渡しになったのかは、お二人だけのことですので存じません。ただ、ヘレン様はそう話しておられました」


 メルモット子爵からの融資は、利率だけを見れば相場を外れていなかったが、実際に渡されたのは利息と手数料を差し引いた額で、返済期限も短かったそうだ。

 だが、すでに取引銀行から追加融資を断られていたバーン家は、それでも頼るほかなかったという。


「その後、ファルコナー家からの支援で借入金を返せることになり、お嬢様はマリー様にパリュールの返却をお願いいたしました。ところが、マリー様は返してくださらなかったそうで……それから、お二人は疎遠になってしまわれたのです」

「では、バーン嬢はそのことでメルモット嬢をお恨みになっていた?」

「いいえ、そのようなことは決して。お嬢様は心の優しいお方でした。事故の日にも、仲直りのためにメルモット家のお屋敷をお訪ねになっていたのです。パリュールを返していただく代わりに、手鏡を贈るおつもりで」

「どのようなものだったのですか?」

「たしか、小ぶりの丸い手鏡で、金木犀と満月があしらわれていました」


 ここでも金木犀か。

 金木犀のパリュールと引き換えるためだから、同じモチーフのものにしたのだろうか。


「しかし、結局マリー様にはお会いできませんでした。メルモット家のダイトンさんが応対に出て、『お嬢様はいらっしゃいません』と追い返されてしまったのです。ヘレンお嬢様が取り次ぎをお願いしても、それ以上は応じていただけませんでした」

「取りつく島もなかった、と?」

「そのように見えました。お嬢様はしばらくなにごとか考えたあと、鏡の土台から鏡面だけを外しました。それをハンカチに包んで二つに割り、片方を土台へ戻すと、もう片方をダイトンさんへ差し出して――『では、これをマリーに渡してほしい』と」


 そこでふと、事件現場の写真を見た時のことを思い出した。


「そういえば……メルモット嬢のご遺体は、手に鏡を握っていました」

「鏡を?」

「ええ。丸い鏡を半分に割ったような形でした」

「では、ダイトンさんはあれを渡してくださったのですね……」


 安堵とも悲しみともつかない色が、ベッシーの顔に浮かんだ。


「なぜ、鏡を二つに割ったのでしょう?」

「わかりません。帰り道で、腹を立てておられるのですかとお尋ねしたのですが、お嬢様はこうおっしゃいました」


 ――そういうことじゃないの。

 ――この鏡だけは、どうしてもマリーに渡さなくちゃ。


「それ以上の意味は、わたくしにもわかりません」

「その後、メルモット・パーク駅で事故が?」

「はい……。あの日は、ひどい風で。警察の方も、それで足をもつれさせたんじゃないかって……」


 ベッシーは指の先が白くなるほど強く手を握った。


「申し訳ございません。わたくしは駅員と話すために、お嬢様のおそばを離れておりました。肝心な瞬間を見ていないのです」


 新聞に載っていた証言と同じだ。

 これ以上は聞いても答えられないのだろう。


「わかりました。では、別のことをうかがいます。現在、警察に疑われているヴェンディス令息は、バーン嬢と面識がありましたか?」


 ベッシーはすぐには答えなかった。

 唇を引き結んで視線をさまよわせたあと、静かに口を開く。


「……お二人は、かつて婚約しておられました」


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